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現役警察官が放つ圧倒的リアリティ!『ヒヒは語らず』試し読み

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ヒヒは語らず
[著]アンナ・カロリーナ
[翻訳]久山葉子

(以下、本文より抜粋)

十三人の警官が出動ブリーフィングの開始を待っていた。ガレージでは出動前の義務点検が行われている。エンジンオイル、ウインドウォッシャー液、冷却水の量、タイヤの空気圧。サイレン、青い回転灯、ウインカー、ライトはちゃんと機能しているか。封鎖テープは? 用紙は全種類揃っているか? 罰金用のフォームは? 車のシートを持ち上げて中まで確認する。こっそりトランクスの中からマリファナを出して、まんまとそこに隠すやつがいるのだ。几帳面な警官なら、点検リストはかなり長くなる。勝手にリストを短くした警官たちは、警察庁が導入したコーヒーマシンのコーヒーを飲んでいるか、弁当箱を空にするところだった。
 出勤するのが遅くなったアマンダは、手作りのラザニアをかきこんでいた。冷凍しておいたのを電子レンジで温めたから、端のほうは火傷しそうに熱く、中はまだ凍っている状態だった。それでも全部食べきった。いったん出動したら、勤務時間内にいつまた食べられるかわからないのだから。
 時計の針が二十二時を指す二十秒前に、アマンダはブリーフィング室に駆けこんだ。ラザニアの最後の一口を飲みこんだのとほぼ同時だった。
「危なかったな」マルキュスが長方形のテーブルに腰をかけている。
 マルキュスはケーキのことを言ったのだ。遅刻した者は、休憩(フィーカ)に美味しいケーキを持参しなければ職場でいじめられる。それは暗黙の掟だった。うっかり交通事故を起こしたり、無線で間違った内容を伝えたり、不注意なミスをしたりしてもだ。ここの裁判官は見逃すよりも有罪にする傾向が強い。つまり、休憩室には常にケーキがあった。
 アマンダは椅子に座るために無線機を外した。この椅子は、制服を着用した警官が座るようにはできていない。拳銃、OCスプレー、警棒、手錠、予備の弾倉、無線機といった装備がぶら下がった腰のベルトは重く、かなり場所を取る。彼らは長い間、この椅子のひじ掛けは邪魔だと訴えてきたが、備品購入の担当者に無視されるだけだった。この椅子の議論は署内で何度も交わされてきた。些細なことに思えるかもしれないが、毎日座る者にしてみれば耐え難いことなのだ。
 皆それぞれ、自分なりの座り方を編み出している。右脚を開き、拳銃がひじ掛けの下にくるように座る。でなければ左脚を開き、無線が左のひじ掛けの下に収まるようにする。ある同僚に至っては、かなり斬新な方法で問題を解決した。椅子からひじ掛けをもぎ取ってしまったのだ。
 今夜のパトロールでは何が起きるだろうか。アマンダは考えを巡らせた。いつも想像もつかないようなことが起こるのだ。それがこの仕事の魅力でもあった。
 ストックホルム西地区の所轄地域は、色とりどりのお菓子の詰め合わせのようだった。シスタ:人種のるつぼで、万引きが多発するショッピングモールがある。ヘッセルビィ:福祉局常連の王国。ヴェッリングビィ:アル中の集会所。ブロンマ:〈地獄の天使(ヘルズ・エンジエルス)〉の根城で、ときどき空港の警報も鳴る。スンドビィベリィ:独身男の町、略してスンパン。週末の酔っ払い騒ぎと、目の周りの青あざ。ラップを歌ってアイデンティティー探しをする少年たち――つまりヒップホップ歌手志望(ワナビー)に、現金輸送車強盗ワナビーの巣窟。アルヴィーク:ニキビ面のおぼっちゃまの口癖は、「うちのパパは弁護士なんだぞ!」。ノッケビィ:いかれたやつらが撃ち合う町。そこから橋を渡った向こう側にある美しいドロットニングホルム:観光名所でもある王家の城と頭のおかしなストーカー。エーケレー島:牛が脱走。ソルナ:フーリガン。リンケビィ/テンスタ/ユールスタ/アーカラ:このあたりは「うちのパパは弁護士なんだぞ!」系以外、各種ひしめき合っている。麻薬ならいくらでも。茶色に緑に白、なんでもあり。小粒の強盗、大物の強盗。お互いに盗み合う強盗たち。
 本日の機動捜査責任者ニルス・セーデリングがブリーフィングを開始した。誰が誰と、どのパトカーに乗るか。前回の出動以来どんな事件が起きたか。今日のパトロールで留意すべき点。そして最後に、今日の名前の発表。今日の聖人名と名前が同じメンバーを皆の前で紹介するのは、セーデリングの専売特許だった。なぜそんなことをするのか理由は知らないが、今となってはそれなしにはブリーフィングが終わった気がしないのだった。

 なぜこんな最悪な仕事を選んだのだろう……。同僚のトッベの頬を涙が伝っている。アマンダは、彼が涙をぬぐうのを見つめていた。
 二人は今、〈アストリッド・リンドグレーン子供病院〉で、赤ん坊の死亡確認をすませたところだった。たった四カ月しか生きられなかった男の子。わが子を殺した疑いで母親と父親が身柄を拘束されている。揺さぶられっ子症候群――近頃、頻繁に取り沙汰される事件だ。
 看護師が部屋へと案内してくれた。黙って首をうなだれたまま、二人の先に立って歩いていく。聞こえてくるのは、彼女がゆっくりと一歩進むたびにサンダルが床にこすれる音だけ。看護師がドアを開け、入るよう促した。部屋の中は薄暗く、小さなキャンドルだけが灯っている。むき出しの壁は、消毒したように真っ白だ。部屋の中にある家具は、壁際にあるステンレス製の台のみ。その台の上で、黄色の毛布が小さな塊を覆っている。
 看護師がそこに歩み寄り、そっと毛布をめくった。中から現れたのは硬直した遺体――そこに横たわるには小さすぎる身体だった。透きとおるほど白い肌。真っ青な唇。目は閉じられている。もうこの世界を探検することのできない目。
 あまりに現実味がなく、アマンダは理解に苦しんだ。温かくない赤ちゃん。大人の関心を引こうとしない赤ちゃん。ばぶばぶ言わない赤ちゃん。泣きもしない。
 ただじっと、黙ったまま。
 誰かが、その子の脇に赤いリボンのついたクマのぬいぐるみを置いていた。
 トッベはその信じられない光景に背を向けた。彼の気持ちはよくわかる。トッベには一歳になる子供がいるのだ。アマンダは身元確認バンドに“ヒューゴ・リンストレーム”と書きこみ、それを赤ん坊の手首に巻いた。あまりに華奢な手首だった。それから、検死のために法医学研究所に移送する手配をした。
 独りぼっちのヒューゴ。一緒にいるのは、クマのぬいぐるみだけ。

「さっきはすまなかったな」トッベが頭をどさりとヘッドレストにもたせかけて言った。
 アマンダは暗い通りにパトカーを進ませていた。「いいのよ」
「今日のシフトがお前とでよかったよ」
「そうね。次はわたしが取り乱す番かもしれないし」そう言って微笑みかけると、トッベはありがたそうな表情になった。
 でも、そんなことは絶対にない。アマンダが取り乱すことなどありえないのだ。泣いたことで気まずい思いをしないように、相棒のために言っただけ。拳銃と警棒を持った大きくて強いおまわりさんが泣くなんて。でも、それでいいのだ。泣いたのが自分だったらよかったのに、とアマンダは思う。もう何年も泣いていない。あれ以来――アマンダはその考えを振り払った。
 二人はしばらく黙っていた。ワイパーがゆっくりと左右に揺れている。小さなヒューゴの手配が終わる頃、霧雨が降り始めた。濡れはするが、雨粒を感じないような雨だ。車に座っているぶんには心地よい。
 アマンダはカーラジオを、106・3MHzに合わせた。エドセル・ドープの叫喚がスピーカーから聞こえてくる。「死ねよ(ダイ)、クソ野郎(マザーファッカー)、死ねよ(ダイ)、クソ野郎(マザーファッカー)、死ねよ(ダイ)、クソ野郎(マザーファッカー)……」
「今の気分じゃないわね」アマンダはまたラジオに手を伸ばした。
「いいや、いいよそのままで。いつまでも落ちこんでいるわけにはいかないだろ。次に向けて気分を変えないと」
 アマンダは身を屈かがめ、ボリュームを上げた。
「死ねよ(ダイ)、クソ野郎(マザーファッカー)、死ねよ(ダイ)、クソ野郎(マザーファッカー)、死ねよ(ダイ)、クソ野郎(マザーファッカー)……」
 ズンズン響くヘヴィメタルを聴くうちに、いつものトッベに戻ったようだ。小さなヒューゴは“リュックサック”に詰められたのだ。ある程度の経験を積んだ警官なら、そのリュックサックはもういっぱいになってしまっている。
 パトカーはストックホルムの夜を進み続けた。工業地帯を巡回し、ソールヴァッラのキャンプ場に立ち寄る。エッペルヴィーケンは明かりの消えた一軒家ばかりだ。ベーカリーで焼きたての小さな丸いフランスパンを買った。車を何台か停めて、飲酒運転の検問も行った。そのとき、ズボンのポケットの中で携帯がぶるぶると震えた。アマンダはメッセージを送ってきそうな知人の名前をいくつも思い浮かべた。携帯画面の名前を確認する前は、いつもどきどきする。気分の上がるようなメッセージ? それとも単にママから? もしかしたら、めちゃくちゃ嬉しくなるようなメッセージかも。名前を見たアマンダは、満足げな表情を浮かべた。“アドナン”
 一昨日のアドナンだ。お腹のあたりで奇妙な感覚が広がった。やだ、わたし浮かれてる? 彼から連絡が来るという予感はあった。問題は、いつ来るかだ。二日で来るなんて予測より早かった。だって、暗黙のルールでは三日でしょ?
 アマンダはメッセージを読んだ。“調子どう? 合える?”
 文面を分析してみる。“調子どう?”――どういうつもり? 単なる友達ってこと?
“合える?”――わたしに会いたいことは会いたいらしい。でも、友達としてって可能性もある。それに、いつよ。綴りの間違いも気に障った。こないだは会えて嬉しかったとも書かれていない。スマイリーマークひとつついていない。照れくさい? 自分の気持ちを表現するのが苦手なだけ? そもそもわたしに興味あるわけ?
「何にやにやしてるんだよ」トッベがアマンダを見つめ、携帯に視線を移した。運転中なのに、携帯を長く見つめすぎたようだ。
「ショートメールが来ただけ」
「なんだよ、教えろって」
「ちょっと気になる人がいて」
「誰だよ。署の人間か?」
 アマンダは道路に集中しながら、携帯をまたズボンのポケットに戻した。
「まさか。警官と付き合うなんてありえない」
「そう言うだろうと思った」トッベがアマンダの腕をつついた。「じゃあ教えてくれてもいいだろ」
「実はよく知らないのよ。ちょっと話しただけで。いい人そうだったけど」
「へえ。どこで出会ったんだ?」
 アマンダは正直に言うべきかどうか少し迷った。「スーパーマーケット」
「ええっ、マジかよ」
「なかなかロマンチックでしょ? 冷凍肉コーナーですごいイケメンを発見したから、近寄って、鶏肉のことで話しかけたんだ」
 トッベはヘッドレストに頭をぶつけながら大笑いした。「本気かよ!」
「だって、誰かが家のドアを叩くのをじっと待っててもしょうがないし」
「確かにな。しかしやるなあ、お前も」
「他にどうすればよかったわけ? すごいイケメンだったんだから」
「度胸があるって褒めたんじゃないか。だが、おれがそいつを認めるには、乗ってる車の車種を知る必要がある」トッベはカーマニアだった。車オタクで、どのメーカーの車種のことも部品のことも、ねじひとつに至るまで把握している。
「ベンツだった」
「悪くないな」トッベは頷いた。「モデルと色は?」
「黒。モデルまではわからない」
「黒のベンツか。なんだかワルそうだな」
 その推測は、意外といい線をいっている。アドナン・ナシミは札付きのチンピラで、ノヴァのリストに名前が載っているほどなのだ。そのことはトッベにも誰にも話すつもりはないが。アマンダは自分が大きなリスクを冒しているのを自覚していた。だが、そうするしかないのだ。「この街じゃ、誰が犯罪者でも驚かない」
「ナンバーは控えたのか?」
「わたしを誰だと思ってるの? とっくに調べたけど、登録されている名前は彼じゃなかった。よく調べたほうがいいかもね」
「ああ、なんだか怪しいな」
「借りてただけかもしれないけど」
 車の所有者について判明した内容も、誰にも教えるつもりはなかった。所有者の男は警察の各データベースに登録されていた。「今度会ったら、ちょっとカマかけてみる」
「じゃあまた会うことになってるのか」
「ええ。このメッセージの意味をわたしが正しく解釈できていればの話だけど。ねえ、男ってどうしてはっきりものを言わないの?」
「なんて書いてあったんだ?」
「“調子どう? 合える?”だけ。そんな書き方するもの?」
「ああ。お前に会いたいってことだろ?」
「もうちょっと他に書くことがあるんじゃない? そもそもこんな文面、全然グッとこないし」
「深く考えるなよ。お前に会いたいんだ。それだけさ」
「やりたいだけってこと?」
「そりゃ、やりたいのはやりたいだろうが……」
 会話が無線に遮られた。ここ三十分ほどは珍しく静かだったのに。指揮統制センターの男性オペレーターの声が聞こえてくる。「30より西地区へ。33-3120、応答せよ。どうぞ」
 トッベがマイクを取った。「こちらソルナ。どうぞ」
「女性がレイプ被害に遭ったとの通報だ。ヘッセルビィのマルテホルムス通り七十三番。六階の部屋で、表札名はディドリクソン」
「了解」
「アパート入口の暗証番号は3588。なお、レイプが起きたのは別の場所で、警察に通報してきたのは女友達とのこと」
「了解。向かいます」
 アマンダは唾をごくりと呑み、動揺を隠そうとした。しかし現実を締め出すことはできなかった。姉との思い出、そして姉がどんな目に遭ったか。そのことがアマンダの頭を占領した。それから無理やり自分を現在に引き戻し、普段どおりの声を出そうとした。おそらくうまくいったのだろう。トッベは何も気づいていないようだから。
「住所はナビに入れたな?」トッベが訊いた。
「もちろん」
 アマンダは青い回転灯をオンにし、空いた道路で車を追い抜きながら進んだ。サイレンは鳴らさないことにした。その場に犯人のいないレイプ被害者宅に向かうのに、半狂乱のようなスピードで運転する必要はないからだ。青い光を回転させているくらいでいい。それでもスピードを出すのは楽しかった。

 アパートの中は暖かく、空気がこもっていて、防弾ベストの中で汗が流れた。尿の異臭が鼻をつく。バスルームのトイレの横にあった猫用のトイレが犯人だろう。リビングには壁際に布張りの小さなソファがあり、ソファテーブルでは灰皿代わりの深皿に、吸い殻が溢れている。ステッラ・ディドリクソンはアームチェアの上で膝を抱いて座り、真っ赤に泣き腫らした目でアマンダとトッベを見つめ返した。青白い頬にマスカラが黒い縞模様を作り、乱れた黒い髪がぺったりと顔に張りついている。
「ステッラから電話がかかってきて、レイプされたって……」アマンダとトッベが名乗りもしないうちに、ステッラの友人が説明を始めた。「でもそれ以上、何も教えてくれないの。すごく怯えているみたいで。この子がこんなになるのは、初めて見たわ」
 アマンダはステッラの脇に膝をついた。「ステッラ、わたしはアマンダよ。話すのが辛いのはわかるけど、恥ずかしいなんて思わなくていいから。悲しいことだけど、こんな目に遭った女の子には大勢会ってきたの」
 ステッラは頷いた。
「何があったか話してくれる?」
 ステッラは首を横に振った。
「じゃあ、イエスかノーで答えられる質問をするわね。レイプされたのは今夜の話?」
 ステッラは一瞬躊躇ちゆうちよしたが、それから小声で答えた。「そう」
「じゃあ、なぜ話したくないのか教えてくれる?」
「話したくないから」
「他の警官が聞いているのが気になる?」アマンダはトッベのほうを振り返った。
「ううん、それは関係ない。そもそも警察を呼ぶつもりなんてなかった。エンマが勝手に電話したのよ。話すんじゃなかった」
 ステッラは洟はなをすすり上げ、自分の腕に顔を埋めた。アマンダはステッラが落ち着くまで待った。
「どこで被害に遭ったの?」
 ステッラは頭を振っただけで、何も言わなかった。
「屋外? それとも室内?」
「中」
「犯人は知ってる人なの?」
 ステッラは唇を震わせながら答えた。「誰だかは知ってる」
「何が起きたか、話せる?」
 すると急にステッラの口調が変わった。「あんたたちにはわからない。何も話せないんだってば!」ステッラはそう叫んだ。「地獄を見ることになる。話せないの」
「地獄を見るっていうのはどういうこと?」
「何も話すつもりはない。無理だから!」
 部屋の入口で待っているトッベに目をやると、トッベはこれ以上無駄だというように首を振った。苛立いらだちが募ったが、相手を追い詰めても仕方ないことはアマンダもわかっていた。
「じゃあこうしましょう、ステッラ。今は話さなくてもいい。でも今度、犯人が誰なのか教えてくれる? 脅されているようだから、犯人を突き止めることがなおさら大事。あなた以外にも被害者がいるかもしれないし」
 ステッラは黙っている。
 アマンダは立ち上がって脚を伸ばした。さっきからずっと屈んでいたのだ。「ただ、一緒に病院に行って診察してもらいましょう。すぐに行くのが重要なの。まだ証拠が残っている可能性があるから」
「もうシャワーを浴びちゃったもん」ステッラはアームチェアの上でさらに身体を縮めた。
「それは残念ね。でも、それでも何か採取できるかもしれないし、傷が残っているかもしれない。お医者さんたちはすごく優秀だから、心配することは何もないのよ」
「嫌よ。行かない」
「ステッラ。後悔したくないでしょう。そのときにはなんの証拠もないのよ」
「後悔なんてしない」
「なぜ? どうしてそんなに怯えているの?」
「とにかく嫌なの。わかってるもん。なんの役にも立たないって。わたしがヤバいことになるだけ。どうせ誰も信じないでしょ? 信じるわけがないじゃない」
 ステッラがなぜそう思うのかは、アマンダにもわかっていた。ステッラはクスリでハイになっている。それでも、覚醒剤使用の報告はしないことに決めた。そんなことをしても、ステッラの口を開かせることはできないから。
 アマンダは最後にもう一度だけ説得を試みた。「もちろん気持ちはよくわかる。レイプ被害の捜査は、届け出てからも長い時間がかかるし、必ず証拠が見つかるわけでもない。たいていは目撃者のいない状態で行われるんだから。だからこそ、できるだけ早く加害者を特定しなければいけない。その男の側にもまだ証拠が残っているかもしれないでしょう。時間が経たてば経つほど、有罪判決にこぎつけるのが難しくなる。それに、そいつが他の女性にも同じことをするのを阻止できるのよ」
 ステッラは黙ったまま考えているようだった。しかし再び口を開いたとき、アマンダにも今日はこれ以上無理だとわかった。「あの男はまたやる」ステッラは瞳孔の開いた瞳でじっとアマンダを見つめた。「前にもやってるしね。ばかみたいになんでも試しちゃうから、痛い目に遭うのよ。でもわたしは生き延びてやる。これからも絶対に」

 アマンダとトッベがステッラ・ディドリクソンのアパートをあとにしたのは、朝の五時だった。二人とも、被害者に口を開かせることができず落胆していた。よかったのは、残業を免れたことくらいだ。夜勤明けの残業は拷問に近い。
 ステッラが医師の診察を受けるのを拒否したため、アマンダとトッベはそれに付き添わずにすんだのだ。アマンダは〈セーデル病院〉にかかる看板を思い浮かべた。“レイプ被害者専用受診室”には、アマンダも何度か行ったことがあった。屈辱的な犯罪に巻きこまれた女性に診察を受けさせるために。なのにあの看板は、やっとの思いで病院まで来た被害者を追い返すためにかかっているようなものだ。患者が多すぎるとさばききれないから? 今日もこれで患者が一人減ったわけだ。看板のせいではないが。
 無数の聴取や診察が嫌で、被害届を出したくないという気持ちはよくわかる。それと同時に、アマンダはそんな女性たちを軽蔑してもいた。彼女たちの弱さのせいで、別の女性が同じ目に遭うリスクがあるのだから。姉のサンナのように。誰かが勇気を出していれば、防げたかもしれない――そう思うと、怒りが湧く。
 その朝アマンダが眠りについたとき、ステッラの言葉が頭の中でぐるぐる回っていた。“でもわたしは生き延びてやる。これからも絶対に”なぜ姉にはそれができなかったのだろう。なぜ助けを求めなかったの?

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