萩原朔太郎の生き様
自然、涙がでた。この涕涙は生理現象は凡ゆる言説を超越し今の私を湛えている。
読者はこれを見、せつな人間的情愛を覚え、感傷に触れ交感の念を昂らせるであろう。だがその瞬間には自らのパンを食らう。そこに各人の"生活"があるからだ。
「生活」。萩原朔太郎は生活の河に底流している全的現象を流露している。
私は今この時になってはじめて萩原朔太郎の天稟を捉えた。否、「天稟」なる形容は彼を侮辱する。何故なら、彼の言葉は言葉であって言葉では捉えられないものだからだ。詩的象徴?否。
彼の言葉は彼の人生、確かな肉感をそこに具備した人生。孤独、悲哀、絶望、懶惰、平安、希望、救済…。生活が与える刺激を自らの経験による認識でもって極限にまで高めてはそれら感情の織りなす襞を、感触を、現出せんとした、その創造に正に生命を賭した芸術家なのだ。その感触に気がついてしまったから、つまりは生活というものの苦悩(これはドストエフスキーを敬慕する者として「苦悩」と表現したい。)を直視してしまったから、だからこそ私は泣いた。これは生活への眼差しにとらわれた恐怖と感動の涙なのだ。
月に吠える犬は、自分の影に怪しみ恐れて吠えるのである。疾患する犬の心に、月は青白い幽霊のやうな不吉の謎である。犬は遠吠えをする。私は私自身の陰鬱な影を、月夜の地上に釘づけにしてしまひたい。影が、永久に私のあとを追つて来ないやうに。
萩原朔太郎は一等ドストエフスキーを敬愛していたから知っていた。読んでいたつもりになっていたが、そんな前置きはもはや何ら意味がない!私にとって、この真面目で純粋で優しい萩原朔太郎という人はその純粋な熱情においてドストエフスキーと比肩する。
『黎明と樹木』
萩原朔太郎
この青くしなへる指をくみ合せ、夜あけぬ前に祈るなる、
いのちの寂しさきはまりなく、あたりにむらがる友を求む。
そこにふるへ、
かくれつつうかがひのぞく榎あり、いのりつつ、一心に幹をけづりしに、樹樹はつめたく去り行けり。
みなつらなめて逃れゆく、
黎明の林を出づる旅びとら、
その足竝に音はなけれど、
水ながれいでて靴のかかとをうるほせり。
かくばかり我に信なきともがらに、
なにのかかはりあるべしやは、
空しく坐して祈り、
遠き遍路に消え殘る雪を光らしむ、
いのちはひとりのもの、
ただ我が信願をかくるにより、
木ぬれにかかり、
有明の月もしらみてふるへ悲しめり。
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