人は何故自殺するのかⅠ

 単純に、曩時のあの難病は痛かった。身体的に異常なる痛みであった。
 病気が辛いのは痛いからだ。心にしろ身体にしろ。痛いという知覚反応は苦痛だ。そして人間はできる限りその苦痛を避けたいと願う。
生体機能を停止させ絶命に至らしめる自殺の痛みは、たとえそれが刹那であれ、想像を絶するものであろう。故に、それは想像を絶する怖さを惹起せざるを得ない。「苦痛を避けたい。」という人間本能に、実に忠実である。人間の身体はよく出来ている。痛覚がなければ、生命を維持するのはとても困難な事になろう。
 それでも人間は自死せんとする。ここには人間が故の逆説がある。自殺による苦痛が生きる苦痛を凌駕し、死の苦痛をもって生の苦痛を避けようとする人間特有の働きだ。正に理性的動物たる人間の営為だ。
 しかし、死に至る痛みは生者の想像の埒外にある。生が今抱えている懊悩は自殺の苦悶よりましかもしれない。又はましになっていくかもしれない。その比較考量の不可能が為にこそ、私は自殺を躊躇わざるを得ない。(この辺りをシェリー・ケーガンは『「死」とは何か』において述べているが、彼のこの著書は元々講義としてなされていたものを書籍化した故にあまりに非経験的である。わかりやすく言えば思弁的であり論語読みの論語しらずであり、机上の空論であり、また、いかにもアメリカ的プラグマティズムの影響を受けている。ここには「質感」がない。)
 だがそれも理性が十全に機能しているうちに過ぎない。感情が理性を併呑すれば、情動の瞬間的亢進が人々をして死に導かしむることは容易にあり得る現象であろう。
かかる非常なる危うさの揺曳のなかに、その渦中に、私達はずっといる。

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