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【試し読み】ノルウェーで第1位!『ポー殺人事件』(ヨルゲン・ブレッケ=著、富永和子=訳)

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『ポー殺人事件』
ヨルゲン・ブレッケ[著] 富永和子[訳]

第一部
エドガー・アラン・ポー・ミュージアム

1
一五二八年九月 ノルウェー、ベルゲンの町

 その修道士は、ベルゲンに関するよい噂をほとんど聞いたことがなかった。ノルウェーのよい噂はもっと耳に入ってこない。修道士自身はノルウェーの生まれだが、子どものころの記憶はもう薄れ、ほとんど消えてしまった。ノルウェーは風の吹きすさぶ、失われた土地だ、と人は言う。町と町のあいだも遠く離れている。しかし、少なくともベルゲンはある程度の大きさがある町で、もしもあの床屋がここに落ち着いているとすれば、探していたものを町の少年たちのなかに見つけたからに違いない。
 修道士がロストックから乗ってきたのは、ハンザ同盟(北海およびバルト海沿岸のドイツ諸都市が結成している経済的・政治的同盟)の水夫たちが昔使っていたような機帆船だった。北の海では、まだそういう古い船が使われているのだ。機帆船は申し分なくその役目を果たすが、速さではドイツやイングランドの商船にとうていかなわない。船には、小麦粉や塩、水夫たちが航海のあいだせっせと飲む酒の樽が積みこまれていた。ベルゲンに着く前の晩、水夫たちは前甲板で酔っ払って羽目をはずし、なかのひとりが手すりを越えて海に落ち、溺れ死んだ。溺死した水夫がまだ十四にしかならない若者で、みんなに好かれていたため、水夫たちの気分は一気に落ちこんだ。しかし、何を落ちこむことがある? 修道士には、そのすべてが少しばかり滑稽に思えた。家族を恋しがり、死んだ少年が毎晩大声で泣きつづけていたせいで、修道士はこの航海のあいだほとんど眠ることができなかったのだ。とはいえ、ありがたいことに突然の大波に船が傾き、甲板から落ちた少年が海にのみこまれたおかげで、ベルゲンに到着する前にたっぷり睡眠をとることができた。これもまた運命。水夫は短い一生を勝手気ままに生きる。酔っ払った若い水夫の死を心から悼む者はほとんどいない。
 船が滑るように港に入ったあと、水夫たちは帆を下ろし、錨を下ろす場所を見つけるのに忙しかった。いまは秋だが、町の上にそびえる山々の頂上から吹きつける風は身を切るように冷たい。周囲に見える七つの山はどの頂もうっすらと白い冠をかぶり、下の港は小雨に濡れそぼち、雨の雫が暗い水面に絶え間なく輪を作っていた。
 修道士は町を見渡した。住民の数は一万ぐらいか。港の入り口を見下ろす要塞と、二、三の教会と、散在する商家を除けば、すべての建物が木造だ。木造の建物がこれほどびっしり軒を連ねている町も珍しい。それをぐるりと囲む壁ですら荒削りの丸太でできているようだ。こういう町が火事になったらさぞよく燃えることだろう、機帆船が錨を下ろす直前にそんな思いがちらっと頭をよぎり、頬がゆるんだ。
 修道士は桟橋に到着するのを待って船賃を清算し、一等航海士にそれを払うと、革の財布を外套のベルトからさげた。本来は創設者フランシスコの清貧の理念を体現し、所持金を持たずに善意の施しを頼りにするのが建前だが、この財布の中身はずっしりと重い。町から町へと旅をする身とあって、フランシスコ会の戒めを少々ゆるめに解釈せざるをえないこともある。そうやって不必要な様々な遅れや迂回を避けるのだ。
「よい旅を」航海士はそう言って最寄りの市場へ向かったが、修道士はその場にたたずんでいた。空腹にはロストックで乗船したときから悩まされているが、新鮮な食べ物で腹を満たすのはもう少し先に延ばさねばならない。
 物事にはすべからく手順というものがある。
 そう教えてくれたのは、マスター・アレッサンドロだった。マスターが言ったのは人体を解剖するさいの心得だが、見知らぬ町で急ぎ仕事を果たすときにも役に立つ。マスターが口にしたほぼすべての言葉同様、これも多くの状況に当てはまる。目的のものを手に入れ、無事にこの町を出るつもりなら、きちんと手順を踏むことだ。
 まずは、急いでここを出る方法を見つけるとしよう。

 ナイフを手に入れたらすぐに、さらに北のトロンハイムへ向かわねばならない。そのためにはノルウェーの船が必要だが、今朝、彼がドイツの船を降りたこの桟橋には、あいにく一隻も見当たらなかった。
〝焼きたてのパンやビスケットはどうかね〟と停泊している船の水夫たちに声をかけながら、年寄りの女が手押し車を押してこちらにやってきた。修道士がその女に声をかけ、ノルウェーの船が停泊している場所を尋ねると、女は港の反対側にある浜を指さし、桟橋までの複雑な近道を長々と説明しはじめた。ノルウェーを離れていた十四年の月日が嘘のように、女の言葉がすんなりと耳に入ってくる。長い年月を経ても忘れなかったのは、この言語と……母の顔だけかもしれない。
 修道士は女に礼を言い、小さな焼き菓子を買った。港をぐるりとまわるのは、できれば仕事を終えてからにしたかった。もしも途中であの床屋にばったり出くわし、気づかれたらどうする? とはいえ、ノルウェーの船が近くにないとあっては致し方ない。港の反対側に停泊している一本マストの小型船や、漁船、小舟はここからでもよく見えた。山と海に囲まれた沿岸の町に乗客や物資を運ぶ、小さな船ばかりだ。修道士はフードを目深にかぶり、そちらに向かった。
 海沿いの町の空気には解放感があるとよく言われるが、そこに漂うにおいは決して心地よいとは言えない。このベルゲンも例外ではなかった。例外どころか、道端の溝や下水、腐敗物に加え、腐った魚や朽ちていく木のにおいまで加わっているぶん、もっとひどいかもしれない。ここ数日は海上にいて、海沿いの町の悪臭を忘れかけていた修道士は、港のはずれにある路地を急ぎ足で進みながら、片手で鼻を覆いたいのをかろうじてこらえた。いらざる注意を引きつけてはまずい。彼は通り過ぎる人々とも目を合わせず、まっすぐ前を見つめて歩きつづけた。
 浜がある側の通りにたどり着くと、そこはさらに大勢の人々で込み合っていた。誰もが明るく弾むようなノルウェー語を話している。周囲の家は小さく、芝屋根が多い。修道士は道を尋ね、北部へ向かう船の取次店を見つけた。

「いや、わしんとこには今朝出港する船はねえな」並外れて小柄な商人はそう言いながら、修道士にさぐるような目を向けた。歳は五十に近く、肌は干物と同じ灰白色。干物の束や樽が積んである薄暗い倉庫のなかで、ひと区切りしゃべるたびに床に唾を吐いている。
「フランシスコ会の修道士が、なんだってそんなに急いでるんだ?」
「片付けなければならないことがあるのだ。船賃を払う金はちゃんと持っている」修道士は外套のベルトに付けた財布のひもをゆるめはじめた。
「金を持ってるフランシスコ会士かね? 胡散臭いと思うもんもいるだろうな」商人は鋭く言い返したが、見るからに重そうな財布とそのなかで硬貨が触れあう音を聞いて態度を和らげた。
「明日の朝、北のアウストロットに向けて出港する帆船がある。わしの船じゃねえが、一等航海士に話をつけてやろう。だが、そいつはあんたみたいな修道士を好かん高貴なレディの持ち船だから、フォーセンの港に入る前に降りるこった」
「ああ、そうするとも。聖なるキリスト教の信仰を捨てた貴族と関わるのはごめんだからな。そういう連中にはドイツのあちこちでうんざりするほど出くわしたよ」修道士はきっぱり言って、その一等航海士が雇い主の不信心に逆らい、真のキリスト教徒を乗せる危険をおかしてくれるなら、船賃ははずむと告げた。
 次は旅を続けるのに必要なものを揃えねばならない。修道士は良質の革袋と乾燥肉、それとワインを何本か買ったあと、商店兼取次店に戻って魚の干物も買い、袋に入れた。ついでに小柄な店主が約束どおり一等航海士に話をつけてくれたのを確認し、泊まる場所を探すことにした。店主は宿屋に行く道を教えてくれた。
「町で商売をしている人間のことは、誰に訊けばわかる?」修道士は立ち去る前に尋ねた。
「宿の女将は三度の飯より噂話が好きでな。町のもんのことなら、そいつが生きていようが死んでいようが、なんでも知っとるよ」

 店主の言ったとおり、宿屋の女将は噂話に目がなかった。
 女将が語る床屋に関する噂は、すでに知っていることばかり。修道士は右から左へ聞き流した。知りたいのは、床屋がいる場所だけだ。呆れるほどばかげた噂や、半分でまかせのような与太話とほら話の合間に、修道士は翌朝どこをどう行けば床屋が見つかるかわかるだけの情報を仕入れた。これでこの町に来た本来の目的が果たせる。明日の朝は早起きすることになるが、あまり早すぎてもまずい。仕事を片付けたら、その足で船に乗り、ここを出る、そういう段取りにすることが肝心だ。
 その晩はベッドに横になり、ロザリオを指のあいだに滑らせ聖母マリアの七つの喜びに思いを馳せながら、主の祈りとアヴェ・マリアの祈りを唱えた。ベルゲンの秋の夜は冷えこむ。凍るような空気が木造の部屋のあらゆる隙間から入りこみ、結局、修道士は一睡もできなかった。

 雄鶏が刻を告げる前に、修道士は町に出ていた。芝を葺いた屋根を霜がきらめかせ、昨日の雨が残した水たまりには薄い氷が張っている。彼は外套の前をかきあわせ、昨夜、宿の女将から仕入れた情報を頼りに目当ての場所に向かった。
 やがて床屋の店に着き、ドアを開けた。店のなかは暗かった。腕がいいと評判の床屋は、起きたばかりらしくナイフを研いでいた。早朝とあって、出されたエールを飲み、世間話に興じながら散髪してもらう客は、まだひとりもいない。修道士はフードを目深にかぶったまま一歩なかに入った。
「ここはあんたが来るような場所じゃない」床屋が言った。「わしは、ただ働きはやらん主義だ。食べ物もないぞ」
 修道士はフードの陰から黙って床屋を見つめた。床屋はこちらの正体にまるで気づかない。が、これは不思議でもなんでもなかった。あれから多くの夏と冬が過ぎ、彼ももはや子どもではないのだから。
「食べ物をもらいに来たのでも、散髪に来たのでもない」修道士は言った。
 床屋は、小さなテーブルに広げたそれぞれ用途の異なるひと揃いのナイフの横に、研いでいたナイフを置いた。ナイフを持たせれば、この床屋の右に出る者はまずいない。とはいえ、いまは髭を剃り、でき物の切開をするだけ。それとときどき波止場に呼ばれて、壊疽にかかった水夫の脚を切るだけだ。偉大な仕事を任された日々は、過去のものだった。
 世界の果てにあるこの寂しい町に引っこむ前、床屋ははるか南にあるパドヴァでマスター・アレッサンドロの助手をしていた。人体に関するアレッサンドロの多くの発見の陰には、この床屋の働きがあったのだ。床屋がナイフを、マスターがペンと羊皮紙を手にして悪臭を放つ死刑囚の死体にかがみこみ、幾度密やかな夜を過ごしたことか。
 当時まだ子どもだった修道士は、死体を横たえた台の下で床屋が肉を切る音に耳を澄ませ、腐った肉と血のにおいを吸いこんだものだった。そうやって眠りこんでしまうと、床屋がベッドに運んでくれた。広げてあるナイフを目にすると、そのころの記憶がよみがえってきた。木と研いだばかりのナイフのにおい、腐乱死体の息が詰まりそうなほどの悪臭が。
「食べ物を乞うためでなければ、ここに来た理由はほかにあるんだろうな」
「そのとおり」修道士はすばやく前に出て、床屋に拳を見舞うと、乱暴にフードを払いのけ、壁に設けられたハッチから射しこむ夜明けの光に顔をさらした。倒れた床屋が戸惑いを浮かべ、修道士を見上げる。
「神よ、わが魂にお慈悲を」床屋はつぶやいた。「おまえか」
「性根の腐りきった異教徒が、いまさら主に慈悲を願っても遅すぎる」
「地獄から戻ったわけか。ここに来たのはなんのためだ?」床屋の声には許しを請うような響きがあった。
「そこにあるナイフをもらっていく。神を信じるどの国を探しても、それ以上のナイフは見つからないからな」

2
二〇一〇年八月 ヴァージニア州リッチモンド 

 人生はローラーコースターのようなものだ。初めはきしみながらのろのろと坂を登っていくが、そのあとは大半が下り坂。少なくともエフラヒム・ボンドの人生はそうだった。ボンドはもう長いこと人生が終わるのを待っていたが、どうやら彼の乗ったコースターは終点へと向かう最後のカーブで引っかかってしまったらしい。
 この博物館に来てから何年になる? 二十年は超えているに違いない。ここで働きはじめたときはまだ家族がいて、そのころの子どもたちのことも思い出せる。かつてボンドは文学を学ぶ前途有望な学生だった。ところが、ハーマン・メルヴィルに関する博士論文を書いている途中で行き詰まり、結局、それを仕上げることができなかった。くそったれ『白鯨』め。あれのせいで有望とはほど遠い作家にしかなれなかったのだ。大学を出たあとの十年で、売れる見込みのない詩集を二冊世に出したが、そんなものは世間どころかボンド自身も忘れて久しい。その十年のあいだにボンドは結婚し、子どももふたりできた。立派な子どもたちだ。ふたりとも成人し、立派な大人になった。ボンド自身よりもはるかにましな大人に。ふたりとはもう何年も連絡を取っていない。
 書くのをあきらめたあと、このヴァージニア州リッチモンドでカトリックの学校の教師となったのだが、生徒たちに我慢ができなかった。そこでいくつか職を転々として、やがてこの博物館にたどり着いた。そうこうするうちに妻が出ていき、その後は、一週間に一度、人が来て床に掃除機をかけるだけの埃っぽいオフィスで、古い本に囲まれ、ほとんどの時間を窓の外を見て過ごすようになった。雨が降る日もあれば、晴天の日もある。天気がいいと、このオフィスは耐えがたいほど暑くなる。なぜ冷房が効かないのかさっぱりわからない。エアコンが正常に機能していないのはたしかだが、問題を突きとめようと努力する気にもなれなかった。長いこと、自分の人生はこのまま終わるのだ、とボンドは思っていた。だが、それはこれまでの話。ようやくツキが回ってきた。もう一度ローラーコースターに乗るチケットが、ただで手に入ったのだ。
 つい最近まで、エフラヒム・ボンドがノルウェーについて知っていることと言えば、どこかにホーテンという小さな町があり、七〇年代には、世界の果てのその町で毎年ロックフェスティバルが催されていたことだけだった。あれは一九七八年の夏だったか? ノルウェーの夏にありがちな強い雨と風の日、そのフェスティバルに参加したボブ・マーリーが、ぶるぶる震えながらトロピカルなサウンドに乗せて悲しみと失意を歌ったのは?
 ボンドがホーテンに降った雨のことを知っているのは、ボブ・マーリーの歌を聴いていた時期があったからだ。以前読んだインタビュー記事で、この偉大なレゲエ歌手が、夏の真っ盛りなのに寒くてひどい悪天候だった、とこぼしていた。ホーテンのコンサートについて読んだのはそれだけ。どこかの雑誌に載った悪天候に関するボブ・マーリーの愚痴だけだ。
 しかし、博物館を訪れた客とその話をしたことがあった。昔はよくそうやって客と言葉を交わしたものだ。ノルウェーから来たその男性客は、ポー博物館にとくに関心を持っているわけではなかった。夫よりも知識も教養もあって見目もいい、外交的な妻のお供で仕方なく来たのだ。あの男はそのうち、捨てられるに違いない。それはともかく、偶然にもこのノルウェー人は、ボブ・マーリーのコンサートを聴きに行ったのだった。そこではボブ・マーリーを非難する若者のグループが、〝この第三世界最大のヒーローは堕落した、最新アルバムは革命的な鋭さに欠けている〟と糾弾するパンフレットを配っていたという。当時の最新アルバムというのは『カヤ』だろうが、『カヤ』にはボブ・マーリーが十年近く前に書き、レコーディングした曲がいくつも収録されている。若いにわかファンはそれを知らなかったのだろう。
 ボンドがノルウェーとそこに住む人々について知っているのはそれくらいだ。言い換えれば、ほとんど知らないに等しい。ところが数カ月前、はるか北にある南北に長いこの国に対するボンドの関心は急速に高まった。ノルウェーで起きた犯罪について調べると、全人口に占める割合は驚くほど低いことがわかった。政府が意図的に情報を操作しているのではないかと疑いたくなるくらいだ。ある種の社会民主主義的手段で、国が計画的に犯罪行為を統制しているのではないか? ほかの西洋諸国とは異なり、ノルウェーで知られている連続殺人鬼はたったひとり、南米の先住民が毒矢作りに用いたという猛毒クラーレを注射し、老人ホームの人々に〝安楽死〟をもたらしたメランコリーな看護師だけだった。
 とはいえ、いまはもう違う。この一カ月の精力的な調査の結果によれば、平和なノルウェーにも残酷きわまりない連続殺人鬼がもうひとりいたことは明らかだ。ノルウェーの人々が何百年も知らずにいた殺人鬼が。いまボンドの前には、その厳然たる証拠がある。殺人鬼自身が殺しをひとつ残らず記した書き物が。しかも、おそらくその犠牲者のひとりに由来するとおぼしき有機物まである。それがこのポー博物館にたどり着いた経緯はひと言では語れないが、すべての分析が終わればこの推理は立証される。
 ボンドは告白を記したきめの粗い〝紙〟に指を走らせた。よくもまあ、こんなに次から次へと血みどろの描写ができたものだ。それもこんなに何度も重ね書きして─とはいえ、いまや先進技術のおかげで、そのほとんどを解読することが可能になった。
 そのとき、誰かがオフィスのドアをノックした。説明のつかない罪悪感にかられ、ボンドは急いで机のいちばん上の引き出しを開けて、まるで自分のもののように告白が書かれた紙をそこに押しこんだ。引き出しを閉め、ノックに応じる。
「どうぞ!」大学から使いの者が分析結果を届けてくれたのだといいが。
 残念ながらその期待は裏切られた。ドアを開けたのは、知らない人間だった。ボンドは首を傾げそうになり、はっと気づいた。実際に会ったことはないが、写真で見たことがある。写真のなかではにこやかにほほ笑んでいた。だが、これは友好的な訪問ではないだろう。この訪問者は、いまのボンドが誰よりも会いたくない人物だった。
「なるほど、自分の大発見について思いを巡らしているところですか?」訪問者はほとんど訛りのない英語で言った。
 ボンドは不愉快なショックに体が震えた。この訪問者はどうしてそんなことまで知っているのか? いったい誰に聞いた? この件は内密にしておくという約束だったのに。いったいどこから洩れたのか? だが、いまのはたんなる挨拶代わり、この件を話しに来たわけではないのだ。手にしたバールがその証拠だ。
 エフラヒム・ボンドはこのオフィスが嫌いだった。あまりにも狭すぎる。ドアから机までわずか二、三歩しかなく、オフィスに多少とも箔をつけるはずの小さなペルシャ絨毯が机の脚に押され、敷居のところで丸まるせいで、出入りするたびにつまずくはめになった。しかも椅子の位置があまりにドアに近いため、部屋に入ってきた者は、座っているボンドの上にほとんどかがみこむ格好になる。つまり、この訪問者は簡単にボンドの頭にバールを振りおろせるのだ。絨毯につまずかなければ、だが。
「わたしの一存で、表の扉は閉めておきましたよ。誰にも邪魔されず、静かに仕事をするのがお好きとあって、誰かが訪ねてくる予定もない」訪問者はくつろいだ様子で言った。Vネックの薄いウールのセーターと、ゆるみのあるカジュアルなズボン。裾からはゴム底の靴が覗いている。
「誰にも邪魔されずに……」ボンドはうつろな声で繰り返した。ペン立てにあるレターオープナー、右手からあそこまでどれくらいある? あれを掴むのにどれくらいかかる? 十分の一秒か? バールを振りおろされる前に掴めるだろうか? あれはスチール製で、銃剣のように尖っている。バールを受けとめ、でたらめに突きだせば、幸運に恵まれるかもしれない。それで逃げられるか? 
 ボンドは昔から勇敢な男ではなかった。人を攻撃しようと思ったことなど一度もない。襲いかかってくる相手の武器を取りあげようとしたことも、反対に殺そうとしたこともなかった。だが、生き延びるにはそうするしかないとなれば、勇気うんぬんの問題ではない。メルヴィルの『白鯨』、作家のキャリア、妻と子どもたち─どの場合も、勇気と強さをふるい起こさなくてもべつの方法があった。賢い選択ではないにせよ、常に逃げ道があった。逆境を恐れ、努力を放棄してさっさとあきらめる人間には、逃げ道があるものだ。愚かとはいえ、どうにか我慢して生きていける逃げ道が。
 だが、これは違う。行動するか死ぬか、そういう単純な選択だ。
 ほんの一瞬、ボンドはためらった。この一カ月の興奮と高揚感、自分の発見をすぐさま発表できぬじれったさ。何度マスコミ向けの記者会見で語る自分を思い描いたことか。これから書く本はノルウェー語にも翻訳されるはずだ。講演を依頼され、講義も受け持つことになる。ついに生きる価値のある人生が始まるのだ。すべてが公になる前に、長男に電話をかけようかと考えたくらいだ。電話番号は、ペン立てのすぐ横に置かれた住所録に書かれている。
 ボンドは再びレターオープナーを見た。自分では稲妻のような素早さで動いたつもりだったが、相手のほうが速かった。ボンドが右手を伸ばすと同時に、訪問者はバールを振りおろした。テレビにスローモーションで映しだされる野球選手のように、落ち着き払い、集中して。その一撃はボンドではなく、伸ばした指のすぐ先にあるペン立てに当たった。ペンとレターオープナーが吹き飛び、ボンドの右側に置かれた書棚にぶつかる。バイロン卿の初版本があった場所の真下に。特異な素材で装丁されたその本があった場所は、まだ抜きだしたときのまま空いていた。
「急がなくても」訪問者はバールを持ったまま言った。「時間はたっぷりありますからね」

――――――

続きは本書でお楽しみください。


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