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誰がために記事はある

不思議に思うんだけど、Noteに何か記事をあげようとするとき、スマホのメモアプリで書き始めるよりnoteの投稿フォームから書き始めるほうが、なぜだかスイスイと指が動く。

メモアプリのほうが色々と使い勝手が良く便利なのに、それだと何故かいつまでも言葉が出てこなかったりする。

noteのほうが考えをアウトプットすること=誰かに見てもらうことを意識するから自然と考えに具体性がでるのかもしれない。

誰かに見てもらうことか。
誰かに見てもらうためなのに、誰にもみてもらえないようなことを延々と書いてるなと思う。

ご覧の通りの零細noteである。そりゃそうだ。私の書いたモノが誰のどんなニーズを満たすのか、自分でもわからない。

毎日通る地下道の出口らへんのギリギリ日光が届きそうな微妙な場所にひっそり生えてる謎のシダ植物に目を留める人がいないのと同じことだ。

私のnote、私の思想もそういうよくわからないところに生えてるよくわからないシダ植物みたいなものなんだろう。

しかしそこにスキをつける人がいる。たいてい片手で数えられそうな数だけど。
とても嬉しいが、いったいどういう思いでスキをつけてくれてるんだろうと思う。残念ながらコメントがほぼつかないのでそのへんがよくわからない。最低10文字くらいでもいいので感想があればありがたいんだけど。

私の知る限りnoteというのは他のプラットフォームに比べてコメントの数が極端に少ないように思える。他のフォロワーが大勢いるような人でスキが大量についてもコメントは両手で数えれるほどだったりする。

何となくnoteにはごく短文でサラッと感想を送るようなことをしづらい空気があるのかもしれない。そういう私も誰かのnoteにコメントするときはそう感じる。

私がフォローしてる人の漫画で、ここ最近でいちばん良いなと思えるものがあったんだけど、どうやってその感想を伝えるか30分くらいあれこれ考えた末に結局やめてしまった。 

描いてくれた人に言いたいことや伝えたいことはたくさんある。でもそこに何となく自分のエゴみたいなものが透けて見えるような気がして、何を言ってもどこか違う気がしてしまう。
これがマンガなら、私の頭上には混乱やモヤモヤを表すぐるぐる曲線の漫符が浮かんでるだろう。

サラッと短文で送るのも違う、それなら送らないほうがマシじゃないか。長文だと重く、短文だと軽い。私の書いた記事に短文の感想が来たら嬉しいけど、同じことを私はやろうと思えない。

あなたの描いたものが好きで、とても共感するものを感じている。あなたの漫画を読むと、どこか胸が温かくなる。これまででいちばん絵も綺麗で表現も美しかった。そういうことをありきたりな言葉で伝えるのも、凝った言い回しで伝えるのもなんとなく憚られた。

私の本当の気持ちはあのぐるぐるモヤモヤの漫符の中にある。
私はきっとあの漫符のような名前のないモヤモヤのために記事を書いてるんだと思う。

このところずっと、どちらかというと暗めの記事ばかり書いているが、私自身は実はさほど暗いとも思っていなくて、実際書くことでその時の感情の大半は昇華してしまっていたりする。

読んだ人にはどこかに共感できるものを感じてもらえたらもちろん嬉しいが、もしそれがなくても単に見ず知らずの他人のダサいところやイタいところを肴に美味しいお酒でも飲んでくれてたら、それはそれでいい。

私もそうしてる。他人の赤裸々な心の内、そういうものを読めるのは楽しい。楽しいというか、おいしい。心にとって美味しいと感じる。私は性格が悪いのかもしれないが、根本で他人の不幸を嗤いたいわけじゃなく、ただ他人の心の内奥にあるものを知りたいのだ。

つねに前向きで、いつも何かしらの気づきやヒントを与えてくれる、そんな記事ばかり書いてる人もいる。ビジネスの世界では自分の提供するものが誰のどんな問題を解決できるのか、そういう視点を常に持たなければいけないという。

大量のポジティブ記事をものすごい更新ペースで量産し続けてる人達がいる。なんとなく共通点があって、毎回挨拶から始まり、目次があり、ところどころそれらしい画像が埋め込まれ、文末は今日はここまでです、読んでくれてありがとうございました、みたいに締めくくられているような記事だ。

そんなにポジティブなことが毎日泉のように湧いてくるなんてすごいなと思う。たくさんのスキもつく。それを毎日のメンタルサプリにしている読者がたくさんいるんだろう。

私にはそんな記事は書けない。私には、本当のところ誰のどんな問題も解決なんてできないような気がしている。

私が好きなのは独白である。私が読みたいものも書きたいものもそういうものだ。
誰かに向けて書かれたメッセージではなく、誰に向けたものでもない、何なら誰のためでもない、ただその人の “内面を満たしているもの ”が見たい。

心の中にあるものを言葉にして外に出してるのだから、結局同じことだと思われるかもしれない。

そうかもしれないが、いちど言葉として “ 外 ” に押し出された言葉いうのは、それまで “内面を満たしていたもの ”とは、同じようで何かが決定的に違うような気がする。

言葉にして外に出した瞬間から、 形のない“内面を満たしていたもの ”には輪郭が与えられて、その純度は確実に損なわれる。

ただそれが独白のような取り留めのないものであると、その本質が非常に高純度で残されているように感じる。私の心はそういう記事や漫画を「おいしい」と摂取している。

だから感謝している。これまでたくさん見てきた、どこの誰かもわからない人達が、ひっそりと誰にも見られないようなところで綴った、内面を満たす想いのようなものに触れることができたこと。
もう誰の何て記事だったかも思い出せないけど、その中にある印象的な言葉だけが心に残っていてときどきふっと思い出したりとか、そういう知らない誰かのつぶやきみたいなものにたいして時折コメントしたり、しなかったものもあるけど、心の中で「ここで見てるよ、読んでるよ」と密かに思っていたり、なんというか、そういうのでいいのかもしれない。

私の書いた取り留めのないものが、スキをつけてくれるごくごく僅かな誰かにとって「おいしい」ものであることを願う。


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