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社会や政治に文句を言って、ヒーローの登場を待っている人に

きっかけ:貧困業界のキーパーソンなので、著作をメルカリで探したら
     この本を安く買えた。
読んだ日:2020月1月
あなたに:社会課題に取り組みたい人だけでなく、民主主義について考える
     材料を探している人。
推薦文 :本なんて読む人のタイミングに応じて栄養素が変わってくるの
     で、一概に「オススメです」と言えないのが本音ですが、この本
     はジャンル問わず何か始めたいと思っている人に少しの大きな気
     づきを与えてくれる本です。
※あえて一部分しか載せていません。充実した中身ですので、ぜひ、興味が湧いた方は、原本を読んでみてください。

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ーーーーーーーーーー第1章 民主主義とヒーロ待望論ーーーーーーーーー

湯浅先生は「もやい」という団体を作って渋谷でホームレス支援をやっていたのだが、生活相談を受け始めてみると、若い非正規労働者の人などアパートのある人が相談に来るようになった。単なるホームレスの問題ではなくなっていた。じゃぁこれはどういう問題なのかと考えたら「貧困問題」が見えてきた。2006年のことです。そして2007年に「反貧困ネットワーク」という活動を始め、2008年末に派遣村を開催しました。2009年に内閣府参与として政権に入った。格差・貧困問題の改善を目指して動きだした。民主主義の問題に突き当たったのはその時だった。
一言でいうと、民間の活動と行政の公的な政策作りは、質的に違います。仲間内で自主的に行う民間の活動の手法だけでは、実際には政策が進まないのです。

■社会課題のガラパゴス化
民間の活動を行うと当たり前ですが、当事者と付き合うことになるので現場について詳しくなっていきます。しかし、それに携わっていない人たちと交流したり、意見交換する場は少ない。もちろん、外の人たちにはその当たり前と思っている前提が通じません。寄付や企業連携などで外の世界に働きかけても、なかなか外の人たちに通じる言葉が見つからず、空回りしてしまうのです。その場合、よくあることかもしれませんが「こんなに困っている人たちがいるのに、どうして助けてあげないんだ」、「皆、現実を分かっていない」という思いを抱くのではないでしょうか。しかし、原因はこちら側にあるかもしれません。自分たちが前提としているものを共有していない人たちと話し合うための言葉を見つけられない、という問題です。これが「蛸壺化」、「ガラパゴス化」の問題です。
世の中は自分の考えと対立する意見で溢れています。自分に譲れない意見があるとしても、言いたいことを言うだけでは相手に通じないことがあります。この人に通じる言葉はどんな言葉だろうか。自分に、自分と同じ経験、同じ土台を持たないこの人を説得できる言葉はあるだろうか。これはチャレンジだと感じないといけないですね。

■民間活動と行政の違い
民間の活動というのは、賛同者だけで運営し、趣旨に反対の人たちは関係がない。だから、内容的には濃く、やりたいことをやりたいようにできます。しかし、賛同した人だけでやるので日本全国をカバーすることはできません。「内容は濃いが範囲は狭い」これが民間の活動の特徴です。
他方、行政の制度や政策の場合、特徴は「税金を使う」という点にあります。税金は、日本人全員によって賄われているので、税金を使うということは「趣旨に反対する人のお金も使う」ことを意味します。賛同してくれる人だけの税金を使って反対している人の税金は使わない、ということはできません。結果として、政策実現に向けて調整を重ねれば重ねるほど妥協の度合いが増え、内容は薄まっていきます。その代わりに、カバーできる範囲は広く、日本全体に及びます。「内容は薄く、範囲は広く」が行政の特徴です。
しばしばいわれる「行政じゃないと大きなことはできないから、行政がいい」や「民間じゃないと思い切ったことはできないから、民間がいい」というのは、どちらも一面の真理でしかないのです。

■「一人ひとりを大切に」は、「既得権益を大切に」?
日本には一億二千万の人が、それぞれニーズを持って暮らしています。「その一人ひとりを大切に」というのは誰も否定しない理念ですが、それには時間がかかります。特に近年はスピード感を重視した政策形成を感じます。その中で台頭しているのが「強いリーダーシップ」待望論、「決断できる政治」への期待です。これは一言でいうと、利害調整の拒否という心性を表しているといえます。
「一人ひとり」を大切にというのは、結局のところ「既得権益を大切に」というようにも聞こえます。これは、言い方一つのようなところがあります。「一人ひとりの必死の生活と、そこから出てくるニーズ」と言えば、その一つ一つが尊重されるべき’善’だと思いますが、同じものを「既得権益」と言えば、尊重するどころか、一つ一つ潰していくべき’悪’だと感じます。ここで問われてくるのは、私たちにそれら一つ一つを見分ける力が備わっているかどうか、ということです。本当に必要なものとムダなものを見分ける眼力といってもいいかもしれません。
例えば、「自分よりも生産性の低い人間の雇用保証や障害年金のために、どうして自分の税金が使われいるんだ」、「貧困なんて自己責任だろ」と考える人がいます。その人の言う通り、ある障害者(Aさん)を現実の生活からピンセットでつまみ上げるようにして取り出したとします。Aさんの生産性(プラス)と雇用先への補助金や障害年金などのコスト(マイナス)を比べた場合、確かにマイナスの方が大きいかもしれません。したがって「既得権益」と認定され、それを奪うことが「正義」だとされるかもしれません。しかし、当たり前ですが、Aさんを生活の現場からピンセットでつまみ上げることは、空想の中でしかできません。Aさんは家族関係の中、地域の諸関係の中で生きていますから、Aさんから社会参加の機会を奪うことは、必ず家族や家族を介して地域の人々、ひいては社会全体に影響を及ぼさざるを得ません。したがって、Aさんだけを取り出して収支のつじつまを合わせたつもりになっても、現実の収支は母や私、またそれを介した人々の諸活動全体の収支と深く結びついています。結果として、惜しんで削った分の何十倍か何百倍かの活力と富を、社会は失うことになるのです。それは回りまわって、「既得権益」だと主張した人の生活利益を崩すことになるでしょう。このことこそが、Aさんとその人(「既得権益」だと主張した人)が日本社会というコミュニティで共存しているということの意味です。つまり、そんなつもりはさらさらなくても、すでにつながってしまっているのです。

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ーーーーーーーーーー第2章 「橋下現象」の読み方ーーーーーーーーー

あるテーマに強い執着を持っている人ほど、「自分はわかっている」と強い自信を持っているだけに、異なる意見を落ち着いて聞くことができない、すぐに否定したがる、という傾向も見られます。しかしそれでも、誰かに任せるのではなく、自分たちで引き受けて、それを調整して合意形成していこうというのが、民主主義というシステムです。したがって民主主義というのは、まず何よりも、おそろしく面倒くさくて、うんざりするシステムだということを、みんなが認識する必要があります。面倒くさくて、うんざりして、そのうえ疲れるシステムである以上、投げ出したくなるのは人情です。他人と物事を調整するのは大変です。その場合、私たちには「民主主義を放棄する」という選択肢があります。例えば、王政なら王様が決めてくれます。面倒なら誰かに調整責任を負ってもらえばいいのです。この時大切なことは、調整責任と決定権限はセットということです。なるべく自分たちで決めたければ、自分たちで調整責任を背負わないといけません。調整責任を委ねるならば、決定権限も委ね、決まったことに従わないといけません。最近はしばしば「おまかせ民主主義」とも言われますが、すっかり任せて決定に従う覚悟ができているかというと、そういうわけでもない。「水戸黄門」のように十分な権威を持つ人が下々の話を聞いてくれて、悪代官(既得権益)をやっつけてくれるなんていう、おいしい話はありません。
現実がかけ離れていくからこそ、郷愁の念も加わって「型」を希求する気持ちが強ま、という進み行きもあります。終身雇用制が崩壊すればするほど、安定を求めて終身雇用制を望む新卒者が増えるように。とすれば、今という時代こそ、水戸黄門型ヒーローとストーリーが激しく求められている時代だと言えるかもしれません。この不正義が蔓延する世界のどこかに黄門様がいるはずだ、そう考えた人たちが期待を寄せたのが、小泉改革であり、民主党への政権交代だったのだろうと思います。そしていま、期待は大阪市長の橋下徹さんに集まっています。彼にとっての悪代官は大阪市公務員であると同時に、中央政府としての国でしょう。2014年の大阪府知事・市長のダブル選挙は、まさに既成政党対大阪維新の会という構図を示し、彼はそれに勝利しました。それは人々が、自民党や民主党に幻滅した末に、三番目の国会内政党に期待するのではなく、国会、規制政党、中央政府そのものを悪代官と認識し始めたことの表れではないかと思います。
注意しないといけないのは、「強いリーダーシップ」を発揮してくれるヒーローを待ち望む心理は、民主主義の空洞化・形骸化の結果だということです。その心理には二つの問題があります。一つには、直接にか間接にかはともかく、私たち自信の、ひいては社会の利益に反すること。気づいたら自分が(既得権益として)バッサリ切られている可能性があるということです。二つには、多くの人が大切にしたいと思っている民主主義の空洞化・形骸化の表れであり、またそれを進めてしまうという点です。

ーーーーーー第3章 私たちができること、やるべきことーーーーーーーー

■自分たちで考える民主主義へ
これからの日本社会は、より競争を激化させる方向では個人も社会も元気にならない、かえってより停滞し、閉塞感も深まってしまうだろうと考えています。必要なことは、競争環境をより過酷にすることではなく、人と人をつなぎ、その関係を結び直す工夫と仕掛けを蓄積することだと思っています。
当時、盛り上がりを見せていた脱原発デモで、思想家の柄谷行人さんが「デモをやることで社会が変わるのかと聞かれるが、デモをすることで社会はか変わる。デモをすることができる社会をつくることができる」と発言しました。人々が一人ひとりの「民意」を社会に示すことで、社会は多様な「民意」を示すことができる社会に変わります。それをお互いが調整していくことで、異なる意見の人が調整できる社会に変わっていきます。それは大変大きなことのように、私には思えます。そこでは、「俺の意見が正しいから、俺のいう通りにやれ」という願いはかなえられないでしょうが、今よりも少数者の意見が踏まえられたら分、より内容豊かな政策が生まれていきます。政策が全員を巻き込むものである以上、それは全員の利益になるはずです。地味かもしれませんが、調整してより良い社会をつくっていくという粘り強さをもつ人たちが必要です。
そのために必要なのが時間と空間です。レッテル(一般化や決めつけ)におさめず、複雑な問題を複雑な問題として考えるにはどうしても時間がかかります。限られた時間からどれだけ、学んだり、意見交換したり、議論したりするための時間を切り出せるか。そして、そのための空間。邪魔されずに一人で読書できる空間、落ち着いて考えられる空間、友人やいろんな人たちと意見交換し議論するための空間。時間と空間の問題は、言い換えれば参加の問題です。社会的・政治的参加のための空間がなければ、そもそも参加が成り立たないし、「場」=空間があっても時間がなければ、やはり参加できない。

■やれることはたくさんある
参加のハードルを下げることが、また声を上げられない人たちに寄り添って一緒に解決策を探すことが「私たちの仕事」だとして、具体的に何をやればいいのでしょうか。できることはたくさんあり、それによって社会は変わっていきます。地域で暮らすさまざまな立場の人たちから「生活上どんな困りごとがあるか」を聞く集いを開くのでもいい。ひとり暮らしをされているお年寄りから何が不便か、ひきこもり状態の人から何が不安か、ホームレス状態にある人から路上で寝る苦労を聞くのも、自分たちの地域や社会のあり方を考える上で参考になると思います。その気になって見回してみれば、地域の中には自分の知らないことをよく知っている「先生」たちがたくさんいます。その人は「先生」と呼ばれるような職業に就いている人ではありません。世の中の矛盾がどこにあるかを知っている人です。彼らはその矛盾を生きている人かもしれません。その人に聞けば、地域や社会の中でどこに参加のハードルがあるか、教えてもらうことができます。

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■「高度経済成長」という断絶
濃密な地縁関係は、時に息苦しさをもたらします。特に若い人にとってはそうです。高度経済成長期、農村から都市部へと人工流入が進むと「マンションの隣の住人の顔を知らなくて何の問題があるのか」と言われました。そこでは、コミュニティはいらないものでした。日本においてコミュニティとは、あるものか、いらないものか、基本的にはそのどちらかだったのではないかと思います。「人と人を結びつける」「人と人との関係を結び直す」「一からコミュニティをつくる」というのはどういうことで、そのためには何をすればいいのかというノウハウの蓄積が日本には乏しい。これは日本の特殊性だといえます。伝統的な地域コミュニティから都市への移行は、日本以外の国々も経験していることです。ではいったい何が日本の特殊性を形作ったのでしょう。1950年代以降の高度経済成長だった、と考えることができます。二つの側面が考えられます。一つは、企業共同体の発達です。地域コミュニティが必要なくなった最大の理由は会社コミュニティ(社縁)があったからでしょう。高度経済成長は、地方から都市への大移動であると同時に、地域コミュニティから会社コミュニティへの所属替えと言える側面があるのではないでしょうか。もう一つは、ソーシャルワークの弱体化と軽視です。これは貧困の問題とも絡みます。高度経済成長期までは、日本でも大学生などによる「セツルメント運動」というものがありました。貧困地域に通って、子どもたちの面倒を見たり、家庭の訪問を調整しながら、コミュニティづくりを手助けする社会福祉事業です。高度経済成長を遂げると、貧困は解決済みの問題と見られるようになり、活動はなくなりました。また、現に会社はコミュニティとしての役割を失いつつあるにもかかわらず、価値観は依然として社縁中心になっているのではないでしょうか。会社に属すること以外に「人と人を結びつける」スキルとノウハウの発達が急務だと播磨(ブログ作者)は思います。

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