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【俳優 篠崎健人】父と友に導かれた俳優として生きる道

まえがき

撮影:松野貴則 俳優の篠崎健人さん

父と息子の関係はいつも歪である。

息子にとって父は、母親ほど真っ直ぐに想いを伝えられない存在であり、
本音を語るには照れくさすぎる存在。

父親と息子の関係性は"家族"でありながら、
また別の要素も内在しているようだ。

友情
信頼
畏怖
ライバル

いつの時代も、
一言では語り尽くせない
父と息子の距離感がある。

今回は俳優として活躍する篠崎健人さんをインタビューさせていただいた。

30歳を手前に、
人生の選択に迫られている今。

彼の歩んできた道のりが、
30代を生きる道しるべにもなる。

篠崎さんの人生を見つめると、
そこには亡くなった父親の存在があった。

子は親の人生を本当のところで知ることはない。

子供の中で
心から伝えたい言葉が見つかった時、
親はもうそばにいてあげることはできない。

もしかしたら、
それでもいいのかもしれない。

心の底から分かり合えることは
ないかもしれないけれど、

面と向かって
腹を割って話すことはないのかもしれないけれど、

それでも

どこまでいっても

父と子。

この篠崎さんの記事を通して、
あなたのお父さんを思い返してみてほしい。

そして、
今だから伝えられる言葉。
もう伝えられない言葉。

そんな言葉たちが、
それぞれの胸の中に見つかることを祈って書き進めていく。

第1章 父の死が全てを変えてしまった

撮影:松野貴則 箱根駅伝を目指して走った道

篠崎さんが俳優業に進まれた大きなきっかけは何だったのでしょうか?

1番大きな原点で言えば、父の自死にあると思います。僕は地元が栃木なんですけど、大学進学で上京を決めました。

僕、陸上選手として箱根駅伝に出るのが夢だったんです。

篠崎さんの目の奥には、今でもその当時の炎が燃え続けている。そう思わせるまっすぐな目をこちらに向けて話し続けた。

だけど、大学2年生のある日、地元にいる父親が自殺したって連絡が届くんです。

僕自身、まだまだ言語化されていない感覚もありながら、今こうして話しているのですが、
僕の中では、結構でかい出来事だったんですね。

子供たちに厳しかった父が、自死という最後を選んでしまった。
世界の見え方がどんよりと灰色に変わるのを感じました。

人の声も
町の音も
遠くで聞こえる騒音も

全てが僕にとって大きすぎて、不快で、
いつも自分の心がザワザワしている。

僕は役者業を選んだ原点は、
その時の経験から来ています。

ここまで生きてこられた、その時間の積み重ねがお芝居や作品へと生まれ変わる。

そして、いろんな人の心に届くっていうところまでが……。

なんて言うんでしょう。

親父が亡くなるっていう出来事があってからの
自分にとっての唯一の生きる手段でした。

第2章 不器用な父親と息子

撮影:松野貴則 篠崎さんが青春を過ごした町の公園

生前、お父様とはどのような間柄だったのですか?

そうですね。

もうほんとに簡単に言ってしまうと、
僕にとっては煙たいというか、威厳があって怖い父親だったんですよね。

昔気質(かたぎ)の義理人情を大切にしていた父親だったから、結構、厳しく見えてたんです。
当時の僕には。

その上、外見も結構、怖モテな感じだったから、逆らえない存在でした。

ただ、僕が小学校低学年くらいの頃は、2つ下の弟も含め、すごく可愛がってもらっていて。

「愛されていたな」って感じられる思い出がたくさんありました。

週末の休みには、大きい公園とか水族館とかテーマパークとかに連れていってくれるような父親でした。

今思えばですけど、ぼくが小中高と思春期に入っていくにつれて、父も仕事を一生懸命頑張ってくれていたんだと思います。

だから、実は少しずつ余裕がなくなっていったのかもしれません。

お父様はどのようなお仕事をされていたのですか?

元々、父は婿入りで、僕の母親の祖父が経営する家業の材木屋に務めていたんです。

家や町の商業施設に使われる木材などを売買するのが仕事でした。

だから、いわゆる職人気質の方たちを相手にしていたんですね。それこそ義理人情の世界。

でも、そのうち、祖父が家業を畳むことになったので、父は別の仕事を探すようになったんです。

必死に勉強をして、色々資格も取って、地元の産業廃棄物を扱う会社に勤めるようになりました。

現場では処理しきれなかった危険物を処理するんですけど、その新しい仕事が忙しくなり、次第に帰ってくる時間も遅くなり始めました。

子供の目から見ても大変そうで、
なんとなく不機嫌そうに見えていたんですね。
思い返すと、僕が中学に上がるくらいから、あんまり笑っている姿を見ていません。

本音や感情を表に出さないところが、
父親らしい不器用な一面でもあったと思います。

第3章 父親に言えなかった言葉

撮影:松野貴則 

お父様の印象は亡くなる前と後では、大きく違いますか?

えぇ。父親の葬儀の時、想像以上に沢山の人が集まってくれたんですね。

僕は親父の交友関係とか全然知らなかったんですが、地元の友達とか、会社の後輩の人たちが親父のことを沢山話してくれて。

「君のお父さんは、中学の頃、水泳部だったんだ。実は僕が川で溺れていたのを助けてくれたのが君のお父さんだった。君のお父さんは、足が速くて運動神経が良くてね。川にバーンって飛び込んで、僕を救ってくれたんだ」

「管理職として、たぶんとても大変な思いをして働いていたと思う。他の人だったら、僕らみたいな部下に大変な仕事を任せるのに、君のお父さんはそうしなかった」

「結婚したばかりの後輩が残業しているとね、『早く帰れ』って。仕事が残っていても、自分が代わりにやってくれて。上からのプレッシャーもあったはずなのに、僕ら後輩のことをよく守ってくれたんだ」

皆、泣きながら親父のことを話してくれました。僕は不愛想な親父しか知らなかったから、本当にびっくりして。

葬式では、気が動転している母親の代わりに長男である僕が喪主をしていました。だから、最後まで泣かないって決めていたんです。

でも、全てが終わるころには、
やっぱり、いろんな感情が溢れてきて、
もう気持ちの整理ができませんでした。

恐くて、厳しくて、不愛想な父親が、
こんなにも格好よくて、
人を守る正義感の強い人で、
後輩や友達から愛されていたなんて。

堰き止めていた感情が、
一人になった瞬間にボロボロ溢れました。

撮影:松野貴則 いつまで変わらない床屋さん

篠崎さんは感情的になることもなく、
記憶をひとつひとつ手繰り寄せるように
話を続けた。

これも親父が死んだあと、
母親から教えてもらったんですけど、
僕の上京の手伝いを親父と母親がしてくれたんです。

地元を離れて、
僕が東京で暮らすことは
家族にとっても大きなイベントでした。

僕自身、とても寂しい想いがあったんですが、
親父はいつも通り、感情を顔に出さないので、
正直、何を感じているのか分からなかったんです。

でも、東京から栃木への帰り道で

「やっぱだめだな」
「あいつがいないと寂しいな」って。

あの親父が目を潤ませながら帰っていったって。

僕の箱根駅伝への夢を、
一番応援してくれていたのも親父でした。

中学時代、僕が駅伝大会で優勝した映像が残っているんです。

そこには、一生懸命走っている僕が映っていて、
ビデオカメラを回してる親父の声だけが入っていました。

「あぁ、よくやった。よくやった」って。

いろんな親父の姿が、
いくつもいくつも死んだ後から出てきて、
すげー嬉しいのに、その何倍もすげー悲しくて。

画に描いたような不器用な親父に、
僕は最後まで、なんも言えませんでした。

「親父、大好きだったぜ」
「家族のために頑張ってくれてありがとう」

第4章 全ての点が繋がり俳優の道へ

撮影:松野貴則 新宿の夕暮れ時

伝えられなかった言葉、そしてお父様への想いと、今はどう向き合っているのでしょう。

正直、父の死に直面して、僕は真っ直ぐ生きられなくなりました。

どうして、親父は自殺をしてしまったんだろう。
誰が親父をこんな風に追い込んだんだろう。

そういう思考が頭の中でグルグルして、
悲しみと同時に、
親父を死に追いやった奴らへの憎しみも湧いてきました。

親父の葬式から1か月。
僕は東京には戻らず、とちににのこっていました。遺品処理や遺産相続の話も進める必要があったんです。

心も体もしんどい日々の中で、
正直、全てのことに自暴自棄になりました。

陸上も大学も何もかも辞めて地元に帰って、
親父を追い込んだ奴を見つけ出そうって本気で思っていました。

本当に復讐してやろうって。
そんで悪いことして生きていこうって。

でも、そんな僕を見捨てずに気にかけてくれたのは、陸上部の友達だったんです。

「お前いないとつまんねぇよ」

そう連絡してくれる友人が何人かいました。
でも、僕はなんて返したらいいか分からなくて。

そんな自分の姿を見かねて、
母親が大学は卒業してほしいって言うんですね。
親父が僕の活躍を一番応援していたからって。

そういう周りからの励ましがあって、
何とか気持ちを持ち直して、
前向いて生きようって思って立ち上がるんですけど。

やっぱり人の心はそんな単純にはいかなくて、
何度も「もうダメだ」って思うことがありました。

でも、そんな時にいつも助けてくれたのは、
やっぱり大学の友人たちでした。

そういう時間の積み重ねが徐々に徐々に、
自分の中で生きていく希望や愛情に繋がっていったんです。

綺麗事を言っているようで恥ずかしいけど、
いつもどん底にある僕へ
皆は手を差し伸べてくれた。

ただ隣にいてくれた。

その彼らの存在がなければ、
「役者をやろう」っていう今に結びついていないんですよね。

アイツらの言葉とか、表情とか、
そういう忘れられない思い出が役者としての今の仕事に繋がっています。

撮影:松野貴則 友との思い出を振り返る

お父様の死や人生のどん底を支えてくれた友人たち。すべての経験が役者業に繋がっているんですね。

はい、それは本当にそう言い切れますね。

皆がいなかったら、僕は今頃ダメだったと思います。東京に戻ってからも、父親の後を追おうって何度も考えました。

でも、その度に皆が支えてくれて、隣にいてくれた。

しかも、眩しいくらいに、皆、陸上を頑張るんですよ。本当に愚直に。

そういう姿を見ていると、
「自分もみんなの隣に立ちたい」って、
自然と前向きな気持ちが芽生えてきて。

こういった全ての経験を仕事として生かせるのは、僕にとって役者という仕事しかありません。

そして何より、
自分が活躍したことで、誰かの勇気になれる。
誰かの力になれるのが役者という仕事の魅力だと感じています。

地元の友達も、自分がSNSやテレビで活躍すれば喜んでくれる。

自分のすべての人生経験を使って、
役の生きざまを表現し、
観てくれた人々に生きる希望を届けられる。

映画や役者にしか救えない人々の心って絶対にありますよね。

大学4年の僕が外にも出られず、自暴自棄になっていた時、ゲオで10本くらい映画を借りて観ていました。

そのうちの何本かが心に刺さって、明日もまた頑張ろうって思える。

人の人生に刺さる芸術。
それが映画です。

これは絶対、誰かに届くっていう想い。
誰かの明日の希望になれたらっていう想いで
作品に関わっていきたいと、今は感じています。

あとがき

「人が生きる強さ」

それは樹齢何百年の大樹のように、
‟立派で決して揺るがない存在”ではないように思う。

例えるなら、横殴りの強い雨風に吹かれても、
折れずにシナる竹のようなイメージではないか。

目の前に想像を遥かに超える不幸が押し寄せる。
「もうダメだ……」と心が折れそうなとき、ギリギリまで体をシナらせて、何とか持ちこたえられる土壇場の生命力。

そういう、人としての本質的な強さを篠崎さんは感じさせてくれる。

インタビューをしている時も、話を聞いているこちらが胸が苦しくなる中、
篠崎さんは淡々と言葉を紡いでくれた。

どこまでも真っ直ぐな言葉。

これでもかと言うほどにストレートな言葉。

一度、折れかけた竹は本当に強い。
きっと、深い傷を補強してくれる仲間たちがいるからだろう。

篠崎さんはインタビューでこうも語ってくれた。

「人に恵まれたランキングがあったら、僕、日本のトップ50ぐらいに入ると思うんですよね(笑)」

篠崎さんと同じ状況に立たされた時、
どれだけ多くの人がこの言葉を真っ直ぐに言えるだろうか。

沢山傷ついて、
沢山落ち込んで、
沢山泣いて、
沢山憎んで、
沢山挫折して。

絶望を何度超えても、人のために生きたいと願うその語り口は、亡くなったお父様の面影を感じさせる。

弱き人々のために生きたいという志。

篠崎さんは、映画での活躍にこだわる。
最も人の人生を映し、
最も人に寄り添える芸術作品。

俳優・林遣都さんのような泥臭い芝居を志す篠崎健人さんの人生が日本の映画業界で、どこまで真っ直ぐ伸びていくのか。

この傷だらけで、補強だらけの竹には、
計り知れない強さが秘められている。

プロフィール

撮影:松野貴則

篠崎健人/俳優

1996年、栃木県生まれ。東京の大学に進学。大学卒業後、俳優の道を志し、TikTokなどショートドラマに多数出演。

映画や舞台など、精力的に活躍の幅を広げている。


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