芥川龍之介『奇怪な再会』


 彼の作風は大きく前期/後期(小さく前記/中期/後期)に分かれる。芥川龍之介を敬慕する堀辰雄は『六の宮の姫君』を前期の区切りにして最高傑作とする。
 すると『奇怪な再会』は前期作品に相当する。堀辰雄の絶賛する如く、確かに『六の宮の姫君』はプロットが明快で読み易くもありながら、芥川作品に通底する悲哀、寂寥が明瞭に描出されている秀作であるが、『奇怪な再会』を私はそれ以上に面白く覚える。
 論文では支那国と大日本帝国との関係性をモチーフとしつつ論を進めているものが散見された。これらはマクロ的視野をも包含した優れた文学論である。
 さて私はというと、これをプロットの点、及び後期名作群、特に『玄鶴山房』との関わりからここに一寸論じてみたい。
 後期は筋らしい筋をあえて消した作品が多い。(注:『河童』はスウィフト『ガリバー旅行記』の強い影響下にある為に異なる。後期芥川作品の『筋らしい筋のない作品」については『文芸的な、余りにに文芸的な』の書見を薦める。)
 『玄鶴山房』もその一つである。キュビズム的とまでは言わぬが、それは謂わば絵画的作品であり、換言するなら、一つの主題が筋を媒介とせずに顕現されるのだ。
 ところで『玄鶴山房』は「狂気」に満ちた作品であるが、この「狂気」は芥川の実母が気狂いであるところにその端緒をもち、それが芥川をしてシニシズムの領野に彼の作品を落とさしめた。つまり、芥川作品全体を貫流するテーマは「狂気」である。
 だが、前期作品は彼の冠絶した手腕と知識により物語化される事でモチーフの中に狂気は稀釈される。然るに、『奇怪な再会』においては、一人称視点でないとは言え、晩年の作品を想起させている。狂気が一つの塊、絵画的美により顕現されているのだ。その芸術的結晶の純度の高さは後期名作群にも劣らない。読みものとしての面白さという点では『六の宮の姫君』や『南京の基督』の後塵を配するであろうが、芸術的奥行きという点では『奇怪な再会』が圧倒している。
 私も全集を読破しているわけではないので芥川龍之介には読む度に新鮮な驚きを齎される。ちなみに随想では関東大震災直後に書いたものが極めて素晴らしい。内容、表現、形式、どれもが完璧である。殊に注目すべきは表現、形式となる。
 『平家物語』や『曽根崎心中』の如くに文体の調子が精緻に整えられているのだ。これは明らかに意図的であろう。正に天才の妙技といえよう。

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