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あの日、僕は(一)

   一 この日、若槻亜衣は涙した


 あまりに突然のことだった。
 朝の東京駅は混雑している。案内板の前で渕上風花はぽつねんと、一人佇んでいた。さっきから目の前をたくさんの人が行き交って、肩身が狭い。待ち合わせ相手が早く来ないだろうかと思った。
 風花はどうにもぼんやりしてしまう。これから電車に揺られ向かう先ですることがなんだったか、うっかりすると忘れる。それくらい、信じられない事実が舞い込んできたのだ。
「ふうちゃん」
 聞き馴染みのある声がして意識がはっきりした。すぐ傍に大学の同期、澁谷小絵が来ていた。軽く手を振って、風花に寄り添う。周囲の喧騒から逃れるように。
「すごい人だね。毎日、こんななのかな」
「うん、きっと。オフィス街だから、平日はとても混むんだろうね」
「人の波に流されそうだった。ふうちゃんをちゃんと見つけられてよかった」
 小絵は縁のない眼鏡の奥の瞳を細める。
 風花は背が低い。小絵も特別高いわけではないけれど、女子の中では平均的だ。人混みの中から自分を見出すのは骨が折れたろう、と風花は当たり前のことみたいに思った。
「じゃあ、行こうか」
 互いの全身黒の服装に目を留めて、声を落とした。力なく頷く。この服装では、嫌でも今日の目的を思い出してしまう。
 人の死に触れて、喪に服すための色を身に纏っている。この世に生を受けてから二十一年、人並み以上の不幸を背負い込んでいる人生ではないけど、これまでに知っている誰かの訃報が舞い込んできた経験はある。しかし、それは親戚とか、とにかく、かなりお歳を召された方々で、悲しいは悲しくても、立派に生き抜いたのではないかな、と思えるものだった。
 だけれど、今回は異なる。身近な、さらに言えば自分とそう年齢の変わらない存在を失ったのだ。最初にその連絡を受けたとき、肩を落とす、というよりも、思考が停止し、そして抑えが利かなくなってしまったみたいにしてぽろぽろと涙がこぼれた。止まらなかった。頬を拭っても、拭っても、水は引かなかった。
 亡くなったのは風花の大学の一年先輩、桜井達也という男だった。平素は物静かで、話し方も穏やかな人だ。同じ学部、同じ中国文学をゆるく研究しているサークルに所属していることもあって、それなりに話す機会も多く、それなりに仲のいい関係を築けていたのではないかな、と風花は感じていた。
 でも、違った。
 その思いを覆されたのは、達也がなんの前触れもなしに、突然命を絶ったからだ。自らの手で。と、聞いている。詳しい経緯はまだ分からない。それなりに彼のことを知っているつもりでいたというのに、ちっとも分かっていなかった。それとも、誰かが自ら命を絶つときなんて、得てしてそんなものなのだろうか。
 風花と小絵は京葉線に乗り込んだ。空いていた席に並んで座り、関係のないことをぽつぽつと話した。当たり障りのない内容を、思いつくままに。窓越しに見える風景は次々に流れた。無感動に、その情景を捉える。喋りながらも、互いの胸にはたくさんの「どうして」が渦巻いていた。どうして。どうして。どうして。
 笑いは起きないけど、黙り込むことはなかった。沈黙は訪れたら、その空気に堪えられない、そんな予感がしたから。

 ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がする。電車は県境を越えて、千葉県に入った。電車が目的地に到着すると、風花と小絵はホームに降り立った。都内だとどこの駅も似通っているきらいがあるけど、ここは広告も駅の寂れ具合も言ってみれば異世界のものだ。見慣れない光景に目をしばたたく。
 達也さんはこんなところから大学に通っていたのか。風花は思った。時間ももちろんかかるけれど、それ以上に空気感の違いが顕著だ。行ったり来たりを繰り返すことで、自分がそのときにいる場所を強く意識していたのかもしれない。
 達也の柔和な笑い顔を思い出す。彼はいつも穏やかに微笑んでいた。この静かな町を見据えると、彼があの性格をしていたのも理解できる。
 そんなことを考えても、本人に確かめる術はもうない。達也さんはもう――。ほんとうに、今をもってしても信じられないのだけれど。
 駅から斎場までとぼとぼと歩く。時間に余裕を持たせてきたから、焦らなくても大丈夫。二人は作法などを確かめながら、通りを一歩ずつ踏みしめていく。時折吹く風はまだひんやりしていた。三月も後半、冬は終わりを迎えつつあるけど、春の頭は涼しげ。
 斎場の雰囲気はいかがなものだろう。不慮の事故でも突発的な病でもない死、それをどう受け入れているのだろう。人は最終的に死ぬのだし、どんな死に方を迎えるのであれ、命の価値はすべて等しかったというのに、死に方についてはあれこれ言われる。達也は特にあれこれ言われやすい方法で――いや、故人の評を下すのは控えよう。風花は首をふりふりと振って、思考を停止させた。
 斎場が見えてきた。電信柱に立て掛ける形で、

  桜井家斎場 こちら↓

 という看板が出ていた。その矢印が指し示す先には、意外にも近代的な造りの建物があった。最近のお葬式は案外、システマチックなのかもしれない。
 自動ドアから中へ入り、案内に従って階段を上がる。上がった先に受付があって、そこで記帳を済まし、香典を納めた。
 よく、人が死ぬドラマや映画なんかで見る光景が目の前に現れた。整然と並んでいる参列者たち、その向こうには悲しみに暮れるご遺族、そして花に囲まれた故人の遺影。柔らかく微笑んでいるのは、ほかの誰でもない、達也。風花は胸が詰まる思いがした。ああ、あなたはほんとうに……。
 ご愁傷様です。
 付き合いが続けば、いつか遺族にこの言葉を告げる日が来たかもしれない。それでも、こんなに早いとはちっとも考えなかった。
 遺影をまっすぐに見つめる。何度見ても、桜井達也だ。また、どうして、が去来する。

 ――危機的状況に立ったとき、絶対に助けてくれると言い切れる存在って、誰も持ち合わせていないのではないかな。
 飲食店の片隅、食後の紅茶を口に運びながら、彼が言っていた言葉を思い起こす。焼き付けられたその表情とともに。
 あの日、達也がほんとうに語りたかったこと。伝えたかったこと。
(私は、なんらかのサインに気づけなかったのかもしれない。達也さんが発していたサインに)
 こんなことを胸の内で密かに考えてしまうほど、風花が最後に達也と会っていた日は、達也の死ぬ直前だった。でも今はまだ、そのことを誰にも、隣にいる小絵にも話せずにいる。風花は思う。今日、ここに来たのは、彼が伝えたかった言葉を確認するためだったのかも。もう、語る口を持たないというのに。
 焼香を済まし、整然と並べられた椅子たちの後方に腰を下ろす。その間も御経の読まれる声が続いていて、すでに座っている人たちは数珠を持った手を合わせていた。目を瞑り、前方に意識を向ける。
 焼香の際に間近で見られた達也の遺族は三人。父親と母親、それに妹がいた。風花は三人とも初対面だった。妹がいることは、本人からたまに聞いていた。似てない、と照れ臭そうにかぶりを振っていたけれど、ほんとうに似ていなかった。でも、人となりというか、雰囲気は、なぜかやっぱり兄妹なのだな、と思わせるものがあった。なぜか。
 御経は途切れることなく読まれる。しめやかな空気の中で達也の遺影を見つめていた風花の頬を、一筋の涙が伝った。

 出棺の直前になって、達也にお別れの言葉を告げることになった。参列者が順番に棺の中を覗いて、小さな声で言葉をかけていく。風花と小絵はやはり、その最後尾に連なった。待っている間に気づいたが、大学で何度か見た憶えのある人が何人か来ていた。見憶えがあるだけで、名前は出てこない。達也と生前親しかったのだろう。
 渡された花を一輪、棺の中に入れる。それから、達也の顔を覗き込んだ。その顔は化粧が施されて、とても綺麗だった。こういうお別れの言葉の機会を設けるくらいだから、綺麗なまま亡くなったのかもしれない、とは考えていた。だけど、実際は予想以上に綺麗で、でも生気がまるでなかった。どんなに表面が装われても、生きているかどうかは見た瞬間にはっきりと分かってしまうのだ。
 風花と小絵は両手を合わせながら、囁きかけた。
 達也さん。
 二人とも、名前を呼んだだけで、それ以外になにを言ったらいいのか分からなくなってしまった。伝えたいことも、確かめたいこともたくさんあったと思っていたのに。
 さようなら。
 別れの言葉だけ棺の中に落として、ついと視線を逸らした。少し離れたところでこちらの様子を窺っていた遺族に頭を下げ、お棺から立ち去った。
 それが二人にとって桜井達也の姿を見た最後になった。

 外は晴天に恵まれていた。少し風が冷たい。風花と小絵は案内に従って、ほかの参列者と一緒に屋外に出ていた。
 甲高い音を響かせながら霊柩車が走り出す。達也はあっという間に遠ざかっていく。また、涙が瞼からこぼれた。静かに合わせていた両の掌に覚えず力が入る。
 霊柩車が見えなくなると、告別式がこれまでであることをアナウンスされた。風花と小絵は目を合わせ、軽く頷いた。互いに、目が赤く腫れていると感じた。最寄り駅まで歩き出す。
 無意識のうちに行程の半分程度まで進んでから、今自分は幽霊みたいな足取りをしているのだろうか、と風花は考えた。きっと、そうだろう。ふわふわしていて、地に足がついていない感覚。今までの積み重ねから、機械的に両足を交互に出すだけ。
「ふうちゃん」
 小絵が風花に話しかける。前を向いたままで、その横顔は無色透明な表情を浮かべていた。
「うん」
「この後、どうする?」
「うん……帰ろうかな」
 拘束されていた時間は短かったのに、なんだか疲れていた。
「そうだよね」
 小絵も帰ることにしたようだ。大学は春休み期間で授業はない。ただ、二人は就活生だから暇ではない。それでも、今日はなにもする気が起きなかった。
 駅が見えてくるまでこの街の印象を話した。式に来ていた見憶えのある人たちの話もした。その胸中では、どうしてこんなことに、が幾度も行き交っていたというのに、二人とも口にはしなかった。
 経験したことないことを経験したときって、結局は普段している行動を同じようになぞることしかできない。そんなことを思い、風花は遥か先まで見晴るかせる空を眺めた。ひどく透明だった。

 眠っていたらしい。意識を取り戻し、目を開くと、もうすぐ降りなければならない駅だった。隣の座席に目をやると、こちらも眠っていた小絵がもたれかかってきていた。危うく、二人揃って寝過ごすところだった。安心の息を漏らしてから、風花は小絵を揺り起こした。
 お昼どきの車内は空いていた。車窓から射し込む温かい光が眠気を誘う。時間がのんびりと流れる、長閑な空気感。
「もう、着く?」
 小絵が尋ね、風花は頷き返した。ずり落ちている眼鏡を指の腹で持ち上げて、お腹空いたね、と小絵は呟いた。小絵にそう言われ、風花も空腹であることを意識した。
「お昼ごはん、どこかで食べる?」
「うん、そうしようか。どこにしよう?」
 行き先が決まる前に電車は東京駅に達してしまう。二人は慌てて降り、周囲に急かされるようにしてホームを歩き、改札へと向かった。ほんとうは行きと同様、ここで乗り換えないといけないのだけれど、暗黙の裡にこの駅で食べよう、という考えを共有した。
 東京駅周辺はオフィスビルが建ち並んでいる。数時間前の光景に思いを馳せ、都会に帰ってきたのだと実感する。通りの向こうには皇居が薄っすらと見て取れる。
 歩きながらよさそうなお店を探した。優柔不断のきらいがある女子二人、なかなか決まらなくて有楽町駅近くまでたどり着いてしまった。そこで見つけた中華料理のお店に惹かれ、二人は入ることにした。
 店内は混んでいた。店員さんに二名だと伝えると、少し待つように言われた。空席があるようだが、予約席なのだろうか。
 やがて、席に案内された。数分待たされただけだった。木製の椅子に腰かけ、渡されたメニューを広げた。風花はワンタン麺を、小絵は海鮮チャーハンを、それと小籠包を注文した。冷たい水を口に含むと人心地ついた。
「ちょっと、疲れたね」
 思わず、といった感じで風花が漏らした。
「うん。独特な張りつめているものがあった」
 誰かが亡くなったときの、あのどうしようもない気持ち、きっといつまでも慣れないのだろうな、小絵はそんな風に言葉にした。
「ほんとうに、突然だったね」
「連絡が来たときは、目を疑った」
 達也の死は、彼の家族からサークルの代表に伝えられ、その人は達也と特に親しかった人物すべてに、個別に連絡をした。その中に風花と小絵が含まれていて、通夜と告別式の日程を教えてもらった。連絡を受けたほとんどが前日にあった通夜に参列したそうだ。どうしても都合がつかなかった風花と小絵だけは、今日の告別式に参列した。という、次第だった。
「どうして」風花は初めて実際に口にした。どうして、を。「どうして、自ら……。これから社会人になる、というときに」
 小絵は眉根を寄せた。「詳しい情報がないから、勝手な憶測はできないね」
 できないのは可能・不可能の問題でもあり、倫理的に差し控えたいという意味合いも孕む。
「小絵ちゃんが最後に達也さんに会ったのは、いつ?」
 小絵は顎に手を当てて、「二月の終わり、茅穂が最後」
 茅穂は神奈川県の中都市で、港町である。
「それなら、私と一緒だ」
 茅穂で仲のいい何人かで集まり、ぶらりと街を巡った。その際に小絵だけでなく、風花もいた。
「あの日、特に達也さんの様子がおかしかった、なんてことはなかった、気がする。分からないけど」
「ううん。小絵ちゃんの言うとおり、私もいつもどおりだと感じてた。就職先の話もちらっとしてたし」
 達也は都内の公立図書館で働くことが決まっていた。
「そこから一か月、私は会ってないし、メールのやりとりもしていなかった。勉強が忙しかったこともあるけど」
 小絵は就職活動を一応しているが、第一希望としては現在通っている大学の院に進みたいと望んでいる。
 話している二人の元に、先に小籠包が運ばれてきた。湯気の中に八色の小籠包がかわいらしく置かれていた。すべて味が異なるらしく、風花と小絵はそれを順番に選んでいった。
「私も」
 就職活動中は企業などから山のようにメールが届く。説明会や選考の案内で、それを日々消化していくのに紛れて、プライベートな連絡を取ることが少なくなっていた。
「一か月の間になにかあったのか、それともそれ以前から決定的ななにかが動いていたのか。……いずれにしても、やっぱり憶測はできないね」
 小籠包の味はどれも個性的で、とてもおいしかった。悲しみに暮れていても、おいしいものを食べるとおいしいとちゃんと感じられるのは、生きているからだ。
「茅穂で焼き小籠包を食べたね。外側がカリッとしていて、あれもおいしかった」
「ふうちゃん」小絵は微笑んだ。「私も同じことを思い出してた」
 つまり達也も、あの日は焼き小籠包に舌鼓を打っていたのだ。
 互いに注文したものが運ばれてきた。しばらく食べることに集中し、過去を振り返るのは止めにした。黙々と咀嚼する。
 年が明けて、風花が達也と会った日は何度もあった。そのほとんどが大学のキャンパスで、それ以外となると三回だけ。風花はそう記憶している。一回はさっきも話題に出た茅穂でのことで、結果的にこれが達也に会った最後になった。その二週間前、二月の半ばに、雉町で食事をともにした。これも仲のいいメンバー六人くらいで、小絵もやはり一緒だった。
 そしてもう一回は一月の初め頃、大学の冬休みが明けてすぐのことだった。このときも雉町で食事した。ただ、この日は風花と達也の二人きりだった。達也が風花を誘い、場所も指定した。ちなみに、雉町は風花の家の最寄り駅だ。
 三回とも、達也はいつもの彼だったはず。しかし、なにもなくて人は自分から死を選ばない。なにかあったはずなのだ。どうにも、もどかしかった。
「そういえば勇くんは」食べ終わったタイミングで小絵が訊いた。「このこと、まだ知らないのかな?」
 風花は小首をかしげる。どうなのだろう。連絡の届かない場所ではないが。

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