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魅力ある女性像

ドイツに住んでからしばらくして、一時帰国した時の事。
仲の良い友達に会い、いつものようにとりとめもない話をしていた。
その時に突然、友達に言われた。

『Ditoは、声が低くなったね』

それを聞いて驚いた。
私は、いつもと同じように話していたつもりだったからだ。

ドイツ語の発声が、日本語の発声にも影響があるのだろうかと、不思議に思っていた。
英語を学習している方から聞いたのは、英語と日本語は周波数が違うというものだ。
日本語は、125~1500ヘルツに対し、英語は、2000~12000ヘルツにもなるそうだ。

では、ドイツ語はどうなのかと調べてみたら、125~3000ヘルツだったので、英語ほどの差は無いのだと分かる。

その他、身体の大きい人は声も低くなるので、身体の大きいドイツ人が低い声であることは容易に想像できる。

やがて、それは発声からではなく、普段の意識から来るのではないかと思うようになった。
その頃には、日本のテレビから聞こえてくる女性の声がやけに甲高く感じて、いつまでも耳に残って仕方なかった。

ドイツでは、子供に対しても、いい意味で行き過ぎた子供扱いはされないように思える。
子供向けにもしっかり説明するし、理解させようとしている。
犬の躾と子供の躾はドイツ人にやらせろと言われているほど、そのやり方は徹底しているというのが、ドイツに対する評価だろう。

ドイツ人は議論好きな人が多い。
全員がそうではないけれど、一つの事柄に対して自分なりの意見を持っていて、それをきちんと話してくれる人が多い。

また、その逆も同じで、私がその事柄に対してどう思っているかを聞かれることも多い。
私が日本を離れたその瞬間から、私はDitoとしてだけでなく、一人の日本人として見られている。

日本ではこれはどうなっているの?
日本はどうしてこうなの?
日本の〇〇を教えて欲しい。

そんな質問に出くわす度に、私は自分が日本の事をまるで知らない事を恥じた。
私達が当たり前と思っている事、なぜそうであるかと疑問さえ持たない出来事について、ドイツ人が不思議そうにしていると、なぜ私はその事柄を当たり前と思うのだろうかと、その根本の考えを知らなくてはいけないと思うようにもなった。
日本を離れてから、より日本を感じ、日本を知ろうと思うのは、不思議な事だ。

また、男性女性を問わず、自立するという事はとても大切な位置を占めているようだ。
大学生になったら、親元を離れる。
学生寮や、WG Wohngemeinschaftと呼ばれるシェアアパートなどで暮らす学生が多い。
大人になっても親の家に住んでいると、あの子はどうしたのだろう?と近所で噂されるのを、何度も聞いている。
もちろん、二世帯住宅のように、一軒で二つの家族が住んでいるということもあるので、それは除外するが。

ドイツでは、女性として大人の落ち着いた雰囲気のほうがより好まれやすいのかもしれない、とも思う。
そして、女性の高い声というのは、街の中でもテレビの中でも、耳にすることはほとんどない。
声の大きい人には、たくさん出会うけれど・・・
スカートを履いているだけで、今日はデートがあるの?と聞かれたこともあった。
会社でも、スカートを履いているドイツ人はあまり見かけない。
その代わり、特別な場に行く時には、綺麗に着飾ってお洒落をしている。
大人の女性の魅力を前面に出すような服装だと思うし、それは日本でいう『可愛さ』とは、また違うものだと思う。
また、前髪があると幼く見られすぎてしまうので、前髪を作ることをやめた。
それが良い悪いという議論ではなく、私にはそう感じることがある。


声や服装は、その生き方にも関係していると思う。
結婚して専業主婦になるという選択肢は、ドイツではあまり見かけない。
専業主婦が多かった時代というのは、ひと昔前のお話のように捉えている。
お付き合いしている時にも、デートの食事は折半というドイツ人男性が多いと聞く。
プレゼントも、とても質素なものが多くてがっかりしたとか、ドイツ人男性はケチだと有名だと聞いて、ちょっと笑ってしまう。
子供が生まれても、パートナーのままの関係を続ける人も多いし、男性が育児休暇を取る事も珍しくない。
女性の自立を、より求めている社会構造や意識なのではないかと思う。

私の声が低くなったというのは、無意識下ではあっても、落ち着いた話し方をしようと思ったのだろうし、理論的に物事を説明しようと心がけていたからではないかと、そう考えた。

魅力ある女性の定義は、難しいと思う。
それぞれの人に、それぞれの好みがあるからだ。
しかし、子供の頃からの環境の違いや、自立することの意義などを考えると、日本とドイツを比較してみると、魅力ある女性像というものは少し違うと感じる。

何度も言うが、ドイツと日本のどちらが良いかではなく、ただ『違う』と感じる。

私はこのように、無意識に自分をドイツの風習に適合させて、生きているのだと思う。
長い年月をかけて、少しずつ岩を削る波のように、私もドイツの文化の波にもまれて、自分が変わっているのだろう。
そして時には無意識に、自分の内から来る自然な欲求までもを、押し殺していたこともあったのかもしれない。

それぞれの国に、異なる考え方がある事を知ることは大切だ。
そのどちらがいいとは、私には判断ができない。

だからこそ、私は自分を無理に変える必要などなく、ただ選択肢が増えるのだと考え、これからは過ごしていきたいと思う。

一人の人間として。
一人の日本人として。
そして一人の女性として。

魅力ある女性に近づきたいと、そんな思いを心に秘めている。

最後に。
添付の画像は、以前ブログを通して知り合ったかたが、私の書いた文章を読み、私のイメージ像として描いてくださったものです。
ブログ使用への許可を頂き、こうして使わせて頂いています。
私はこんなに美しい女性ではありませんが、この絵ように、真っ直ぐで澄んだ目をした女性でありたいと願っているので、この記事への画像にぴったりだと思いました。
絵は、今も大切に自宅に飾らせて頂いています。


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