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怪談備忘録 第二十夜 『侵入』

Kさんが体験した話。

ある夜の事、Kさんは無線機か何かを通したようなノイズ混じりの声によって目を覚ました。

声はマンションの外から聴こえてくるようで、会話の内容まではよく聴き取れないが、

「首吊り自殺」

という言葉が何度か含まれているように思えた。

こんな夜中に近所で自殺があったのかとKさんはメガネをかけると自室を出て、居間へと向かった。

居間と母親の寝室を仕切る引き戸が全開になっており、ベッドに眠る母親の姿が見えた。

そこでKさんはこれが夢である事に気付いた。

私は息子じゃない、奥で眠っているのが私だ。

気が付くとKさんは母親の寝室で服を着たままシャワーを浴びている。

ふと居間に何かを取りに行こうとシャワーヘッドを掴んだまま居間へと向かうが、何を取りに来たかを忘れてしまう。

寝室に戻る際にシャワーのホースがこんなに長く伸びるはずがないと、またこれが夢だと気付く。

明晰夢とは違う妙な夢だ、夢だと気付いても次の瞬間には夢である事を忘れてしまうのである。

また外からノイズ混じりの声が響く。

「飛び下り自殺だ」

その声を聴いてさっきは「首吊り自殺」と言っていなかったかと思いながらハッとする。

母親は昨年亡くなったじゃないか、ベッドの方を見るとそこには黒く干涸びたミイラのようになった母親の遺体が転がっていた。

これは夢だ…

外の様子が気になってベランダへの窓を開けると、後ろに母親の黒い影が立つのが見えた。
母親もとうとう外の騒ぎに目が覚めたようだ。

ベランダへ出て下を覗くと、真っ暗な中、マンション前の広場の辺りに二つの懐中電灯の灯りが見えた。

警官らしき男が二人、恐らく遺体であろう赤い服の女性が横たわった姿を照らしている。
野次馬らしき黒い影も数人、灯りに向かって歩いている。

ここはマンションの15階、無線の会話があんなに大きく聴こえるだろうか。

まるで拡声器でも使っているかのように「飛び下り自殺だ」という言葉がはっきりと聴こえてくる。

警官が拡声器でそんな会話をするはずがない、そうだ、これは夢だ。

いやそもそも私はマンションの15階になんか住んでいない、これは夢だ。

「飛び下り自殺だ」

またその声を聴いて、ふと夢なら自分もひとつ飛んでみようかと思った。

広場の赤い服を着た女性がいつの間にか立ち上がり、こちらに手招きをしている。

ベランダの手摺に手をかけグッと身を乗り出し、鉄棒の逆上がりをする状態になった。
しかしぐらりと体が前に傾いた瞬間、言い知れぬ恐怖に襲われた。

いやいやいや夢でも恐すぎる、やらない方がいい。
腰砕けになってKさんは尻餅をついて室外機にガンと背中を打ち付けた。

ゴォォ~という強い風が吹き、着ているパジャマが体に張り付いた。風に目を細めながら空を見上げると、黒く重い雲が異様な早さで流れている。

K子さんは目を覚ました。

ここはマンションの15階、K子さんが住む部屋のベランダだ。

何故ベランダに!?
それどころか、自分が母親なのか息子なのか、それともどちらでもない誰かなのか…

自分が誰なのか分からない状態でパニックになりながらも寝室に戻ろうとするが窓が開かない。

暗がりの中だが、ガラスの向こうに鍵がしっかりとかかっているのが見えた。

居間の窓から出てきたのかと慌ててそちらも確認するが、同じく鍵がかかっている。

まだ夢が続いているのだろうか…いや今は先程までとは違う確かに目覚めたという実感がある。

台風による強い風と異様な速さで流れる雲がその確信を薄れさせるが、台風が来る事は前日から知っている、これは夢じゃない。

K子さんは息子を起こそうと必死に窓を叩いた。

一瞬、私に息子がいただろうかという不安も過ったが、目覚めた実感とともにK子さんは自我を取り戻し窓を叩き続けた。

やがて居間の向こうに続く廊下の右手に見える部屋のドアが開き、何事かとメガネをかけながら飛び出してくる息子の姿を見てK子さんはその場にへたり込んだ。

息子は窓を開けてK子さんを居間に引き入れると一体何があったんだと問い詰めたが、K子さんはしばらく口をきく事さえ出来ずにいた。

落ち着きを取り戻し夢の話を説明すると、半信半疑ではあるものの、寝室の窓にも鍵がかかっていた事から、息子にも事の異様さは伝わったようだ。

K子さんはこんな体験は後にも先にもないという事だが、仮にこの体験が夢遊病によるものだとしても、どちらの窓にも鍵をかけたままベランダに出るという事に関しては説明がつかない。

もしK子さんが夢の中、ベランダから飛び降りてしまっていたなら、この話は聴く事が出来なかったかもしれない……

……そんなお話。

■メモ■
首吊り自殺については分からないが、このマンションでは女性の飛び降り自殺が一件起こっている。赤い服を着ていたかは不明。

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