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箱に願いを(3)

 稚い時分の記憶。まだ身に比して大きいランドセルを背負っていた。楽しげに会話しながら、おれと冬はよく一緒に帰っていた。誰に言われるでもなく。家が近いからそうするのが当たり前だと思っていた。
 冬は気づいたらおれの近いところにいた。物理的な距離でも、気持ちの上での距離でも。
 しかし、小学生も次第に年齢を重ねてくると、男女一緒にいることを冷やかすようになるものだ。学年が上がるにつれ、特に男子から、おれと冬の関係をからかわれた。
 冬はまるで気にしていなかった。昔から他人にどう思われているのか気にしない性格で、寄ってくる蠅を払うように、適当にあしらっていた。
 だけれど、おれは違った。おれは胸中がもやもやした。なんで異性と一緒にいるだけであれこれ言われなければならない。なんだか、不利益を被っているみたいだ。自分が強く望んだ、冬との関係でもないのに。
 それで、ある日のこと。掃除当番があって、少し帰りが遅れたおれを、冬は下駄箱の前で待っていてくれて。素直に嬉しかったから顔を輝かせたが、すぐに曇らせる。冬の背後に数人の男子が立っていた。にやにや笑いを浮かべて。
 ――夫が来たぞ。夫が。
 ――妻をこんなに待たせちゃって。
 ――でも、ちゃんと待っているからエライよな。
 ――アツイ、アツイ。
 そうして、ゲラゲラと笑い転げる。
 何がそんなに楽しいのか。おれと冬はただ家が近所で、一人で帰るよりは、なるべく誰かがいた方が寂しくないからそうしているだけで――。でも、どんなに言葉を尽くして説明したとしても、きっと理解してもらえない。新たなからかいの材料を与えるだけだ。
 別に、無理して一緒に帰る必要はない。そうだ。
 ――うるせえな。おれは、一人で帰るんだぞ。冬は、勝手に待っていただけだ。
 そう言い捨てて、素早く靴を履きかえると、おれは走り出した。追いすがる後ろめたさから逃げるように。一度も、冬の表情を確かめられなかった。
 その日はそのまま家に帰った。翌日からは、ずっと一人で登下校することになるのだろう、と考えていた。
 それでいいと思っていた。からかわれる面倒臭さに比べたら、これくらい、どうってことない。寂しくなんかない。
 どうってことないはずなのに、さっきから胸が締め付けられるような感覚がする。冬の顔が脳裏に浮かんで、容易に離れない。冬がいなくなっても、少しもショックじゃないと思っていた。けれど、今まであった友情が失われてしまうかもしれない。それは、なんでか、嫌だった。
 いくら考えても、もう後戻りはできない。だって、おれは冬を置いて、一人でそそくさと帰ってしまったのだから。きっと、嫌われた。もう相手にしてもらえない。
 その日、布団にうずくまって、静かに涙を流した。自分でもこんな感情になるのが不思議だった。
 翌朝。冬と登校するときは早起きしていたけれど、その日は遅めに起きだした。憂鬱な気分で「いってきます」をすると、そこで驚くべきものを目の当たりにした。家の前でぼんやりと佇んでいるのは、冬だった。待ちくたびれて、疲れたように俯いていた。
 ――冬。
 呼ばわると、パッと顔を上げ、それからはにかんだ。
 ――真夏くん、遅いよ。
 ――だって、冬。
 おれの声は情けないほどに震えていた。
 ――おれ、昨日、冬を置いてきぼりにしたんだよ。
 半分べそをかいているおれに、冬は、ううん、と優しく首を横に振る。
 ――わたし、なんとも思ってないよ。誰がなんと言っても、わたしは真夏くんと一緒がいいから、そうしているだけ。周りは関係ないよ。
 そして、冬は小さな手を差し出す。
 ――さあ、学校に行こう。
 その手を取って、しっかりと握った。昨日の分も取り返そうと、強く。温かくて、柔らかい感触がした。
 その日から、おれは冬と一緒にいることを積極的に選んだ。大きくなるにつれ、だんだんからかう声も少なくなり、やがてあの二人はそういうもの、と認識されるようになった。相変わらず、おれと冬の関係ははっきりしないけど。
 おれは冬が待っていてくれるから、冬と共に行く。ただ、それだけ。特別な何かは存在しない。

 冬とのつながりを確かめてみたかった。おれの中で冬がどれほど大きな存在なのか。詰まるところ、おれにとって冬とはなんなのか。冬にとって、おれとは――。
 その大きさを確かめられて、同時に春海の悩みを解決できるかもしれない方法が一つだけあった。箱がほんとに願いを叶えてくれるものなら、という前提に基づくけれど。
 おれは寝ぼけまなこを必死で開き、放られたままの箱を見据えた。鈍く痛む頭を片手で抑えながら近づき、仰々しくそれを手に取った。相変わらず見た目以上の重さで、掌の上で存在感を示している。
 箱の蓋を持ち上げると、いつもならあった紙切れが見えなかった。いつもなんらかの情報を与えてくれたのに、まるでおれがこれから願いを込めることを分かっているみたいだ。
 箱にはいくつかのルールがあった。大切なものは、目に見えるものでなければならない、ということはない。
「お願いがあります」
 傍から見たら、きっと滑稽だろう。一人の男子が、こんな少女趣味の木箱にお願いしている図なんて。なんでもよかった。本気にならなきゃ、口にしない。
「春海の想いが報われますように。彼女がこれ以上、苦しまなくていいように」
 その代わり、と一度声を落とした。
「その代わりに、おれと冬の思い出を封じ込めます」
 もし、おれと冬のつながりがかけがえのないもので、何よりも大切なのだとしたら、きっと願いは成就する。
 もし、何も起こらなかったら――箱が魔法でもなんでもなかった可能性もあるけど――おれにとって、冬は特別な人ではなかった、ということになる。その場合、春海の願いを叶えてやれないが、そうなったら諦めるしかない。もともと、おれにできることなど限られていた。
 やがて、耐えがたい眠気が襲ってきた。おれは布団に潜り込み、目を閉じた。思考を停止させるように――。

 目覚めたとき、幾分か気分がすっきりしていた。体から鉛を抱えたような感覚がなくなった。
 ちらりと横に目をやって、何もない床の上を束の間見つめてしまう。そこには、目を凝らしても埃くらいしか見出せないのに、なぜか目が離せない。でも、どんなに見つめていても、そこに何が置かれていたか思い出せなかった。

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