熊駆除問題

 小説には確かに作者の問題意識が具現している。それ故にこそ、小説は作者自身のモチーフを越え普遍的になり得る。
 作者は小説を書く際、"別の何か"に成り切る。いわゆる"神の視点"、つまり客観的に作品全体のプロットや主題提示、表現方法などを透徹した視点から俯瞰する冷静さを保持しながら、矢張り成り切るのである。それは役者のようなものとイメージしてもらえば良いかと思う。執筆しながら、あるキャラクターのセリフや行動原理を叙述するにあたり、私はキャラクターの創造をしながら、同時にキャラクター自身が生動していくのを実感する。
 その時、主客逆転現象が生じる。キャラクターは作者の掌中を離れていくのだ。ロシアの文芸評論家バフチンはこれを「ポリフォニー」と称した。作者によって胎生された作中人物達は、雛が殻を破るように、啐啄同時の然るべき時機にそれぞれが主体的な存在者として躍動しはじめる。これは作者のパラダイム、テーマとして規定されていたはずの枠組みを跳躍し、作者に新たなるモチーフを付与する起爆剤となる。

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「野生生物の主な絶滅要因として、生物の乱獲、過剰利用がある。また、人間が行う様々な開発に伴う生息地減少、化学物質などによる環境の汚染も問題となる。
 外来種による生態系の変容も耳目を集め、懸念されることとなった。そして、オゾン層破壊や地球温暖化による気温上昇に付随する地球規模の環境変化。
 無慈悲に殺されていく野生生物。上述した全てに人為的な影響がうかがえる。地球環境の保護が声高に叫ばれる今こそ、私たちはこの地球上全ての生態系に対して、もっともっと眼を向ける必要があるのではないだろうか。
 森林伐採によって生息地を追われ、人里に生きる地を求めざるを得なくなった熊。その熊は、人間の田畑を荒らした咎で、または人に危害を与える可能性があるという名目で殺されるのだ。(文責 外村)」

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 「あんたなんかにゃあなんにも俺らの生活の苦しさなんてわかりゃしねえ!
『野生生物を殺すな』だあ?
『それは人間のエゴだ!人間が身勝手に動物たちの生きる場所を奪っておきながら、その場所をなくした動物たちが生存のために人里に下りたら、それは危険だとして駆除するのか?動物達の生きようという本能のままに、そこにある食物をとったら人間はその生命を殺すのか?』
 こんな風にあんたらは正義ぶって叫ぶんだよ。俺から言わせてもらえば、そんなの綺麗事以外の何でもねえ。ここで生活したこともなく、外側からヒューマニズムを振りかざすことならそりゃあ簡単だ。あんたらは何の痛みも伴わねえからな。
 この場所で畑を耕して生活していくこと。それら作物の収穫量の減少がすぐさま自分たちが生活していくこと。そんな危機感をいつも気に掛けて生活していくこと。収穫の多い少ないがそのまま生きていくことにつながっていくこと。そういう苦労があんたらにわかるのかよっ‼︎
 精根こめて大事に育てたにんじんやじゃがいもが動物たちに食い散らかされたときのあの屈辱感と失望感。そういう俺らの生活、苦労や辛さなんてなんにも考えねえで、自分たちは安心した生活をしながらただただ
『動物たちが可愛そう。』
『憐れみってものがないのか。』
『人間が地球の主なのか。』
とかなんとか言うんだよっ‼︎
 ふざけんじゃねえってんだ‼︎あんたらに俺らの苦労などわかるはずがねえんだっ!
 いいか、動物たちは確かにすむ場所を奪われたかもしれねえ。そしてそれは俺たち人間どものせいだろうよ。そういう意味じゃあ、俺だって同情するさ。けどな、人間のした行為には違いねえが、山を切り開いたのは実際にはおれらじゃねえ。国や自治体が勝手に開発しているだけだ。別に俺らが望んでいることでも何でもねえ。それどころか俺たちは被害者なんだよ。行政が自分たちの肥やしを増やすために民意を無視して好き勝手森を切り刻んでいるせいで、熊や猿どもが俺らのところまで来てこうして畑を荒らしちまうんだ。そして、それは俺たちの家計を逼迫させることになる。
 いいか。そういう事情も何もしらねえまま、あんたたち環境ジャーナリストだかなんだかは、ただ俺たちが猟銃でもって熊どもにぶっ放しているとか言って糾弾するんだ。
 あんたらの偽善者ぶりにはもううんざりだよ!カマトトぶりやがって!あんたらだって肉や魚を毎日食べているだろう。あんたらのその"正義の記事"でもらった金からなっ‼︎
 家畜が屠殺される瞬間をしっているか。牛や鶏が死に際に叫ぶあの断末魔の声を、あんたらはしっているか。自分たちが殺されると悟り、屠殺場に連れて行かれるときに必死になって抵抗するあの姿をしっているかっ‼︎
 そういうことをなんにもしらねえで、加工処理されスーパーに並んでいるパック詰めされた"商品としての"肉しかしらないで、そういう現実をしらねえで甘ったるい正義感だけを標榜するあんたらをおれらは心底軽蔑しているんだよ!」

 私は毎朝新聞社会部環境課の記者、外村雄一です。上述の言葉は私が「地域住民と環境」というテーマで記事を立案し、その取材として訪れた岐阜県の山間にある村で農業や畜産業をを営む原田善治様が仰って頂いた御発言でございます。原田様には貴重な御仕事の時間を割いて、御自身の思うところを余すところなく語って頂きました。なによりもまず、ジャーナリストとして私は感謝の意をここに表明致します。
 原田様への敬意を示しながら、やはりそれでも私は一記者としてこの場において私自身の考えを述べさせて頂く所存であります。気概を持って、己が正しいと信ずるものを恐れずに発表することは記者としての誇りであると同時に義務であるとさえ私は思っているからであります。
 かねてより、私は人間がたとえいかなる事情があろうとも、自分とその周囲の命が直接的に脅かされる以外の目的で、また人類が正常な食物連鎖のなかで生きていくために捕食をする以外の理由から他の生態系の命を奪うことに断固反対であります。その行為は人間の非常に罪深い道義的な罪であるとさえ考えます。
 よって、例えば、私の中では日本の捕鯨も罪であります。生態系保護の名目でなされる外来種駆逐も罪であります。趣味としての釣りも罪であります。そして当然原田様の"自らの生活を守るためだという言い分による防衛としての射殺"も罪であります。
確かに原田様の言い分に論理的理解は可能です。行政のインフラ整備や過剰開発がもたらした弊害が原田様のような方々の生活を脅かす事態になっており、その生活を維持するためには動物たちを排除する以外なく、従って、何も好き好んで熊や猿を撃ち殺しているわけではない、むしろ自分たちは被害者である云々。まあ理屈はわかります。
 なるほど。もっともらしい理由付けです。しかし、ここでよく考えてみてください。熊が食物を荒らすのを阻止するためには、はたして射殺するしか方法がないのでしょうか。原田様らは仕方なく殺しているといいますが、はたして考えられる解決策、殺すこと以外の有効な案を捻出する努力を原田様らはおこなっていたのでしょうか。安易で簡単な方法として単に無慈悲な駆逐を選択したのではなかったのでありましょうか。
 熊は人間を恐れています。これは何も熊だけではありません。基本的に多くの野生生物というものは本能的に人間を恐れ、できることならば人間から遠いところで生活することを望むものであります。尤も、餌付けされた猿や、都会にすむカラスなど一部の生物はその限りではないのですが。
 そのため、熊としても人間に襲われるかもしれない危険を冒してまで人間の領地に足を踏み入れることは避けようとします。そういう習性を把握していれば、実際に田畑が荒らされていたとしても、それほど被害は甚大にはならないとわかるはずです。正しい認識を持っていれば、熊や猿や鹿の絶対数を少なくして農地を守ろうとする愚行をせずとも、たとえば麻酔銃などで眠らせ森に返すなど、いくらでも解決策はあるのです。
 熊は住む場所を奪われた結果として食べ物を探すため偶然的に人里に現れたに過ぎず、自ら進んで食料を求め恐ろしい人間たちの畑に赴いているわけではないということを原田様ら農家の者は認識しなければなりません。
 穏やかに暮らしていた動物たちの土地は人間の勝手な都合で蹂躙され、戸惑いと空腹のうちに人里に迷い下りてしまった彼らに憐憫と慈悲こそすれ、それを撃ち殺すなど人間の極悪非道な罪以外の何者でもないのです。極論を言えば、そんな人間こそ死ねばよいとさえ思ってしまうことさえあるのです。ええ、そういう害悪な人間どもこそが駆除されるべきなんです。地球の生態系を著しく悪化させた罰として、この地球上を我が物顔でのさばっている人類どもにはもはやなんらかの制裁があってしかるべきなんです。政治は知らないなど傍観する原田氏もまた同罪ではないでしょうか。あんな居直りは許されません。(注:弊社外村による本稿に関しては、外村の意思を尊重し原文を加筆修正し校正することなく、弊社社説として掲載すり判断を致しましたことをここに記す次第であります。なお、お問い合わせに関しては弊社環境課にあります問い合わせフォームよりお願い致します。)

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