観念

「わたしは良心を持っていない。わたしの持っているのは神経ばかりである」
        芥川龍之介『侏儒の言葉』


「俺たちは親には頼れないんだからしっかりしてくれよ。」

 過去を遡及し加工してみれば、私の筆致は兄の言葉を捕らえる。ばらばらの断片と曖昧模糊とした記憶の泉から兄の声を掬い上げようとする。その声は私の脳裏で幽かな残響となり聞こえてくる。兄との思い出は家庭や家族、殊父親について思いを馳せる忽せに出来ない要素になる。
「ああ、あの時分、お前は泣いてばかりいたな。俺達はさんざん我が家の親の愚かなさまをみてきたな。」
「それでも僕にあるのは憎しみや怒りではなくて、恐怖だったんだよ。今、僕は愛しているよ!家族を愛している。豪放磊落で暴君だった父を、そして時にヒステリックだった母を心から愛しているよ。」
「そうだな。だからもう、いい加減変わるときだ。俺達が生きてこられたのは、それでも家族の庇護があったからだ。両親が、家族がいたからだ。それは、それは厳然たる、まごうことなき事実なんだ。」
 「そんな父や母、家族の為にも俺たちは生あるかぎり生きつづけなければならないんだ。お前にこれから何が待ち受けようともな。」
 「ああわかっているよ兄さん。」

 小学生の頃から、私は父を恐れ続けてきた。文字通りの恐怖。父の怒号が家に鳴り響く度、私は足が竦み、心胆寒からしめられていたことを追想する。毎日喧嘩を繰り返す光景を兄は憤りと落胆と恐らく軽蔑さえあったであろう、そんな感情を抱き、ある時には冷然とまたある時には凄然と見つめていた。私はただただ恐怖の念で眼前の恐慌を眺めていた。父の脳裏に焼き付いては離れることのないあの胴間声に恐々とする私は極力父の逆鱗に触れぬよう、気分を逆撫でしないよう、ただ諾諾たる人間の如くに振舞い、諂い、争いを避けることに躍起になっていた。それが平和的な道だとして。そして私は本当の私を喪失した。
中学生の頃、両親の喧嘩が酷くなり離婚した。父の癇癪の矛先は母だけでなく私達子供に対しても向けられていたが、両親の仲が悪くなっていくにつれそれと比例する様に、癇癪の玉は大きく肥大しては事ある度に破裂した。
 兄達は理不尽な父の横暴に対抗する力を有していた。私は中学生となりながらやはりただ震えていた。怒声や暴行に耐え忍ぶ方途として、黙るより他に術を見出せなかった。耳を塞ぎ、心を遮断して現実の恐怖からひたすら、懸命に自分を隔離させていた。それだけでもって自我を保とうとした。精神を守る為に築いた囲繞を侵害され、冷酷な現実の磁場に引き寄せられた際、父から何か意見を強要されても私は黙して語らずであった。父に何か言うことがあまりにも怖くていつも黙ったままでいた意味に過ぎない。その後、私は父の前でほとんど声を発すること能わなくなった。限局的な環境下に於ける失語症、そう定義するのが適当であろうか。何も意思を発しようとしないそんな私に父の怒りは益々高められていき、そうして父は一層憤怒の相を呈しては、無能者の自分、言語でもって意思を示さない私を非難、罵倒し日常のストレスを吐き出し続けた。原因にいつも私があったのか窺い知ることは出来ない。それは今や詮無いことである。
 顔を合わせれば一触即発という程に険悪な父母が一つ屋根の下に住む環境は凡そ平穏というものからは径庭した悪徳の巣であり、自然、一つの社会的形態に収斂されていく。業を煮やした長兄が父に掴みかかっていく光景は家族同士の取っ組み合いの喧嘩という愁嘆場であり、斯く場面を私は忌避すべき鮮明な記憶として固着させていながらもどこか非現実的で奇異な出来事として胸底に残留している。
 無論、顚末は同居離婚という奇特な家族形態の存続であった。その形式の惰性は両親の喧嘩を私の高校、大学時代に至るまで大同小異繰り返させる。結句、意思欠格者たる私はますます自己世界に没入する。反面、いつの間にかそんな自分を認めたくない別の人格が萌出していき、それは道化の自分を演じさせ、後に内実無き茫漠とした快活さを強化させていくこととなる。精一杯の力で自我の城を建設しては死守し続けた。砂上の楼閣に過ぎないとしても。

 いつか、父は沈鬱な面持ちで告げた。
「お前をそんな風にしてしまって悪かったな。」と。
私はこれを偽善だと感じた。この言葉が強すぎるとしたら「勝手な言い分だ」と、その時私は痛切に思った。この瞬間の、沸き上がる怒りと憎しみと悲しみの混じりあう、身体に癒合しては整合されず混沌となったぐちゃぐちゃの思念の感情の激烈さを私は鮮明に記憶している。決して変わることのなかった日常、終わることを望まなかった醜悪な争いは、小学生の、中学生の私をどんなにか苦しめ続けたであろうか。掴みあい罵りあう両親の横でどれ程私が戦々恐々しただろうか。祖父母に嘆願しながらどれだけ私がこの家の静寂と平穏を切望していただろうか。
 父はそんな私の願いなど知る由も無く、切なる祈りを蹂躙し、あくまで暴君として鎮座し続けた。父が告白してきた時、その態度が一時の気まぐれに過ぎないことは既にわかりすぎるほどわかっていた。事実、これまでもそんな体でもって神妙然に告白した後、父は相変わらず母と対峙するとき、事務的な用件で話しをするとき等、往々にして喧嘩を繰り返していたからである。
 今は無き実家には、私の部屋のドアを開けたところの正面の壁に今は『アダムの創造』で塞いでいる穴が一つあった。その穴は私の部屋の目の前で両親が取っ組み合いの喧嘩をしている時に、理性を失った私が殴打して穿ったものである。自分の親が自分の目の前で、つまり子供の眼の前で掴みあいの喧嘩をしている。気位の高い母が泣きながらその爪でもって父の腕や肩をひっかき、服が使い物にならなくなるくらいまで取っ組み合っている姿を悲哀の眼差しで竦然と見つめるその張り裂けそうになる抑えようのない感情。泣き叫び呪詛の言葉を吐きかけながら正にその場で容赦なく打擲され暴行されている自分の母親の姿。その非現実感。
 この過去の出来事が決定的な意味を有しながら今に至って私を看過させず、苦しみに浸らせ必要欠くべからざるものとしてこうして綴らせるのは、これまでの辛く悲しい塗炭の苦しみに対する恨み故ではない。父や両親の問題それ自体はもう終わったことであり、現在私に怨恨などは無い。小学校からの斯様な体験は私から自我の居城を建築させる淵源となったからである。しかし、所詮は内実無き形骸の要害。その城は至る所に罅のはいった脆くむなしいアイデンティティであり、時間によって風化され白蟻の如く蝕まれながら自我そのものを栄養分として成長し、過剰な意識、強迫観念(広く「意識」であり、神経)に変質していった。

 欠落者の私に顕らかな変化が生じたのは高校生時分。自我を消失したがらんどうの心に「観念」が意識されはじめた。それは中学生の頃仮初めに生まれたものとは違い、はっきりとした輪郭をもちながら私の前にまるで以前とは異質な存在として屹立してきたのである。ここに於いて、身を守る筈であったあの城はその城壁は、醸成する観念を涵養させる苗床であったことを明らかにする。寄る辺であったものは観念を育てる役割を担っていたに過ぎなかったのだ。
 精神的な変調を過度に感じるようになった私はカウンセリングやロールシャッハーテストなど、自己の無意識を解き明かす精神療法等を受けるようになる。私は自分の変調を環境とは関係のない生来的気質と結論付けていた故に歯牙にもかけなかったが、医者や臨床心理士は私の心理機制には両親の不仲に基づく繰り返しの喧嘩を起因とする環境的影響があると所見していたのを記憶している。

 精神的不調自体一過性のものだろうと悲観もせず、別段深刻に考えていなかった。今でこそこうしてまるで重大な出来事であるかのように「観念」などと書き記してはいるものの、高校生の私には観念なんかより、もっと具体的な悩みに四苦八苦していた。
 精神的変調は長く存続した。いつまでたっても治らない心の歪みに不安感を覚えていたらしい父は、ある時診察に同行し、医師の度々同じように診断してきたであろう見解をきき良心の呵責に襲われているようであった。医師によって伝えられる「息子の変調には父への恐怖がある」との見解は父をして自責の念に駆らせていったのであろう。それが上述の、気分本位な自己陶酔感のある謝罪だ。

 観念を自覚した直接的エピソードはとある音楽家の死のドキュメンタリーを観たからだ。私は当時音楽活動をしていたので勿論この事件は知悉していた。偉大なアーティストの死は風化すること無く、私に悲痛こそ与え無関心でなどいられない。しかし、私は心中で彼を嘲りあまつさえは痛罵さえしたのである。私はこの自己内部に発現し体内を蠢きながら巡っていく肉感的な不快さを、その気色悪さを、今も絶えることなく意識過剰になる度感じ続けている。

 あれはただの観念の遊戯に過ぎなかったに違いない。何とはなしに真実思っていることと逆のことをふと考えてしまうという、あの遊び。いや、実際あれは遊戯そのものだった。私もそれは認めていた。しかし、一度植え付けられた邪悪な観念は自分が事実どう感じているかということとは無関係に私の心を罪責感で侵食していった。
 観念はどんどん私の脳髄に浸潤しては私を拘束していく。拵えものの強迫観念は私を人形の様にしていった。そして私は観念の傀儡となる。それは哀れな自己欠落者である。観念の入れ子はそれが道化であったにしろ、私のささやかな人間的闊達さを封印した。自縛したその縄は、やがて茨の蔓となり私の身体から苦悶の血を飛び散らせた。私は亡者となった。そして私の人生は観念に彩られていった。私は恐れた。内心の呵責とその咎を。私はこの体躯に寄生し私を嘲弄する観念を憎悪した。
私は何者にもなれなかった。信仰者にも無神論者にもなんにも。ときに神を恐れては神罰に慄き、罪の意識に神経症的な恐怖を抱き苦悶するだけの存在。それが私だった。

 

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