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わたしを解放しよう。ボノボとヒトの、無敵シスターフッド小説『猿の戴冠式』〈レビュー〉

小砂川チトさんのデビュー作『家庭内安心坑夫』が芥川賞候補になった時、試し読みになっている冒頭だけを読んで、「ヤバイ」と思った。特別な言葉は使っていないのに、切れ味がヤバイ。鮮烈すぎる。怖い……と思って、まだ読んでいない。おい、読めよ。

第二作『猿の戴冠式』も芥川賞候補となった。また冒頭を読み、やっぱりヤバかった。字面を追うだけで脳汁が出る文章が、私は大好き。

ふたつの森のなかには個の意識というものがなく、【われわれ】という感覚だけがひとまとまりのパン生地のように茫洋と膨らんでいて、あらゆることごとは未分化のまま、ただそのへんにおおらかに転がしてあった。

こういう、一見論理的な口調なんだけど詩的な文章が、私は大〜好き。

小砂川チト『猿の戴冠式』(講談社) 2024年1月19日単行本発売

この小説は簡単に言えば「ボノボとヒトの、種族を超えたシスターフッド」。純文学らしいとんでもなさだ。

でも純文学のいいところは、こういうとんでもない設定をセンセーショナルに使うのではなくて、むしろその逆、当たり前のこととして私たちに経験させてくれるところ。とんでもないはずのことが確かな実感を持って私たちの体を通り抜けるから、読んでいるうちに自分がどんどん生まれ変わるような気持ちになれる。

作品の前半は、動物園にいるメスボノボの「シネノ」の視点で語られる。シネノは幼い頃にヒトの研究機関によってヒトの言語を習得させられていて、口の構造の違いのせいで発話はできないのだけれど、頭の中ではものすごくいろいろなことを考えている。

動物園の動物たちがだいぶ鬱屈していたり、アパートの部屋を「人間の獣舎」と表現したりと、ボノボの目から見る世界がまずおもしろい。言葉のわからない(言葉のわかるボノボはシネノだけだ)年長のシヅヱというボノボが話しかけてくるのだけれど、「シネノ、シネノ。こっちさけ、ねまれ」というセリフがなんとも絶妙。意味は通らないのに、なんかニュアンスがわかる。

小砂川さんの言葉はどうしてこんなに切れ味がいいのか、理由の一端が本書でわかった気がする。小砂川さんは言葉の「音」をものすごく大事にしているんじゃないだろうか。ていうか、めちゃくちゃ耳がいいのでは。詳しいところは、実際に読んで体感してほしい。

シネノはある日、来園していた「しふみ」という女性と運命的な出会いをする。お互いに背景を知るわけではないが、実はしふみは競歩選手で、レースで大失敗をおかしふさぎ込んでいた。

2人(2匹)の鬱屈、焦燥、世界とのかみ合わなさがリンクし、彼女たちは直感的に惹かれ合っていく。種族を超えたシスターフッドの誕生だ。

この小説は、フェミニズム文学と言ってしまってもいいと思う。(彼女たちを抑圧するやなやつたちの描き方がとにかく秀逸だ。本当にやなやつばかりだ)アスリートでなくても、ましてやヒト語がわかるボノボでなくても、彼女たちが感じる息苦しさに共鳴する人は多いはずだ。

でも、純文学ならではのおもしろさはここからだ。彼女たちはどうやって「冠」を手に入れていくのか? フェミニスト活動もいいと思う(出てきません)、でも純文学がやるのは、もっと体の感覚に直接訴えかけるようなはたらきだ。ボノボはわきまえない。感じるがままに体を解放していく。シネノに自分を重ねるしふみもまた、自分自身の体の力に目覚めていく。

小砂川さん、作品のテンションが上がるところの書きぶりがすごい。勢いが猛烈。爆音のロックみたいに、読んでいるこの体がつられて脈打ち、ガンガン体温が上がっていく。

言葉で書く小説なのだけれど、動物の視点が入っているからなおさら、言葉で言い尽くせない感情や衝動までが言葉の中に宿されている。言葉にできないものを呼び起こされる感覚って、誰しも自分を解放し、ありのままでいられるのではないだろうか。

シネノとしふみはずうっと全速力。だけど競歩だから、走っているわけじゃない。そのぶんもどかしい。だけど強く大地を踏みしめている。

人生なんてほんとうは、(中略)タフに扱い、使い切り、傷だらけに汚して構わないものなのだと、ばかばかしい一生でいいのだと、ほんとうはだれかに——うつくしく生きているだれかに、そう言ってほしい。

全力で歩き抜いた先に待つのは、彼女たちだけの「冠」。喜ばしいのは、そこにいるのが自分一人ではなく、同じ傷を背負っただれかが一緒にいること。読み終わる頃には、無敵で最強になれる一冊だ。

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