和泉宏隆さんの訃報

和泉宏隆さん、4/26に急性心不全にて永眠されたとのこと。
https://mistyfountain.com/%e8%a8%83%e5%a0%b1/


Noteの目的は全て無視して、僕は書かなければならない。
和泉さんなくして今の僕は無い、そういう存在なので。これを公開しても、気が済むまで書いて語らないと喪には服さないです。
1ファンでもあるけれど、それよりもう少し濃い体験をすることができた僕は、書いて残さなきゃいけないことがたくさんあります。


和泉さんとの体験

簡単に書くと、先生と生徒です。
僕は、和泉さんにピアノを習いたくて高校卒業後の道を決めた。そして、この人に習います、ということで家族に相談することもほぼ無く、進路を決めてしまった。それくらいの衝動と情熱があったし、他は見えなかった。今振り返ると迷惑な息子だなあ、と思うのね。

実際それで、当時音楽活動をしていた仲間と3人の住まいを東十条の駅前に見つけ、夜中にバイトしながら音楽学校に通う事になったわけで。和泉さんのクラスにも入れたわけで。直接習えた、話を交わせた、そこから得たものは未だに噛んでおいしい経験です。

以降、自分語りは関係のあるところにだけ抑えて、和泉さんとの関係と思い出の部分を書きます。

目標になった人

転校してから住んでいた地域では、朝のフレッシュな時間に某競艇のinfoが流れていて。そこでは「OMENS OF LOVE」がいつも流れて、この地域では曲のほうが耳馴染んでいた、という前フリあり。

僕は、しいて言えば本くらいしか興味がなかったのですが、音楽に関しては姉が持ち込んできたものの存在が大きい。彼女が持ち込んで耳にしたものが入り口だったし、彼女がピアノを習っていたのを聞いていて、僕は自然と鍵盤が引けて楽譜が読めるようになっていたという流れがあるので、感謝っちゃあ感謝。

中学以降は演奏というものと、自宅での「マニアック音聞き」を繰り返していたので、、、 僕もあの曲弾きたいな、という動機になった。既にいくつかのバンドには参加していて、大人バンドもあって、年配の人と付き合うことも多かった。

※マニアック音聞き:
ヘッドフォンを持っていなかったので。
左右のスピーカーを左右から耳に向けて、頭を挟んで配置して、聞く。
定位が真ん中に揃うようにして、各楽器やコーラスの重なりまで「全てのパートを把握する」な目的。
傍目には、「スピーカーに挟まれて突っ伏している」ようにしか
見えない。週末は終日やってた。
おかげでその後、採譜が得意になるという恩恵につながる。

高校生の時には、学校のブラバンの中に結構な手練のバンドがあってPopsをバリバリやってらしたのですが。吹奏楽のなかでSQUAREの曲、やるじゃないですか。そこで、ピアノの上手い先輩が弾いていたのが「TWILIGHT IN UPPER WEST」だったわけで。当時、誰の曲か知らなかったけれど。男子校だったので、ピアノが弾けたからといって何があるわけではなかったけれど。

ようは楽曲「TRUTH」は目的になくアルバム「TRUTH」を買ったわけで、ちょっと希少かもしれない。楽曲「TRUTH」については、パチンコ屋で父のほうがたくさん聞いてたみたいだった。

インストバンドのサウンドを初めて聞いたに近く。
文化祭で「TWILIGHT IN UPPER WEST」を僕も弾いて。だからスコアも買いました。LDで「LIVE NATURAL」を見て、初めて和泉さんのお姿を拝見したことになる。

響いたポイントは、振り返るといくつかあって

マルチキーボーディストであり、しかしピアニスト
 つまり複数台を周りにおいて使い分けしていく千手観音的な。
 そして、弾くことを超優先してパフォーマンスは二の次感。
 小室哲哉より、僕は和泉さんのスタイルが好きだったわけで。
 →このスタイルは、後年和泉さんとLyle Maysの話をしたあとで、なるほど、と思った。

「DAISY FIELD」のソロ
 当時は、どこまで弾くの??だった。歌モノには無い長尺のソロ、というものに触れた曲

(須藤さんのベース)
ベースってカッコいいな、と思った。Moonのウォルナット5弦。欲しかったけど高くて。でも、Moon JJ-4 Ashを買いました。初めてのベースに、とてつもないものを買ったものだ(とにかく重い)
これで、スラップも思えたし、ビリー・シーンもコピーしたw

初めて行ったライブは、「IMPRESSIVE」のツアーだったことになる。
Saxの人、違うじゃん!!と思い、慌ててアルバム「News」「IMPRESSIVE」を聞いてびっくりして、でも、なんか納得した記憶がある。

そっからは、インストバンドの"漁り"を初めていくのと、洋楽にハマっていくことになって、Jの歌ものからは離れていくことになった。でも、和泉さんの居るT-SQUAREは別格だったです。メロとアンサンブルが別れたインストバンドという世界。

とはいえ、僕は、Pops/Rockのバンドに色々参加したりして、、、そうだな、Teens Music Fesで賞とったりもしました。そうだそうだ、忘れてた。
お金が無い学生なので限界はあったけど、鍵盤を並べる「マルチキーボード」を目指すようになる。

上京とレッスン、その内容

和泉さんが教える学校は、入学は、まあ、お金払えば可能。しかしクラス分けは状況次第なところだったが、、、入れたんだな、これが。和泉クラスに。

和泉さんは当時T-SQUARE「HUMAN」中だったと思われる。
授業も、「よく振替になるよ」と聞いてました。実際、1年を終わらせるために3年目食い込みくらいまではかかったような気がする。(終わる頃、僕はもう仕事してた)

MCの感じとは違い、厳しいオーラを持っている人でした。
次回までのお題を用意され、僕らが弾いてみて、

「君たちは本気で弾けるようになりたいと思っているのかな」
「一日何時間練習した?」
「弾いてもいないのに弾けるわけがないねえ」

と。ヘボい僕らに対してご尤もな厳しい指摘が毎回あり、無言の反省時間が流れたのを覚えています。
居心地の悪さはなかなかのもので、上京したての世間知らずな僕は「やべえ・・・」と、、痛烈に思ったですね。

ありとあらゆるものが初体験でした。ピアノ弾きを志す同輩の前で弾くのもそうですし、師匠の前で練習の結果を晒すというのも経験がなかったもので・・僕、自己流の人でしたし。

まあでも、「テクニカルは練習しろよ」でした。あたりまえ。運指も含めて、時間かけないと身につかないよ、と。
そして終始一貫して、最初の授業でも最後の授業の日までも言われたのは「歌って弾けないとないとダメだよ。歌って生きなさい」のワードでした。これが僕にとっての金言となった。

始めの頃、僕はピアノ鍵盤を持っていなかったので。。。買いましたね、ヤマハの電子ピアノを。

そんな、なんもわからん若造だったです。このあたりの時に聞いた言葉は、今になってわかるようなものも多くあります。

徹頭徹尾、最後まで厳しい先生でした。「歌ってないね」「君は何をやって今日という日を迎えているのかな」「弾いていない練習していないアピールならこの時間にここにいる必要はないんじゃないかな」などなど。


Pat Metheny / Lyle Maysを勧められて

日々忙しく、場合によっては一ヶ月休校になるような、、授業というよりイベント的なサイクルの開講でしたが、ある時和泉さんは言いました。

「Pat Metheny GroupとLyle Maysを聞くといいよ」

そう言って、PMG「Letter From Home」「Still Life」「First Circle」と、
Lyle Maysソロ作「Street Dreams」、そして「ちょっとこれは難しいかな」と前置きして「Fictionary」を。

すぐ買いましたとも。そしてドハマリした。その後長年かけて研究しまくることになるPMGと、新しいアイドルとしてのLyle Maysは、和泉さんから進められたことがきっかけでした。

「Letter From Home」は、全曲採譜したくらいハマり、猫の名前にライルちゃんとつけかけたくらいハマった。その後も、この方々のサウンドメイキングや曲の内容について、深く話すことになりました。

僕としても、シグネイチャーサウンドに近いPF+PADまたはEP+PADのサウンドは、Lyle Maysを意識した以外の何物でもないです。

お手伝いのお誘い

「新しいアルバムでロンドンレコーディングに行くんだけど、手伝いとして来る?」と言われた時はクリビツテンギョー(びっくり仰天)でしたとも。
振り返るとそれは、T-SQUARE「Welcome to the Rose Garden」だったんですが。

マジか!!で、夢のようでしたが、僕はその時にビザ持ってなかったんす。取得に2週間とかかかる。でも出発そんなに時間がなくて、「すみません・・」と言うことになりました。
未だに後悔してます。行けるものなら行きたかった。

最後の授業

そうこうしているうちに、最後の授業の日を迎えるわけですが、、、
前述したように、振替が溜まりに溜まって期間が伸びいたこともあり。また、相変わらず内容が厳しかったこともあり、最後の方は僕一人だったんですね、生徒。
「最後の授業は、セッションしようか」となり、なんの曲にしようかね、となって、僕からリクエストしたのはPMG「Beat70」でした。
進行をホワイトボードに書いて、じゃあ、ってんでコード伴奏機能のある何かのシンセで演奏オケ出しながら、時間いっぱいまで延々ソロ交換し続けるという時間となったんですね。

やってる時はいっぱいいっぱいでしたが、終わった時に「やっと君も歌って弾けるようになったねえ!」と言われたのが本当に嬉しくてですね、わし、泣きましたです^^;
多分、その1回だけです。褒められたの。

これが、なにより強い思い出になりました。一番濃い時間だった。


その後
僕は既に音楽制作会社にjoinしていて、それは色々あったんですが。

和泉さんがT-SQUAREを脱退した時はそりゃあ驚いたものです。
そして、全く別のご縁で、和泉さんと大変中の良い方と一緒に仕事をすることもあり。
後任キーボード難波さんが脱退される時、その方からまさかのオーディションにお誘いいただいたこともあり。

あ、僕は全然、そこまでの力量はありません。なので、ご辞退しました。未だにその力量には届いてないし。
その時、松本圭司さんに決まったですね。松本さんも大好きなキーボーディストです。

和泉さんはといえば、定期的に銀座でピアノを弾きつつ、新たな活動を。「ピアノを弾きたい」に邁進されていて、、ソロパフォーマンス、よく聴いてました。どのみちにどう展開されるのか、と思って。

直近

その後の年月をすっ飛ばします。直接のやり取りはなくなっていました。
僕も、今いる業界での仕事してます。
でも、先週と今週、ちょっと思うものがあって、和泉さんの映像をたくさん見ることになったんですね。
久しぶりでもあったのですが、直近の記録とかも拝見して、なるほど、、、と思うことが続いたので、継続的に拝見していた、、、その矢先の今日のニュースです。
愕然としました。62歳、、、、若すぎるでしょう。

ポンタさん、和田アキラさん
チック・コリア、ジュニア・マンス
ポール・ジャクソン
フィル・スペクター
DMX

今年はなんて年だよと。。。

和泉さん、ありがとうございました。
僕の人生、あなたのおかげでこうなりました。
急なことなので、周囲の方々も驚きかと思います。
安らかに、とかそういう気遣い、僕はしないです。
遺したもの、今後も拝見していきます。

どこかでもっと詳しく話してみたいですね。
得たものが大きすぎるので、僕も折りに触れ書き残していこうと思います。

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