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はまる人続出! ミステリー界の新女王カリン・スローター『ハンティング』訳者 鈴木美朋さんあとがき

『ハンティング』カリン・スローター著

訳者あとがき 鈴木美朋

インターネットが発達して外国の情報を集めやすくなった現在でも、世界中で読まれている売れっ子なのに日本での知名度がいまひとつ、という作家がいる。本書の著者カリン・スローターも長らくそのような作家のひとりだった。ところが、デビュー作の『開かれた瞳孔』(原題"Blindsighted")から十三年もの年月を経て、2015年にハーパーBOOKSより『プリティ・ガールズ』(原題"Pretty Girls")が刊行され、ふたたび注目を浴びるようになった。

検死官サラ・リントンが主人公のデビュー作は、いきなり世界的なベストセラーとなり、シリーズとして第六作まで発表されている。その一方で、2006年からは、ジョージア州捜査局(GBI)の特別捜査官ウィル・トレントを主人公にしたシリーズの刊行がはじまった。本書『ハンティング』(原題"Undone")は、この二本の人気シリーズがはじめてクロスオーバーした作品だ。


ジョージア州の田舎町で小児科医兼検死官として充実していた日々を過ごしていたサラ・リントンは、ある悲しい事件を忘れるために大都市アトランタへ引っ越してきて、公立大病院のERに勤務している。ある晩、サラは車にはねられた女性を診察することになる。女性は全裸でふらふらと路上に出てきたらしい。事故にあう前に、レイプされ拷問を受けていたことが一目でわかるほどひどい状態で、肋骨を一本もぎ取られていた。

そこへいあわせたジョージア州捜査局の特別捜査官ウィル・トレントは、女性が事故現場に近いどこかに閉じこめられていたはずと考え、さっそく現地へ向かった。縄張り意識の強い地元警察が歓待してくれるはずもなかったが、ウィルはひとりで周囲の森を捜索し、やがて女性が閉じこめられていた場所を発見する。そこには胸の悪くなるような光景があった。数時間後、もうひとりの被害者が悲惨な姿で発見される。女性たちを監禁し、凄惨な暴力をふるっていた人物はどこにいるのか。次の獲物を狙っているのではないか。

捜査権は正式にGBIに移り、ウィルはパートナーのフェイス・ミッチェル特別捜査官とともに犯人を追いはじめる。

本書もカリン・スローターらしくストーリーの発端となるのは酸鼻を極めた暴力事件だが、実はウィルとサラも暴力のサバイバーだ。ウィルは生後五カ月で母親に捨てられ、里親に虐待を受けては児童養護施設へ戻される子ども時代を送った。いまでも傷跡が残る体を隠すかのように、鎧めいた三つ揃いのスーツで身を固め、真夏でもシャツの袖をまくりあげることはない。

そしてサラも、過去に暴行を受けた経験があり、暴力によって愛する人を失っている。自分をひとつにつなぎとめていた縫い目が綻びて(UNDONE)しまったような痛みを抱えてなんとか一日一日を生き延びてきた。本書はアメリカ以外の国では"Genesis"(創世記)のタイトルで刊行されているのだが、もともと著者は、サラの再出発の物語としてそのタイトルをつけたいと考えていたそうだ。

警官として医師として、ふたりはいまも暴力の被害を日常的に目にしなければならない。過去の傷は、それぞれの仕事のやり方にも深く影響を及ぼしている。とくに、ときおりウィルが見せる子ども時代の傷の深さには、訳していて胸が詰まることもあった。

それぞれに心の傷と秘密を抱えた主人公たちが、異常な心理の犯罪者を追うというストーリーは、ジャンルとしてはサイコサスペンスに分類されるのだろうが、しかし、本書の魅力はウィルとフェイスのパートナーシップにあると思う。

ウィルは診断こそ受けていないが、限局性学習障害のひとつ、ディスレクシアの症状がある。ディスレクシアとは、知的能力に遅れはないが、先天的な脳の機能の偏りによって文字を読み書きすることに困難のある障害とされている。アメリカは特別な支援を必要とする子どもの教育においては先進国であり、ディスレクシアでもさまざまなサポートを受けて大学へ進学し、学ぶことができる。

だが、そもそもディスレクシアとは発見しにくい障害であり、ウィルの場合は子ども時代に住む場所を転々とし、おそらく継続的な保護者がいなかったせいで、なんの支援も受けられないまま成人してしまった。ウィルは持ち前の記憶力と創意工夫により、障害についてだれにも気づかれることなく進学して職を得た。

いや、厳密に言えば、腐れ縁の妻アンジーは、ウィルの障害を知っていて、彼を助けてきた。このアンジーとウィルの関係がまた、一筋縄ではいかず興味深いのだが、それについてはここでは割愛する。

とにかく、ウィルは読み書きの困難にコンプレックスを持ち、コミュニケーションの面でひどく不器用なのだが、そんな彼をときにじれったく思いつつもしっかり者の妹のように支えるフェイスのおかげで、このシリーズはバディ小説としても成功している。

フェイスはウィルとはじめてパートナーを組んだ三日後には彼に読み書きができないことを見抜き、彼が困っているときにはややお節介気味に助け舟を出す。ウィルはそのことにいらだちながらも、同時にありがたく受け止めている。ウィルも助けられてばかりではない。フェイスは、ステレオタイプなマッチョ警官とはまったくちがうやり方で仕事をする彼に一目置き、信頼している。

自分にないものを持っているとたがいに認めあっていても、決して恋愛関係には発展せず、あくまでもバディであるふたりのやりとりを訳す作業は、非常に楽しかった。読者のみなさまにも楽しんでいただければ、これほどうれしいことはない。


著者カリン・スローターは、サラと同じくジョージア州の田舎町で生まれ、現在はアトランタ在住。著者近影に写る女性は小柄なブロンドで、フェイスを彷彿とさせる。サラ・リントンの〈グラント郡シリーズ〉とウィル・トレントのシリーズのほかにも、数作の単発作品を上梓し、現在アメリカでもっとも期待されているミステリ作家のひとりだ。

次作"Broken"(編集部注:『サイレント 上・下』)では、ウィルとサラが彼女の故郷グラント郡ハーツデイルで起きた事件を捜査する。こちらもハーパーBOOKSより刊行が決定している。楽しみに待ちたい。

鈴木美朋

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