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【試し読み】『いま、君にさよならを告げる』(S・D・ロバートソン[著]新井ひろみ[訳])

『いま、君にさよならを告げる』
S・D・ロバートソン[著]
新井ひろみ[訳]

世界が、涙する。
天国より、君の隣で――
“幽霊”になった父から娘へ、やさしい奇蹟。

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 二〇一六年九月二十九日 木曜日
 午後二時三十六分

 今日作った“やるべきことリスト”の中に、死ぬことは入っていなかった。
 あの車を運転していた女性だって、自転車を撥(は)ねて人を死なせる予定なんてなかったはずだ。しかし、結果的にはそうなった。巨大な黒い車が突然、ぼくに襲いかかってきた。ひとたまりもなかった。よける暇などあったものじゃない。
 急ブレーキの音が耳をつんざき、一瞬、宙を飛ぶ感覚があって、そのあと激痛に襲われた。そうしてぼくは、意識を失った。
 気づいたときには舗道に立っていて、血まみれのぼくに救急隊員が、懸命の救命処置を施す様子を見ていた。状況がよくのみこめないまま、がんばってくれ、とぼくは彼らに必死の応援を送った。いまならまだ体の中へ戻れるんじゃないかと思って距離を詰めてみたりもした。が、だめだった。
 ほどなくぼくは死亡を宣告された。
 いや、でも、ぼくはまだここにいる。このぼくは、なんなんだ?
 まず思ったのは娘のエラのことだった。ぼくが死んだら、あの子はどうなる? 両親ともに亡くして、ひとりぼっちだ。絶対にひとりにはしないと、約束したのに。
「おい、待ってくれ! あきらめるな!」ぼくは救急隊に向かって声を張りあげた。「手を止めるな! ぼくはまだここにいるんだ、見捨てないでくれ! まだ死んでなんかいないんだ」
 処置を続けてくれと声を限りに懇願したが、ぼくの声は誰の耳にも届かなかった。彼らにぼくは見えていない。皮肉なことに、事故現場をひと目見ようと規制線に群がる――あるいは、写真を撮ろうと携帯電話をかざす――野次馬(やじうま)にも。
 こうなったら、やぶれかぶれだ。ぼくは救急隊員のひとりにつかみかかった。ところが相手の右肩に触れたとたん、すさまじい力に弾(はじ)き返されてアスファルトにひっくり返った。
 唖然(あぜん)としたが、なぜか痛みはまったく感じなかった。起きあがって、今度はもうひとりのほうに向かっていく。でも、また地面にたたきつけられただけだった。いったい、どうなっているんだ?
「なぜぼくは、まだここにいる?」ぼくは空に向かって叫んだ。
 そのとき、ぼくを車で撥ねた人物が目に入った。若い警察官に見張られながら、メンソール入りの煙草(たばこ)をせわしなくふかしている。消したと思ったらまた新しいのに火をつける。「ほんの一瞬だったのよ」煙草をふかす合間に、警察官に訴えている。「カーナビ。あれが足元に落ちたの。それを拾おうとしただけ。そうしたら……ああ、あの顔。目に焼きついて離れないわ。フロントガラスにぶつかったときの彼の顔。わたし、とんでもないことをしてしまった。あの人、助かる? ねえ、大丈夫よね?」
「これが大丈夫に見えるか?」ぼくは彼女の鼻先に立ち、その顔を真正面からにらみつけた。「助かるように見えるか? ぼくは死んだんだ。カーナビごときのせいで。この姿が目に入らないか? ほら、目の前にいるじゃないか」
 それでなくても魅力的とは言い難いところへもってきて、彼女のハイヒールとストレートヘアの先のほうは嘔吐物(おうとぶつ)にまみれていた。死人みたいな真っ青な顔でぶるぶる震えているのを見ていると、それ以上責める気になれなかった。自分が何をしでかしたか、彼女は自覚している。
「いま、何時だ?」警察官のひとりが同僚に尋ねた。
「三時」
 しまった、下校時刻だ。ここからエラの通う小学校まで、歩いて十五分はかかる。本能的に、ぼくは駆け出した。
 着いたときには、最後の数組が足早に校門を出ていくところだった。郊外の道路の片側車線だけが渋滞するという形で、ぼくの事故の影響はすでに現れていた。
 校舎の裏口へ急いだ。いつものお迎え場所に、エラが心細げな顔でぽつんとたたずんでいる。「おーい、エラ!」がらんとした校庭を走りながら大声で呼び、手を振った。「待たせてごめんよ」
 ばかだった。ほかの誰にも見えないものが、エラにだけ見えるはずはないのに。六歳の娘の視線は、父親を素通りして遠くへ向けられたままだ。ぼくは現実を思い知らされた。
「エラ、パパだよ」そう、何度も何度も繰り返した。エラの前に膝をついて目の高さを合わせたが、救急隊員相手に起きた惨事を考えて、体に触れるのはやめておいた。エラの唇はかさかさだった。ランチボックスの取っ手をぎゅっと握りしめる手は、赤いマジックで汚れている。
 そうか。ぼくは愕然(がくぜん)とした。娘にリップクリームを塗るように言ってやることも、“ばっちいお手々”を一緒に洗ってやることも、もうできないのか。エラは父親が目の前にいるとも知らず、校庭のかなたをずっと見ている。
 エラの後ろのドアが開いて、アフザル先生が顔を出した。
「お父さん、まだ来ない? 教室に入って待ってる?」
「もう来ると思う」エラはそう答えた。「パパの腕時計、また電池が切れちゃったのかも」
「いらっしゃい。事務員さんに頼んでお父さんに電話してもらいましょう」
 ぼくは想像して焦った。ぼくの体を運ぶ救急車内に、携帯電話の着信音が鳴り響く。グリーンの制服に散った血痕も生々しい救急隊員が、ぼくのポケットを探る。エラが事実を知るのは時間の問題だ。
 ふたりについていこうとしたそのとき、誰かに肩をたたかれた。ぼくは驚き、くるりと後ろを向いた。
「ハロー、ウィリアム。驚かせてごめんなさい。わたしの名前はリジー」
 小柄な、ぽっちゃり体型の女性だった。野暮(やぼ)ったいグレーのスカートスーツにベージュのレインコートを羽織っている。
 握手を求められたぼくは、彼女のふっくらした手に向かって、おそるおそる腕を伸ばした。また地面にたたきつけられるんじゃないかと思ったからだ。九月下旬らしからぬ陽光が降り注いでいるというのに、彼女の手はひんやり冷たかった。
「なぜぼくの名前を知ってるんだ? あと、なぜぼくは君に触れても平気なんだ?」
「わたしはあなたを迎えに来たの。ほかにも訊(き)きたいことがありそうね」
「いったい何者なんだ? まさか、天使とか? 冗談はやめてくれ」
 年は二十代後半だろうか。リジーは縮れた黒髪をゆるく後ろで束ねていた。その髪をかきあげる仕草をしたとき、鼻がぴくついた。それを見て、ぼくはウサギを連想した。
「いいえ。同じチームに属してはいるけれど、天使は序列的にもっとずっと上。わたしのことは案内人(ガイド)だと思って。この世からあの世へ、あなたが無事に渡る手助けをするのがわたしの役目。いまの気分は、どう?」
「ぼくは死んだんだろう? 君以外、誰にもぼくの姿は見えない。娘にも見えない。娘はもうじき、自分がひとりぼっちになったことを知る。どんな気分だと思う?」
「ごめんなさい。何かわたしにできることはある?」
「ぼくを生き返らせて、代わりにあのドライバーを連れていくとか。ぼくがこうなったのは彼女のせいなんだから」
 リジーは首を横に振った。「それは無理ね。残念だけど。ほかにない?」
「エラと話ができるようにしてもらえないかな? もし本当にぼくが幽霊なんだとしたら……そういう状況さえ作れれば人前に姿を現すことは可能なんじゃないか? 娘に知らせたいんだ。パパはここにいる、君をひとりにしたりしていないって」
「“ゆ”で始まるその言葉、わたしたちはあまり使わないの。何かとネガティブな印象を与えがちだから。“みたま”と表現するのが一般的」
「呼び方なんてなんだっていいじゃないか。娘と話せるのか、話せないのか、どっちなんだ?」
「娘さんにはあなたが見えない。あなたも自分でそう言ったでしょう? それはどうしようもないことなの。わたしがここにいるのは、あなたがあの世へ渡るにあたって、手助けをするため」
「行きたくないと言ったら?」
「あなたがこちらに留(とど)まる理由は何もない」
「娘がいる。あの子にはぼくが必要だ」
「彼女の保護者はもうあなたじゃないのよ、ウィリアム。娘さんはあなたの手を離れたの。あなたはもう“みたま”になったんだから。あちら側は、それはすばらしい世界よ。言葉では言い表せないぐらい」
「君はぼくの質問に答えていない。行きたくないとぼくが言ったら、どうする? 首に縄をつけてでも引っ張っていくのか?」


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TIME TO SAY GOODBYE
by S.D. Robertson
Copyright (C) S. D. Robertson 2016
All rights reserved including the right of reproduction in whole or in part in any form.
This edition is published by arrangement with HarperCollins Publishers Limited, UK
All characters in this book are fictitious.
Any resemblance to actual persons, living or dead, is purely coincidental.
Published by K.K. HarperCollins Japan, 2016

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