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灰の境界線~第十話~

 その後、ベルゼブブは料理をし、アルマ達に振る舞った。

「今度は、味というものを理解して作った」

 その言葉と共に差し出されたのは、トマトベースのパスタだった。
 目を輝かせるエルに、アルマは少し慣れたのか平常だったが、クラウンは、悪魔が料理をしたという事実に驚きを隠せず、引いてる。
 最初に手を着けるのは、エルだ。おいしそうに満面の笑みを浮かべる彼女に、次いでアルマも食べ始める。豪語しただけあって、味は前よりも良かった。
 クラウンは、しばらく悩んでいたが、腹に背は変えられないと、覚悟を決めてフォークを取った。その感想は。

「今まで食ったものの中で、一番うまい」

 そうして、食事する三人の姿を、ガブリエルが嬉しそうに見つめていた。

 食事を終え、エルが洗い物をしている間、クラウンはベルゼブブとガブリエルに武器を見せた。
 机の上に置かれた武器を見て、ベルゼブブは言う。

「いい武器だな。私が触りたくないくらいには」

 エミリが、上位悪魔にも通じると言っていただけありそうだ。

「そうか、じゃあ剣の扱いに慣れないとな……」

 不安そうに言うクラウンに、ベルゼブブはガブリエルを見て言った。

「剣の扱いなら、ガブリエルに教えてもらうのがいい」
「え、私?」

 ガブリエルが驚く。

「私はそもそも武器に頼らない。剣の腕ならガブリエルの方が上だ。習うならガブリエルの方が適任だと思うが?」
「ふむ……」

 ガブリエルは少しだけ悩んだ後、頷いた。

「わかった、クラウンが良ければ、私が教えよう」
「まぁ、まずは体幹を鍛えるのが優先だ。今しばらくは、引き続き私が相手になる」
「あんたの訓練はいてぇんだよ!」

 ベルゼブブの決定に、クラウンは顔を青くして叫んだ。
 その様子を、アルマはぼんやりと眺めていたが、食器洗いを終えて来たのだろうエルに、服の裾を引かれた。

「ね、ねェ」
「ん? どうした?」
「と、るソ、ちゃ、は」
「あ……そうだ」

 エミリにも言われていた。彼女の様子を確かめて、現状を伝えないと。

「ベル、酒場に行きたいんだが」
「酒場?」
「エクソシストの依頼受注の窓口は酒場にあるんだ。しばらく顔出してないから、行きたいんだ。友達にも会いたいし」

 アルマの言うことに、ベルゼブブとガブリエルは顔を見合わせた。
 ガブリエルは頷くと、アルマを見た。

「では、私が一緒に行こう」
「え?」
「今、アルマを一人で行かせるわけにはいかないから。それに、アルマ以外の者には私の姿は見えないから、問題はないだろう」

 当然のように一人で行くものだと思っていたアルマは、少しだけ戸惑う。

「本当は私が行ってやりたいが、クラウンの鍛錬があるからな。まぁ、ガブリエルも四大天使の一人だ。ボティス相手に遅れをとることはないだろう」
「……わかった」

 ベルゼブブにも言われ、アルマは渋々承諾する。

「しかし、行くなら明日だ。今日はもう遅い。人間は寝る時間だ」

 窓の外は陽が落ち、すっかりと暗くなっていた。

 数人が集まり、歌を歌う。それは、神への賛美歌だった。
 教会で歌を歌うことは好きだった。内容はどうあれ、こうして誰かと歌うのが楽しかった。
 横で、共に歌う彼女を見る。褐色肌の彼女は、歌にはあまり関心がないのか、それとも、苦手なのか、所々ずれた音が聞こえてくる。
 視線に気づいた彼女は、こちらを見て、ニカ、と笑った。
 歌を終えて、解散すると、彼女は話しかけて来た。

『この後、お勤めだろ? お互い、がんばろーぜ』

 聖職者らしからぬ、粗野な物言いが彼女の常だった。

 だが、その日の夕刻、戻ってきた彼女は――悪魔に呪われていた。
 血を流し、苦し気にしている彼女に、司祭は告げる。

『お前は、ここにいてはいけない』

 ハッと目を開く。天井を見て、ここがベツレムの寝室だということを思い出す。
 身体を起こして、額の汗を拭った。

「夢……」

 それも、あれは過去の記憶だった。
 アルマは、精気のない顔で隣を見る。エルが穏やかな寝息を立てている。
 ふと、アルマは話し声を聞いた気がした。
 ベッドを降りて扉に近づく。そっと押し開け、隙間から階下を覗くと、ランタンの灯りの元で話し込む、ベルゼブブとガブリエルの姿があった。

「お前を逃がしたのは、ルシファーだろうな」

 アルマは目を見開く。そのまま黙って話に耳を傾けた。

「そうだろうな、クラウンが言っていた容姿からして、彼だ」
「あいつの、お前に対する愛情は異常だ。だが……サタンを起こしたいのも本心なのだろう。なにしろ、自分の弟だ」

 アルマは、え、と声が漏れそうになったのを手で押さえた。
 ガブリエルは目を伏せる。

「あの子達は……お互いに、お互いを大切にしていたからな」
「しかし、ルシファーからすればお前を失うのも怖いのだろう。あいつも、なんだかんだ、神に対してまだ気持ちがあるからな」

 はぁ、とため息を漏らすベルゼブブ。

「何故、神は我々を滅ぼしてはくれなかったのか」

 その言葉に、ガブリエルが目を見開き、声を荒げた。

「なんてことを言うんだ!」
「本心だ。正直、欠けたまま存在し続けるのも辛いんだ」
「それは……!」

 ベルゼブブは背を向ける。

「私は常に『飢え』ている。それは神との闘いで『充足感』を失ったからだ。これが罰なのかもしれないが、私はずっと『飢え』続けているのが辛い」
「……!」
「だが、こうして存在している以上、私はこのまま彷徨うことしかできんのだ」

 ベルゼブブが姿を消す。
 ガブリエルは、その場に座り込むと、すすり泣きを始めた。
 アルマは、堪え切れずに扉を開けた。その音にガブリエルが気づき、顔を上げる。
 涙に濡れた顔が、無理矢理に笑う。

「聞いていたか」
「ごめん……」
「いいんだ」

 アルマは降りてきて、彼の傍にしゃがんだ。
 ガブリエルは涙を拭って、アルマに問いかけた。

「神は残酷だと思う?」

 アルマには返す言葉が見つからない。
 ガブリエルは続ける。

「神は、本当は、自分の子供達を誰よりも愛している。私達天使に対しても、人間に対しても。けれど――」

 ガブリエルの顔が歪んでいく。

「あの子達は、神の愛が自分以外に向けられるのを嫌った。そして、人間を殺したいと願った。神は、それを許さなかった。天では、大きな戦が起こり、あの子達は地上に叩きつけられた――その時、あの子達は自分の一部を失い、地を彷徨うことになった」
「自分の一部……」
「ベルは……あの子は常に飢えている。何を得ても『満足』することができないんだ。その感情が、欠落してしまったから」

 だから、『暴食』と呼ばれているのか。アルマは考えた。

「飢えを満たす方法が見つからず、あの子はずっと彷徨い続ける悪魔になった。人間を食べたこともあるだろう、この世のあらゆるものを食べたのだろう、けれど、あの子が満たされることは、もう、決してないんだ」

 あれほど強く揺るぎないように見えた悪魔は、本当は苦しみを抱えていた。それが、どれほど辛いことなのか、アルマには計り知れない。

「じゃあ、他の悪魔も?」
「そう……彼らも、自分の一部を失っている。それが、神が与えた、あの子達への罰」
「罰……」
「悪魔を哀れに思ってはいけない。神はそう仰った。だけど、私は……」

 ガブリエルの言葉が震える。大粒の涙が、次々と零れ落ちる。

「あの子達が……滅ぼされるなんて……」
「ガブ……」
「あの子達は、私が育ててきた。天界で……みんな、いい子達だったのに、どうして、こんなことに……どうして……私の可愛い子供達……」

 アルマは、たまらずガブリエルを抱きしめた。
 彼は、本当に親のような存在だったのだろう。こんなにも優しい天使が、この世にいたなんて。
 神話では、聖母マリアの受胎は彼が伝えたと聞いている。きっと――本当に、人間に対しても優しいのだろう。
 人間を、神を、そして、悪魔までもを、大切に思う天使に、なんと言葉をかけたらいいのかわからなかった。だけど、何もせずにはいられなかった。

「何故、私は、あの子達を救えないのだ……」

 何故、この天使の言葉が聞き入られないのか。
 嘆く天使を前にして、アルマは胸の中で誰ともなく問いかけた。

 翌日、アルマはガブリエルと共に出かけた。
 出かける直前、ベルゼブブは「何を聞いたかは知らんが、気にするな」とだけ言ってきた。昨日のことを知っていて、特に追及する気はないらしい。
 ガブリエルも、もう悲しい顔はしていない。
 二人とも、辛い思いをしている。それを知ったことで、心にわだかまるものが少し、軽くなった気がする。それは卑怯なことだろうか。
 そんな事を考えながら、アルマはベツレムを後にした。

 酒場へ向かう途中、下位の悪魔に憑りつかれた人間に襲われることがあったが、ガブリエルも手を貸してくれ、処理は早く済んだ。
 酒場に着くと、ガブリエルは「外で待っている」と言って、戸口に立った。
 頷いて、アルマは中へ入っていった。
 賑やかだった酒場が、今では静まり返っている。朝っぱらから酒を飲む者は殆どいない。空気の違いに不安を抱きながら、カウンターへ向かう。

「久しぶり」

 声をかけると、ジーゴは驚いた顔をした。

「アルマじゃねぇか! お前、生きてたのかよ」

 悪態をつくものの、その声には喜びが混じっていた。
 アルマは、苦笑いする。

「しばらく来なくて悪かった」
「全くだ。お前が来ない間に、エクソシストの数もだいぶ減っちまった。これも、上位の悪魔が召喚されたせいだ」
「そうなのか……」

 しばらく来ない間に、随分と状況が変わってしまったらしい。

「てっきりお前も殺されちまったかと思ったが、生きてるんなら仕方ねぇ。仕事受けるか?」

 相変わらずの言い草に、フ、と笑って肩を竦める。

「受けてやりたいところだけれど、今、ちょっとトラブルに巻き込まれてて、仕事どころじゃないんだ」
「そうかよ。ま、エクソシストは訳ありってのが当然だから、理由は聞かねぇ。だが、早めに仕事してもらわねぇと困るぜ」
「わかったわかった。ところでトルソは? 仕事か?」

 その問いに、ジーゴは首を横に振った。

「いいや。あいつも、ここ二日は来てねぇ。もし会いにいくなら、とっとと仕事に来いとでも言っとけ」
「……わかった。ありがとう。また来るよ」

 アルマは、ジーゴに背を向けて歩き出す。
 その姿を見て、ジーゴはぽかんとした。

「あいつ、なんか丸くなったな。いい事でもあったのか?」

 ガブリエルと合流したアルマは、トルソの家を直接訪ねることにした。 
 それを伝えると、ガブリエルは戸惑った。

「いいのか? 私が同行して。呪いと反発して、また痛みを与えてしまう」

 心配そうに言うガブリエルに、笑う。

「本当、優しいよな、ガブは」
「え?」
「大丈夫だよ。外で待っててくれればいいから」

 ガブリエルは苦笑いを浮かべて、「わかった」と頷いた。
 向かう最中、彼は聞いた。

「彼女とは、聖職者の時から一緒だったのか?」
「うん、親友なんだ。彼女は……私より早く聖職者を辞めたから。いや、辞めさせられた、が正しいか」
「あの目のせいか」

 頷いて、アルマは振り返らずに進む。

「あの目は、上位の悪魔に与えられた呪いなんだ。悪趣味な奴で、トルソの目を抉った後に呪われた目をねじ込んだらしい」
「酷いことを……」
「それから、トルソは教会の審議にかけられて……本当は処刑される予定だったんだ」

 思わず拳を握りしめる。あの時の審議員の言葉が今も頭に残っている。

「『悪魔に魅入られた者を、教会にも世にも放ってはいけない』だと。教会は、トルソの存在を全否定したんだ。それで、殺される前に逃げたんだ」
「……そうか」
「ガブから見ても、トルソは死んだ方がいいって思う?」

 その問いかけに、ガブリエルは驚いたが、すぐに顔を横に振った。

「何故、命を奪わなければいけないんだ」
「……そう、だよな。本当に、そうだよな」

 その答えにアルマは、安心したのか、悲しげな笑みを浮かべた。

「なんか、ガブの言葉を聞いて、安心した」
「アルマ……」
「教会は、なんでガブみたいな天使と出会わなかったんだろ」

 辛く重たい背中に、ガブリエルは悲しげに目を伏せた。

「私は、私達天使は――誰もあの教会の司祭達を、信用していない」

 その言葉は、先を行くアルマの背には届かなかった。 

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