闘い
今日もまた、闘いが始まる。
平然とした顔で、いつもと同じ会話を交わしながらも、そこにはたしかに、火花が散っている。
電車内、信号待ち、そして、仕事場。
接触頻度が高い相手であればあるほど、その闘いは、長く、しつこく続く。
そしていつも、決着はつかない。
今日もその時が来たようだ。
「すみません、Aさん、今度の会議の資料について、ご相談があるのですが。」
Aさんは、パソコンから、顔をこちらに向ける。
「うん、わかった。どこの部分?」
Aさんのマスクに目を向ける。
Aさんは、マスクの針金の付いている側を、外側にしている。
私は、これから始まる長く壮絶な闘いを想像し、覚悟を決める。
形状、紙質、どれも私が着用しているものとよく似ている。
しかし、私の顔を見た、いや、私のマスクを見た相手に焦りの様子はない。
よほど、自信があるのだろう。
マスクの常時着用が半義務化されてから、早3年、紙マスクの、一番の欠点は、"どちらが表かわからない"ことなのではないかと思う。
表裏で材質がそもそも違うものもあるが、まったく同じものもある。
厄介なのは、同じようで、違うものだ。耳にかけるゴムが接着している面があるもの、片面に針金が付いているもの。
どちらを表にするのか、これは、間違えたからといって、会社をクビになることはないし、警察に捕まるわけではない。
わざわざ指摘してくる人もいないだろう。
ただ、そこが逆に問題だ。
誰にも指摘されることはなく、変わらない日常を送っているつもりでも、知らず知らずのうちに、周りの人の頭の中で、(あっ、あの人、マスク逆に付けてる)と思われてしまうのだ。
家を出る前、朝の忙しさに追われる中で、"このマスクの表はどちらか"、我々は判断を迫られる。
その時、ゴムの接着面が表の方が密着する、とか、針金が表に出るデザインなはずはないだろう、とか、どこかで聞いたような聞いてないような理由を自分なりに見つけ、マスクを着用する。
そしてやはり、マスクの表裏のことなど忘れて、日常を送る。
しかし、あるきっかけを通して、また、どちらが表なのか、という問いの中に閉じ込められる。
それは、対立する者との出会い、つまり、同じタイプのマスクを逆に着けている者との出会いだ。
そう、例えば、それが会社の上司だったりするわけである。
「たしかに、それでもいいけど、この方法の方が確実かな。」
上司は針金が外側、私の針金は内側だ。
「そうですか、では、次の項目に、すべて入れ込んでしまうのはどうですかね。」
正しい着け方は、私の方だよ。両者ともに、譲る様子はない。
「それならいいかもね。まとまりもあるよね。」
白いはずの上司の針金が、金ピカに輝いているように見える。
ここまでの自信を放つほどの、何かエビデンスを持っているのだろうか。
こちらの手札は、「針金見えてたらダサいよね」の一枚だけだ。
弱い。
押されかけていた自分に気付き、足の裏にグッと力を入れる。
「ではそうしてみます。ありがとうございました。」
ここは、一時退散だ。
これは戦略的撤退であり、決して不利な状況になったわけではない。
私は、書類をデスクに置き、トイレに向かう。
入口の扉を開けると、すぐ右の鏡を見る。
間違えない、内側にあった方が、いいに決まっている。
よしっ、心の中で呟き、トイレを出る。
「お疲れ様です。」
違う部署の部下とすれ違う。
「お疲れ様。」
針金、外側だった。
もしかすると、間違えているのは、自分なのだろうか。
デスクに戻り、周囲を見渡す。
内側がガーゼの物、花柄の物、薄い青、濃い黒、様々なマスク。
多種多様なマスクが、「あいつ、逆だよね。」クスクスと笑いながら、話しているように見える。
「お先に失礼します。」
前のデスクに座る同僚が席を立つ。
そうか、もう退勤の時間か。これ以上は仕事が手に着きそうにない。続きは明日にしよう。
私は、書類を引き出しの中にしまった。
「今日は各地で夕方から雨が降る予報です。今から家を出る方は、傘を持っていった方が良いでしょう。」
テレビの中では、マスクを外したキャスターが、今日の天気を伝えている。
「では、今日のお天気占いに参ります。」
お天気占いが終わると、最寄り駅まで走らなければならない。
まだ、歩いていく余裕はありそうだ。
私は、マスクが積み重なった箱に手を伸ばす。
針金をじっと眺める。
決して、ダサくなかった。Aさんも、すれ違った部下も。
もしかすると。
私は、針金を外側に向けた。
ただ、ここで針金を外側にすれば、敗戦を認めることになる。
そして、今の、どっちが正しいのか誰もわからない状態から、「あっ、あの人変えたってことは、気付いたんだ。で、今まで、間違えてたんだ。」という確信に変わってしまう。
私は、マスクを裏返した。
ゴムを耳にかける。
針金を、鼻の形に折り曲げる。
靴を履き、玄関のドアを開けた。
これが、"私の"正しいマスクの着け方だ。
アスファルトには、天気予報が嘘みたいに、太陽が強く照りつけていた。
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