自分が信じた道が間違ったとき


人間は総じて自身のミスを認めたがらない傾向にあります。
常に合理的な判断を下し、理論によって裏打ちされたものではなく、一種のオカルトと呼ばれるような暴論を振りかざし道をつき進んでしまうものです。

これは心理学でいうところの『認知的不協和』と呼ばれるものになります。
認知的不協和は自分自身が認識している相反する二つ以上の考えがある場合ストレスを感じるという現象です。
そしてそうした場合は大体は謎理論をかざし正当化する傾向があります。

例1

明日は早起きする予定があるけど見たいテレビがある。
という場合、『早起き』という事象と『夜更かし』という相反する事象が起こる。
そのため「ストレスなく寝るためにテレビを見る」「友人との会話に必要だから夜更かしする」など適当な理由を付けてしまう。
合理的に考えればおそらく『早く寝る』ことが正しいはずだが、自身の欲求を正当化するために『早く寝ない理由』を当てつけてしまうのである。

例2

自分が発した情報がデマだったが認めたくない。
という場合、『デマの発信』に対し『正当化したい』という相反する事象が起こる。
そのため「あの組織は信用ならないから貶めることは正しかった」や「あの人もデマを言ってたからおあいこだ」といった暴論を振りかざしてしまう。
例え相手が過去に何があったとしてもい、自身がその時にデマを発信したことは間違いないのであるから認めて謝罪するのが合理的だ。

半世紀前の歌謡曲

「わかっちゃいるけどやめられない」

これは60年以上前の植木等の曲『スーダラ節』にある一節です。
まさしく『認知的不協和』を表した歌詞であるが、当時の人も思うところがあるのか認知的不協和の理論を知ることなく、この歌を支持している。

1000年前の聖人

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし」
という言葉を残したお坊様もいた。
浄土真宗の開祖・親鸞聖人の言葉である。

ある時の親鸞聖人と唯円という弟子との会話である。

唯円「師匠!師匠の言いつけは絶対に守ります!押忍!」
親鸞「そうか!じゃあ命令だ!人を殺してこい!」
唯円「・・・え?できるわけないじゃないッスか!」
親鸞「できないの?お前自分で自分のこと”イイヤツ”だと思ってる?違うからね、殺せないのは今それをする必要性を感じないだけで、その時が来たら殺すこともあるからね?(さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし)」

っていう会話があったらしい。
*はる想像意訳

理由さえ作ることが出来れば人を殺すこともあると聖人は仰ってるわけですね。まさしく認知的不協和。

道を間違えた際は

あなたは道を歩いています。
なんとなくの道順は覚えてきましたが、いつまで経っても目的地に着きません。
もしかして?と思い地図を見直すと三つ前の角を曲がる必要があったようだ。
でもこのまま進んでも次の角曲がれば遠回りになるが着くようだ。

あなたは道を戻りますか?

きちんと論立てて考え合理的な判断を下すなら戻った方が早いからね。

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