学びと思考と実践と

 「学ぶことは真似ること」とよく言われる。たしかにその通りで、何らの知識も経験もない者は、「何をどのように考えればよいのか全く見当もつかない」状態である。そこで、先人の言葉や思想を「まねぶ」ことで経験を積んでいかなければならない、とされる。それゆえに、学校教育においても、まずは教師の「読解」を真似て、生徒も「読解」することが推奨される。
 しかし、この「真似」、いわば「模倣」が実は厄介なものである。なぜなら、多くの生徒が「模倣」のまま留まることに自足してしまうからだ。むしろ、その「模倣量=知識量」の多寡を自慢までする。すると、その「知識」を前提に自分で考え、思考し、さらにはそこから実践していくという発展段階に進むことなく、ただ「知識獲得競争」の渦中で一喜一憂し続けて終わるのが大半である。ただこれは本人の責任ではなく、現行の教育のあり方自体に原因がある。
 それは「功利主義」や「合理主義」という現代の価値観を背景にした教育法である。そもそも近現代教育の目的には、「エリート育成」と「工場労働者育成」の両者が存在する。一般に前者が優位とされ、後者は前者に支配されるものと説明されがちである。だが、この二元化、図式化はあまりにも短絡的だ。これらの区別は所詮「学び」の段階での区別であってさほど違いはなく、両者ともに「功利主義」と「合理主義」に裏付けられた『生産性』を求められ続ける「無思考無実践者」にすぎない。
 かつて夏目漱石が『模倣と独立』という講演において、「人間には二通りの色合いがあり、イミテーション(模倣)とインデペンデント(独立)です。」と述べて、明治の改革においては、西洋の真似ばかりしているから、今は「本式のインデペンデントになるべき時期はもう来ても宜しい」と主張した。しかしこの「イミテーション」のみが優先され、道徳法則の外圧にさらされ続けると述べていた。また、漱石は、『現代日本の開化』で、「労力節約の願望の方面」と「勢力消耗の娯楽の方面」という「二つの入り乱れた過程の錯綜」によってもたらされた開化は、「妙なパラドックス(逆説)」という現象が起こる」とも述べていた。それは、「開化によって生活が楽になっていなければならないはず」なのに、「開化が進めば進む程競争が劇(はげ)しくなって生活はいよいよ困難になる」と述べていた。これは「今日は生きるか死ぬかの競争は大分超越している。それが変化してむしろ生きるか生きるかの競争になってしまった」のである。生存競争が、いわば生き方の問題になったということだ。すると、絶対的実存の問題が相対的実存の問題にすり替えられたと私は理解している。だとすると、生存競争は際限なく続き死ぬまで安寧は訪れない。この「相対的価値への盲従」に先の「イミテーション(模倣)」が欲望されるのだ。
 では、この生存競争を支配する「相対的価値」とは何かといえば、当然交換によって価値が生まれる産業資本主義における貨幣だ。この貨幣を流通させる「市場原理」はゆえに相対的価値しか持たないのに、絶対視される。その結果「効率性」、「合理性」、『生産性』の絶対化が生まれ、非効率的で生産性の無い「インデペンデント」はむしろ嫌悪され、冷遇される。だから人々は、社会全体で絶対視される価値に恋々とし、周囲の相対的価値をつぶさに観察し、「自己利益」に通じるもののみに、汲々として平気な、むしろ自慢げなのである。これでは社会全体は、停滞と減退と滅亡しかない。
 そこで、多くの思想家作家が対策を述べてきた。ここに藤田省三と山崎正和を引用しておく。
 新石器時代以来の人類史的大変化に曝されるに至ったところに今日の根本的危機性があるということは、もっともっといろいろな局面について自覚され見詰められ考慮されなければならないであろう。……此処には目の廻るような歴史の延長と変化が、一つ一つの個別的事物への注視と分かち難く交差し合っている問題群の世界がある。……現代の精神世界の根底を形作っているものはこの問題群なのである。だから、この問題群に忠実に対決することを措いて今日において知的誠実と思考の真理性を確保する道はない。
 現代が含み持つ問題群をまるで度外視した別の実用的目的から「論題」を取り出して、それに対する精密な「解答」を作成しようとする研究上の姿勢がもしありうるとすれば、作業場の経験になりうるとしても、精神の経験には決してなりえないし、「真なるもの」とはなり得ない。……。
 こうして私たちは、真なるものと偽なるものとの質的な違いを発見しようとする限り、「解答」主義への警戒と「問題」の分野の重視に導き入れられることになる。……その質を見究めようとしないところには、真偽の別はついに分からず、現代の根本的危機性もついに見過ごされてしまう。そこには「処方された幸福」を「自ら開発した幸福」と取り違えてベンベンと満足な日を送る精神の死骸が残らざるをえないだろう。藤田省三『精神の非常時』
 
 価値の多元化した現代は確かに伝統的な倫理が歪み、絶対的な道徳が見えにくい時代になった。だがそれは人々が必ずしも無道徳になる時代ではなく、一回ずつの行動を通じて道義を探求し、発見してゆくことが可能な時代だとも考えられる。不可欠なのは世界を支配する不動の命令ではなく、人々の内にある敏感な倫理的感受性なのだ。                                
            山崎正和『現代の倫理と倫理的感受性について』
 
このように、相対的価値に蹂躙される現代においては、一人一人の「感受性」を磨き、真偽に忠実に生きて行かなければならない。そのためには、「知識量」に自足するのではなく、感受性と独立した思考力と、問題群に対決していく実践力が大切なのだ。最後にエマニュエル・レヴィナス(西谷修訳)の『実存から実存者へ』から引用して終わる。
 「ひとは存在する」のではなく、「ひとはみずからを存在する」のだ。……つまり、行為は存在への登録なのだということである。そして行為を前にしての後ずさりとしての怠惰は、実存を前にしてのためらい、無精で実存したがらないということなのだ。       

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