見出し画像

"LGBTQ+"について

LGBTQ+について。

最近私は、自分が誰に愛情を向けるのかについて考えることが多い。
例えば私は今まで男性としか一緒にいたことがないが、それはどうしてなのか?女性の友人と一緒にいて生まれる愛情は恋愛感情と何が違うのか?
誰と一緒にいるときに感じた安心感が、世間でいう「一緒にいると落ち着く」に近いのか?

私が自分自身のことを見ていて最近たどり着いた一つの答えは、
「誰しも誰かを、どのタイミングで愛すのかはわからない」
ということ。

私が男性としかセックスをしてこなかったのは、自分が女性として生まれた生物として組み込まれた自分の身体の機能に縛られているからだと、ちょうど今日の通勤中に思った。
今この世界で私自身が入っている身体は確かに女で、女性的な考えをしやすい脳構造をしている。

けれど、私は女の子に対しても愛情がある。

私のとても大好きな女の子に対しての私の気持ちは、恋愛感情に近いものも入っていると思う。
分かりやすく「恋愛感情」で接してきた今までのどんな男の子よりも、私にとって彼女は大切で、彼女が落ち込んでいたら励ましたいし、何か間違っていると感じたら思ったことを全て伝えたい。幸せを感じて、笑っていてほしい。
彼女のことを身も心も美しくて素晴らしい人だと思うし、触れたいと思うこともある。

彼女に私が何も行動を起こさないのは、女性とそういったことになったとしても、肉体的な愛し合い方を知らないから。
それに、社会に対して反抗していかなければならないと思うことがあるから。

私の中にも、誰の中にも、男性的な考えと女性的な考えはあると思う。
心の安定や自分の感情を客観的に見つめられていない間、私達の思考は波打つように感情がいろんな方向にいく。
その揺れの中には男性的な視点も女性的な視点もどちらもあって、そのどちらが恋をするのかはタイミングによるものだと思う。

その感情を見つめていったら、女性が女性に対して愛情を持つことも、男性が男性に対して愛情を持つことも、ただタイミングの問題だと思う。その感情を追っていけば、それはただ自然なことだと感じる。

さらにいうなら、「相手の中の女性像」「相手の中の男性像」のどちらに恋をするのかもタイミングの問題であり、普段男性を愛する人が、女性の中の男性像に対して恋をして、世間的に見たら男女のカップルである、ということも自然なこと。

「LGBTQ+」を生理的に受け入れられないというのは、自分の内側の男性像や女性像に対して、向き合っていないからではないのか。
物質的な「自分自身」に対してしか、アプローチしていないということになるのではないか。

私は愛し方のそれぞれがとても自然なことだと思う。

だから、将来、「LGBTQ+」という言葉に自分の愛のカタチをはめることなく、誰かが誰かを愛することを賞賛できる社会が築けていけたらいいと思う。


もちろん、生きづらい制度とは闘う必要がある。
同性婚が認められていないという法が与える事実と私たちの世代は寄り添っていく世代だと思う。
同性婚が認められていないのがなぜなのか、という過程や、今この法が目の前に来るまでに通ってきた道のりも理解できる。
法と向き合う時に私たちが向き合うべきは法そのものであり、人ではない。
社会の在り方や物質は、世界の大きな流れとともに移ろうべきだ。
私たちの身体も常に移ろっているのだから、変化していくのが自然だということを私たちはこの瞬間ここに生きているだけで体現している。

人を責めたり闘うのではなく、今までの移ろいを尊重した上で、「法」それ自体と闘うのだ、ということを忘れない。そうして闘った先に、誰もが自分の内側の何もかもを受け入れられるベースが、潜在的な社会の在り方に組み込まれていけばいいなと思う。

#暮らしたい未来のまち #LGBTQ+

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?