箱に願いを(2)

 神楽坂の街を当てもなく巡っていると、小さな通りを入ってすぐの位置に、こぢんまりとしたカフェを発見した。町屋風の一軒家で、そこだけ都会の喧騒から隠れているようだった。
「素敵なお店」
 冬が興味を示している。メニューを眺めてみると、抹茶やパフェなど、どれもおいしそう。だけど――
「ちょっと、入りづらくないかな」
 中学生二人では、少し敷居が高いと感じてしまう。
「そうだね。また今度にしようか」
 冬も諦め、元の通りに引き返す。
 またぶらぶらと歩みを重ね、やがて飯田橋に達した。背の高い建物の合間に、幅の広いお堀が伸びる。私立大学もあって、先進的な街なのに、やっぱりどこか落ち着いている。この景色もいいな。
「あそこで、ちょっとゆっくりしようか」
 目についたファーストフード店を指し示すと、冬は首肯した。中学生には、あれくらいがふさわしい。
 飲み物とフライドポテトを注文して、二階席に上がった。店内は賑わっていて、そこまでゆっくりできそうではなかった。でも、ずっと歩きっ放しで、やっと座れることは大きい。
 向かい合って座ると、冬は満面の笑みを作った。
「真夏くん、今日はありがとう。付き合ってくれて」
「別に、おれも楽しかったし」
 袋の中の箱を意識する。購入したのは予想に反しておれだけだったのだ。
「今年は受験生だし、お互い忙しくなるのかな」
「まあ、それなりには、な。――せっかく楽しい思いしてきたのに、嫌なことを思い出させるなよ」
 すると、ごめん、と冬は悪びれもせず謝りの言葉を口にした。
「でも、気づいたら中学校の最高学年になっていたね。時間の経過は、夢を見ているよう」
「夢、か。確かに、ここまでの中学の思い出が実は夢でした、って言われても、受け入れられちゃうかも」
 それほど、感覚としてはあっという間に過ぎた。
「真夏くんは」
 冬がストローに口をつける。潤った唇が、次の言葉を紡ぐ。
「将来の夢とかあるの? やりたいこととか」
 改めてそう訊かれると、即答しかねる。おれは頭を掻いて、どう答えたものかと思案した。
「そうだな――具体的には、まだなんにも。勉強も運動も中途半端だし、何を目指せるのか……」
 でも、と一度言葉を切った。
「でも?」
「学校の先生になりたい、っていうのは、ちょっとある」
 初めて誰かに言った。将来の夢、と強く言い切れる願いではない。だけど、少しの憧れ。おれの父親は小学校の先生なのだ。
「へえ、先生か」
 冬はきらりと、瞳を輝かせた。
「ちょっと、いいかも、って思っているだけだけど」
「真夏くん、先生に向いていると思うよ。勉強をもう少しがんばったら、すぐになれるんじゃない」
「余計なお世話だ」
 冬は楽しそうに笑っている。
「それで、冬は」
「わたし? わたしの、夢?」
「そう。訊くくらいなら、何かあるのか?」
 だが、冬は深く考え込んでしまう。俯いた彼女の面差しは、冷たい、と形容できた。その豹変に、内心、焦りが生じる。
「わたしは」
 話題を変えようか迷っていると、ようやく冬が話し出す。さっきよりも強い光が、その双眸に宿っていた。
「わたしは、とにかくバリバリ働きたい。なんでもいいから、働いて、お金を稼ぎたい。あ、でも、できたら本に関わる仕事がいいかな」
 おれは言葉を失った。漠然としているようで、ちっとも安易な答えではない。
「意外だった?」
 喋らないおれに、冬は顔を近づけてくる。驚いて、少し身を引いた。
「うん。というか、夢って訊いて、そんな返しがくるとは思わなかった」
「ほんと? 真夏くんの意表を突くために、わざと間を空けたから」
 悪戯が成功して喜ぶ子どもみたいに、目を細める。いつものからかいなのだろうか。
 いや、たぶん違う。理由は上手く説明できないけれど、いつもの冬の言動とは、種類が異なる気がした。冬は何を考えているのか、底を見せないところがあって。その見えない部分で、もしかしたらいろんなことを考えているのかもしれない。
 ジュース片手に、冬は首を横に向け、窓の外をぼんやりと見つめている。その柔らかく瞬く睫毛に、透き通るような白い頬に目をやっていたおれは、あまりに真剣すぎる眼差しだっただろう。

 授業中は、教室の様子をじっと眺められる時間だ。席が後方にある、というのも大きい。普段、友達とはしゃいでいるときは、それぞれの顔しか見ていない。それでも、授業中は基本的に前を向いて、静かにしている。
 勉強に臨む姿勢は違うのに、同じであることを求められるのは酷だろうか。でも、そうでもしなければ、数多いる生徒たちに物事を教えることはできない。可能性を与えることはできない。
 黒板に板書された言葉だけじゃなく、先生が何気なく漏らした言葉までノートに写す人たち。受験生と言われる学年になって、真剣に取り組む人は増えた。さっと掲げられる手。投げられる質問。
 大人しくしている振りをして、本や漫画を読んでいる人。授業中は電源をオフにするのがルールなのに、スマートフォンをいじっている人。舟を漕いでいる人。
 おれは先生の話に耳を傾けつつ、周りをそれとなく観察している。おもしろい、というわけではないけれど、ただなんとなく見てしまう。
 冬は最前列に座っている。そうかと言って、質問するでもなく、ただひたすらに板書を写すだけ。勉強はけっこうできる方だった気がするけど、教室の空気に溶け込んでいるためか、優等生、というレッテルはあまり張られていない。
 学校では大人しくしている、というより、喋らなくなる。どうしてなのか、ほんとうの理由は上手く訊き出せない。おれがこうして不思議がるのは、おれに対してだけ、明るい表情を見せるからだ。
 よく分からない。友達は冬を透明人間扱いするけれど、おれには彼女の心の色が見えない。不透明で、鮮やかな赤を宿しているのか、暗く沈んだ青を蔵しているのか。
 ふと、斜め前に座る小嶺秋乃と目が合った。合った瞬間、小嶺は弾かれたように前に視線を戻す。たまに、小嶺がこちらを窺っているときがある。彼女とはそんなに話さないけど、まあまあ親しいかな。言葉遣いが丁寧で、いかにもいいところの娘といった風。
「東くん」
 一つ前の席の女子から、プリントを差し出されていた。小嶺に意識を持っていかれ、前方不注意になっていた。
「ごめん」
 詫びて、授業で使うプリントを受け取る。

 放課後になっても空は明るい。着実に日は伸びている。
 人のいない屋上に上がる。みんなが部活に励んでいる中、一人でのんびりするのが常だった。たまに冬が顔を見せるときもあるけれど、今日はどうだろう。冬にだって都合はある。
 寝そべって流れる雲を眺めると、静かな心を取り戻すことができた。大げさに笑ったり、じゃれ合ったりしていた時間が遠くなっていく。もちろん、それはそれで楽しいけど、同じくらい落ち着ける場所が欲しかった。
 雲は白、背景は青。形はいろいろで、なんだかどれもおいしそう。手を伸ばしたら届きそうな気がした。右手を上げ、伸ばす格好をしてみる。すると、その手を掴む柔らかい感触があった。真白な誰かの腕が目に入る。
 ぎょっとして、その腕の主をあらためると、にこやかに微笑む春海がいた。スカートが短くて、つい見てはいけない方を見てしまいそうになり、おれは慌てて起き上がった。
「春海か」
「ごめんね、驚かせて」
 向き合うと、目線を少し下げた位置に、彼女の二つの目。髪はナチュラルに波打っていて、明るい茶色だから、陽の光が透けてオレンジっぽい色に映った。
「ここ、好きなんだ」
 訊かれる前に言っておいた。
「街の様子が見えて、グラウンドで汗を流しているみんなの姿が見えて。でも、向こうからはたぶんこちらが見えない」
「動物園とか、水族館みたいだね」
「そういう言い方だと、あんまりいい感じがしないかも」
 二人で笑った。
「春海、どうして来たんだ」
「真夏くんが階段を上がっていくのを見かけたから」
 この学校でおれのことを、真夏くん、と呼ぶのは春海と冬だけ。男子は呼び捨てだし、ほかの女子は東くん、と苗字で呼ぶ。
「あのね、真夏くん」
 春海がおれの手を取って、ぎゅっと握った。ほんのり伝わる体温の熱。
「聞いてほしい話があるの」
 じっとおれの目の奥の奥まで覗き込んでくるような、眼差し。ごくり。喉が鳴ってしまう。
 一つの噂があった。だけれど、おれが敢えてそういう言い方をしているだけで、クラスや学校でまことしやかに囁かれている類ではない。冬が情報を持ち込んできて、出どころを確かめたら、噂を耳にしただけだよ、と返されてしまった。
 ――春海ちゃんには、好きな人がいるね。
 どういうシチュエーションだったか、詳しくは思い出せない。学校までの道の途中か、休み時間にお昼ご飯を食べているときか。台詞はありありと思い出せるのに。
 ――珍しいな。
 ――好きな人がいることって、珍しいの?
 ――そうじゃなくて。冬がクラスの人間に興味を示すなんて。
 ただ、春海ちゃん、と中学の同級生をちゃん付けで呼んでいる時点で、かえって隔たりを感じる。
 ――わたし、そんなに冷め切った性格じゃないよ。
 ――冷め切っているとは思ってないよ。なんていうか、話題にしないじゃん、ほかの人のこと。
 ――好きな人、誰だと思う?
 おれの話を遮って、問いかけてくる。
 実際、気になるところだった。自惚れでもなんでもなく、春海が最も親しくしている男子はおれではないかと踏んでいた。しかし、彼女は冬と違って明るく社交的で、学外にも友人が多いかもしれない。そうなると、考えようがない。
 ――真夏くんではないよ。残念。
 おれの思考を読み取ったかのように、冬は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
 ――真夏くんとけっこう仲いいものね。あながち、自惚れとかではないと思うよ。だけど真夏くんは、春海ちゃんの恋愛対象にはならない。
 彼女は同性愛者だから。冬がその言葉を慎重に選んだのが分かった。
 ――どうして冬が知っているんだ。
 冬の観察眼は鋭い。見ていて、閃くものがきっとあったのだ。それなのに冬は、
 ――噂を耳にしただけだよ。
 そうはぐらかした。
 改めて、目の前の春海を見据える。深刻そうな表情。何か、重いものを渡されるような気配がした。
「わたし、好きな人がいるの」
 予感的中。
「自分でもどうしたらいいかと持て余してしまうくらい、不思議に大きな想いで。夜な夜な、その人のことを考えていると、胸が誰かの手に押し潰されているみたいに痛くなって、このまま死んでもおかしくない、って思っちゃうの。
 最近は夜だけじゃなくて、学校に来ているときも少し痛むの。もう、一人で抱えているのは限界。誰かに相談したくてしょうがなかった」
 一気に喋って、一つ、息を吐く。
「ごめんね、突然」
「いや」
 おれの喉から情けない声がこぼれる。
「おれでよかったら、なんでも聞くよ。それですっきりするって言うなら、なおさら」
「ありがとう」
 真夏くんは優しいね、春海は照れたように俯く。もう違うって分かったけれど、これだとおれが告白されるみたいだ。
「相手に想いを告げるつもりはないのか?」
「……伝えられたら、どんなにいいか。告白したら、きっともう今までの仲じゃいられない」
「恋愛はそういうものだろう。上手くいく可能性だってあるし、もしかしたら、友情は残るかもしれない。――って、安易に言っちゃだめだよな。当事者は、簡単に割り切れないか」
「ううん」
 春海は力なく首を振る。
「真夏くんの言うとおり。たんに、わたしが臆病なだけ。でも、ほんとに、失うのは怖い。怖くてたまらない」
 分かるような気がしたけど、どうだろう。おれにはここまで誰かを好きになった経験はない。
 冬は。どうしてか冬の顔が浮かんだ。おれにとって、彼女はどんな存在? 大切でもなくて、腐れ縁よりもう少しマシで、やっぱり分からない。おれと冬の関係は形容できない。
「わたし、秋乃が好きなんだ」
 冬の言は正しかった。おれは、小嶺の肩にかかるくらいの黒髪と、あどけない面差しを脳裏に宿す。物静かで、でも女子たちから愛されていて。赤い縁の眼鏡だけが、目につく彼女の自己主張のようだった。
「自分でもよく分からない。異性を恋愛対象として見られない。秋乃が誰よりもかわいく思えて、愛おしい。ほんとうに、想いを伝えられたら、どんなにいいか。だけどね、告白したら、普通に話せる関係ですらなくなってしまうかもしれない。同性に好きだなんて言われたら、絶対に気持ち悪がられる。
 そんなことになったら、わたし、耐えられない」
 言葉が出てこなかった。下手な慰めは逆効果だ。春海の悩みは、構造としてはシンプルで、感情面ではとても複雑。
 頬を熱いものが伝いそうになった。我慢する。おれが涙を流してどうする。掌をぎゅっと握りしめる。
 せっかく相談相手に選んでもらえたのに、おれはただ話を聞いてやっただけだった。解決策の一つも提示できない。
 彼女の願いを叶えてやれたら――。

 布団から容易に出てこられなかった。体が重い。意識がどんなにがんばってもはっきりしない。遅くまで起きていたからだろう。
 横向きになって、床に置かれたままの箱を捉える。神楽坂の雑貨屋で求めた、お洒落な、小さな箱。願いが叶う箱。
 眠り過ぎて頭がズキンズキンと痛む。でも、まだ覚醒しそうにない。喉が渇いたけれど、台所まで行くのが億劫。誰か運んできてくれないかな、と思いながら、仰向けに体勢を変える。
 深い眠りへ、再び誘われた。

 大切なものと引き換えに願いを叶えてくれる、らしい。決して、信じているわけじゃないが、仮に何かお願いするとしたら、何がいいだろう。おれが強く望むようなことなんて、そうそうない。
 それでも、二つの顔は浮かんだ。自分の想いを持て余して、理性と本能の狭間で悶えるようにしている春海。それから、ほんとのところをなかなか見せない冬。
 おれ自身のことで強く望むことはない。だけど、春海は。春海のためにこの箱を使えたらどんなに心安んじるだろう。
 箱にはいくつかルールがあるらしい。疑問を抱きながら、箱の中の紙片を見つめていると、文字が浮かび上がってくる。箱は所有者を選ぶ。願いを叶えるまでは、どんなことがあっても――紛失しても、誰かにあげても――必ず所有者の元に戻ってくる。箱を破壊することはできない。箱に入れる大切なものは、目に見えないものでもいい。たとえば、誰かへの想いや、大切な思い出でもいい。そして、これらを説明してくれた紙片の文字は、所有者以外の人間には見えない。
 そういう仕掛けと割り切るには、あまりにも現実の枠を超えていた。文字が次々に浮かんでは消えていくのを、どう納得したらいい。まるで魔法だ。それに、箱は見た目以上に重たい。
 普通ではなさそうだ。だからって、願いが叶うと信じられるほど、おれは素直なお年頃ではなかった。
 ぐるぐると悩み、考え、行ったり来たり。箱を信じるか信じないか、というよりも、春海のためにできることはないのか、という思いが占めていた。
 信じられないのなら、実際に願ってみればいい。大切なものを仕舞って、一つ、願ってみれば分かる。――この箱が、ほんとに魔法の箱なのかが。

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