見出し画像

写真映えしないものにこそ向き合うべきな理由

Facebookには大学や高専の時の友達がいっぱいいる。つながるのが嫌で繋がらなかった人は「友達かも?」にポツリと表示される。時々そのリストとタイムラインを意味もなく眺める時がある。

嫌だな、と思う人の大半はやたらと映えている日常がある。寄附で日本一周とか偉い人との対談とか。多分そういうのがお似合いな人だし、無意識のうちに見せようとしているのだと思う。


私は多分発達障害なんだと思う。あまりにも人格面の問題で人生つまづきすぎている。障害だと親も認めたくなかったし。ずっと普通だと言い張った。努力が足りないと。

辛くて学校に行けなかった時もあった。

抜毛癖が酷くて頭が禿げていた時期もあった。

つまるところ写真映えのいい時代はあんまりない。

あったとしても多分芝居してる時代だと思う。

ジェンダーを大事にしている親だったからめっちゃ怒られた


親に言いたい。君んちの「普通の」子は随分病んでるなあ。

もう今となっては済んだ話だけど。(そういうことにしておいてやろう)


苦手なことはとことん苦手だけど、得意なことはとことん得意。

日常の心が不安定で、続けようと思える事象がなかった。

唯一続けられたのが演劇くらい。だから結構しがみついていた時期はあった。


そして非常に残念な話だけれど、私が今やっている演劇活動は誰かの命を救えるほど大それたものではない。私の描く絵は人の命を救わない。でもなんだかんだで続けている。


私の持つ資格は命を救っているかもしれない。

だから真面目に働こうと思う。


写真映えするものは結局レンズ越しに見た世界にすぎない。

今見るべきなのはレンズを通さず見た写真映えしないものなんじゃないだろうか。


いろんな形の病気が定義されていっている。

精神の病気になる人が日に日に増えていっている。

小さいものから大きいものまで世界各地で戦争が起こっている。

勤め先の人、明日誰かがなくならない確率何%?

認知症への恐怖。隣の家の子いつも泣いてる。

看護師さんの給料ってなんであんなに安いんだろ。

悲劇はいつでも日常のそばにある。


写真映えのしない日常をいつも生きていた。

名前のない悲劇がある。

声が出ない被害者がいる。

聞こえない叫び声がある。

そういうものがあると私は知ってしまった。

誰にも伝わりづらいしんどさがある。


写真映えしないものこそ向き合わないといけないと、私は思っている。

2022.11.15

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?