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恋とは

 恋とは、いったい何なのでしょうか? 
 私には、よく分かりません――。

     *     *

 お客様がいらっしゃる日の朝は、てんてこ舞いの忙しさです。大きなお屋敷の隅々まで箒で掃き、雑巾で拭きます。手を抜くつもりはありませんが、もし抜かりでもあろうものなら、奥様にきつく叱られてしまいます。
 季節は、夏の入り口に差し掛かっています。床に跡を残す雫が、絞り切れなかった雑巾の水か、私の汗か、分からなくなっています。
「絵馬、遅いわよ。もっと急がないと、間に合わないわよ」
 そう言って、いつも私の仕事が遅いことを咎めるのは、同じ使用人の優馬です。彼女の申すことはもっともです。しかしながら、私には反論があります。遅いのではなく、丁寧に丁寧を重ねているから遅いように見えるのです。後から同じ場所を掃除し直さなくていいように、念入りに綺麗にしていくのが私の信条なのです。
「申し訳ありません」
 それでも、優馬は私より少しだけとはいえ、年上なので、反抗してはいけません。頭を下げて、言われた通りにしました。優馬はそれを見届けてから、自分の持ち場へと戻ってゆきます。
 作業の早さ、丁寧さ云々のことはさておき、私と優馬に共通していることは、お客様が来着するお昼前までには掃除を終わらせなければならない、ということです。

     *     *

 幼すぎて、覚えていません。旦那様に拾っていただいた日のこと、名前をつけていただいた日のことは。
 旦那様にそれとなく伺うと、「あの日は、雨がひどかった」としか教えてくれません。私はどこにどんな風に捨てられていたのか、どうして拾おうとお思いになったのか、知る機会はついぞありませんでした。
 優馬は、私より数年前に拾われました。
 私たちの名前に「馬」の字が入っているのは、旦那様が三度の御飯よりも馬がお好きゆえです。よく、お屋敷の裏にある野原を、馬に乗って駆けに出かけられます。
 幼かった少女二人をある程度の年齢まで育てたのは、今は亡き夏子様です。夏子様とは、旦那様の前妻であらせられます。病弱で、子種に恵まれなかった夏子様は、私たち二人を我が娘のように可愛がってくださりました。しかし、甘やかしすぎることは決してなく、次第に使用人としての心得を覚えさせていくようになりました。
 旦那様も私たちを拾った際に、正統な娘とするつもりは皆目、なかったようです。後妻の初瀬様――今の奥様――にご子息もご令嬢もいたため、また、初瀬様への配慮もあってか、早い段階から内海家の使用人として育てていく方針を明かしておりました。
 私は、私を拾ってくださった旦那様と、育ててくださった夏子様に感謝しています。このご恩を返しきるまでは、忠実なしもべとして勤しむ所存です。

     *     *

 玄関で、今日のお客様である斉昭様、それからその奥様の未映子様、お二人のご長男、由規様を出迎えました。景観を望めるほど大きな窓のある居間まで案内し、優馬に対応を任せて、私は旦那様らを呼びに行きました。
 旦那様、奥様、久成様、さくら様が、居間へと一続きになって向かってゆきます。これで内海家は勢揃いです。他家に比べれば必ずしも多くないそうです。でも私は、今の四人が何となくちょうどよく思えます。明確な根拠はありませんが。
 皆様方、久しぶりの再会に喜びを表わしていました。――斉昭様は、旦那様の弟君です。つまり、由規様は、久成様とさくらお嬢様のお従兄弟に当たります。歳は由規様がお二人よりも少し上です。三人はひとしきり挨拶をし終えると、何やら談笑し始めました。
 本当に久しぶりなのです。積もる話もあるのでしょう。

 会食が終わりますと、わずかながら手持ち無沙汰な時間ができたようです。「散歩に行ってくる」と、由規様が椅子から立ち上がりました。
 即座に久成様が「俺も付いて行こうか」と申し出ました。けれど、由規様は、「いや、一人で気の向くままに巡ってみたい」と言って、遠慮しました。
「せめて、使用人を一人、連れて行った方がいいぞ。慣れていない土地だ、何かあってはまずい」
 そう勧めたのは、旦那様です。「おい、絵馬」と、私の名前を呼びました。
「は、はい」
「由規の散歩に同行してやれ」
 短く命令を告げられ、私は「かしこまりました」と、頭を下げて、応じました。
 由規様が、私に視線を向けられていました。私は恐縮して、とっさに頭を下げます。すると由規様は微笑み、背中を向けてスタスタと歩いていかれました。先に立って歩く由規様に、私は遅れないように続いていきました。

 快晴の空の下、木々を抜けて吹き付ける風で涼みつつ、あてもなく進んで行きます。自然の音しかしません。葉のざわめき、鳥のさえずり、名前の分からない動物の鳴き声。私はめったに外に出ることがないので、何とも心が弾みます。
 由規様は、本当にただ一人で散歩がしたかったようで、目的地も決めずに、気の向いた方へ歩を運んでいきます。地面を踏みしめるように、ゆっくりと。私は、その大きな背中を見つめながら、等間隔を保って、付いて行きました。
 前触れもなく、由規様は足を止められました。あまりに突然だったので、足を踏み出した勢いが余って、額を由規様の背中に軽くぶつけてしまいました。
「おう、大丈夫か? 悪いな、急に止まったりして」
 振り向いて、朗らかな笑顔で私を気にかけてくれました。
「大丈夫、です。すみません」
「謝ることないさ」足元に視線を落として、それに気付きます。「ここに、いい切り株が二つあるし、座って小休止しようか」
 そう言って、先に切り株に腰を下ろされました。
 私は立っている方が良いのかと考えましたが、「ほら、座って」と促されたので、隣に腰掛けました。切り株の高さはちょうどよくて、意外と座り心地の良いものでした。
「いやあ、ここは景色のいいところだねえ。屋敷の裏にこんな所があるなんて、さすがは内海家といったところか」
 私は頷きます。本当に、文句のつけようのない素晴らしさです。旦那様が、いつもここらを馬で駆けている気持ちも、分かるような気がいたしました。短く刈り取られた草の道に、馬の蹄の跡を思い、重ねます。
「君は、絵馬といったかな。それは、本名かい?」
 真横から由規様の視線を感じ、私は俯いてしまいました。「いえ、絵馬は旦那様がつけてくださった名前で、本名ではありません」
「ふうん。本名は何ていうの?」
「分かりません」
「そっか。知りたいと思う?」
「いえ。――私は、今の名前を気に入っていますから」
 すると次の瞬間、私は言葉を失ってしまいました。それだけ、予測を超えたことが起こったからです。
 由規様が、私の手をすっと握られたからです。大きくて、たくましい掌でした。神経が、握られた手に集まるかのような錯覚を覚えました。身動きがとれず、じっとしていました。
「おれは知りたいな、君の本名。本当の君を」
 そう言われて、ようやく顔を上げました。黒目がちな瞳が、私を捉えていました。
「言い換えれば、使用人の君じゃなくて、自分の意志に従って生きる君を、おれは知りたい。感じるままに笑い、感じるままに涙する君を」
 私は、言葉の意味をしっかりと理解できていませんでした。ただ、胸の動悸が速くなっていることだけは、感じ取れました。否定のできないほど、それは確かなものでした。
「前に会ったときから、気になっていたんだ。君は、もっと幸せになっていいはずだ」
 そして、私の腕を引き、私を抱き寄せられたのです。私は言葉もなく、抵抗することもなく、されるままに身を委ねました。
 鏡で確認しなくても、顔が上気していること。動悸がいまだおさまらないこと。男の人に抱きすくめられることで、こんなにも安心感に満たされること。それらが、手に取るように分かります。
 これは、もしかして――。

 斉昭様の仕事の都合で、一泊した翌朝に、お三方は内海家の屋敷を後にしました。あまりに短い滞在ではありましたが、私には数日が過ぎ去ったように思えました。――何となく、胸がぽっかりと空いてしまった気がします。
「どうして! そんな話、私は聞いていませんわ!」
 花壇の花に水をやっているときに、屋敷の内からお嬢様の声が届きました。いつでもおしとやかな常のお嬢様らしからぬ、荒々しい声です。何かあったのでしょうか。私は手を止めて、様子を窺います。
 すると、ドアが勢いよく開いて、お嬢様が出て参りました。私に目をやることもなく、どこかへ走り去って行きます。――その目元には、一筋の涙が――。
 私はじょうろを置いて、お嬢様を追いかけました。

 お嬢様は何の偶然か、私と由規様が並んで腰掛けていた木の切り株に座っていました。膝に額をあずけて、時折、肩を震わしています。
 私の気配に気付くと、顔を上げられました。泣き腫らした顔は、初めて見るものでしたが、それでもお嬢様はやはり美しい顔立ちでした。
「――絵馬。追いかけてきたの? こんな所まで」
 私はこっくりと頷きます。
「馬鹿ね。仕事を放り出したりしたら、お母様に叱られるわよ」
 私は、それでも構いません。今は、お嬢様が何より心配ですから。
「私、結婚させられるみたい」
 結婚。私は、それが素敵な言葉だと思っていましたが、お嬢様はまったく嬉しそうではありませんでした。
「相手は、由規さんよ。従兄弟の」
 由規様。
 なぜでしょう。またです。その名前を聞いた瞬間、また、動悸が――。
「お母様は、内海家のためだって言い張って……娘のことは、私のことはまるで考えていないのよ」
 お嬢様が由規様を嫌悪しているわけではないことは、私でも分かります。ただ、もう一つ知っていることがあります。それは、お嬢様には牛田様という、好いたお方が――いえ、おそらく互いに好き合った仲のお人がいることです。それゆえに、お嬢様はいつになく奥様の申されることに反発しているのです。

 お嬢様に、よく、本をたくさん読むように言われました。自分の本棚から好きなものを選んでいい、分からない言葉があったらいつでも尋ねていい、と言い添えられて。
 私は、本を読むのが大好きになりました。本の世界は魅力的で、たいへん興味深いものでした。
 お嬢様の本棚の中には、色恋についてのお話もありました。私も何気なく手にとって、読んでみました。そこには、さまざまな男の人と、女の人がいて、それぞれに色々な強い想いが溢れているようでした。
 でも、私は読んでいても、それらに思いを寄せることができませんでした。ただ単に、これが「恋」というものなのだ、という結論に落ち着かせることに留めておりました。でも、今は――。
 恋とは。
 涙に暮れるお嬢様を前にして、思います。
 恋とは、いったい何なのでしょうか?
 本の中で繰り広げられる、異性間の世界。好いた方を想って頬を伝う、お嬢様の涙。由規様を思い浮かべて、揺れる私の心。それらが脳裏をよぎり、順繰りに渦巻いてゆきます。全てが同じ、「恋」という言葉に当てはまるものなのでしょうか?
 私には、よく分かりません――。

 遠くの空には、鉛色の雲が忍び寄ってきていました。もうすぐ、雨が降るでしょう。私をここへ連れてきた、何もかもを洗い流す雨が。

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