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灰の境界線~第一話~


 遥か昔、天の国にて神に背いた一団が、敗れ、地の底に堕ちて悪魔となった。
 悪魔は、神の愛によって生まれた人間を憎んだ。誘惑し、引き込み、貶めようと考えた。
 だが、人間もそれに対抗し、聖職者となって神へ絶対の信仰を掲げ、悪魔に対抗した。
 そう、ここは、人を堕落させんとする悪魔と、神の名の下に立つ聖職者達が戦い続ける世界。
 だが、その狭間に存在する者もいる。
 聖職者に属さず、神の加護なしで悪魔と戦う、エクソシスト。
 彼らは、何らかの理由により教会から罰を受け、聖職者ではいられなくなった者達により成る。
 信心を失った彼らは、ただ人の為だけに悪魔と戦う。

 これは、数奇な運命を辿った、一人のエクソシストの物語。

 寂れた街に、男の悲鳴が耳障りに響く。
 叫びを上げた男は、目の焦点を失い、涎を垂らしながら、近場の女ににじり寄る。

「や、やめて……!」

 女の腕には子供が抱かれている。
 懇願は、しかし、正気を失った男には届かない。
 その男の後頭部から、ゴリ、と固い音がした。
 別の女が、男の頭に銃を突き付けていた。癖だらけの長い茶髪に、左の頬には逆十字のタトゥーが入っている。
 そして、躊躇いなくトリガーを引いた。銃声が響き渡り、男は倒れ込んだが、その頭から血が溢れることはなかった。
 代わりに聞こえたのは、人間のものではない、しゃがれた声だった。

「チクショウ! また邪魔しやがって!」

 それだけ吐き捨てて、声は途絶えた。

「チッ、逃げられたか……」

 拳銃を持った女はそう呟いて、踵を返す。その後ろから、子供を抱えた女が叫んだ。

「あ、ありがとうございます……!」

 茶髪の女は、背を向けたまま軽く片手を上げただけで去って行った。

 親子の姿が見えなくなると、彼女は煙草をくわえ、ライターで火をつけた。
 女の名はアルマ。エクソシストだ。
 これで3人目。彼女は険しい目で街を見やった。
 廃墟だらけの都市に、次々と悲鳴が響き渡る。敵はまだ巣くっているようだ。
 向かいの屋根から颯爽と飛び降りてきて、合流する影が一つ。

「やれやれ、こっちも逃げられた!」

 褐色肌に白髪の女。彼女も同業者だ。
 アルマは彼女を一瞥して言った。

「ここまで臆病な奴は初めてだ。いくら憑依した人間をシメてもきりがない」

 エクソシストの仕事は、悪魔に憑依された人間から、悪魔を払うことだった。
 当然、抵抗する悪魔との戦いには命を賭けることになる。だが、それが彼女らの日常だった。
 今日の悪魔はやけに活発に見える。次から次へと人間の身体を渡り、払っても払っても現れる。
 二人は、都市の中枢にある壊れた噴水広場に向かった。そこには、悪魔に取りつかれた人間が4人ほど集まっている。
 何かを探しているかのように、うめき声を上げながら歩いている。その目は先ほど払った男のように、正気を失っていた。
 その者らは、二人を見るなりいきなり襲い掛かってきた。

「貴様ら! また邪魔をしにきたか!」
「今日こそその喉を食いちぎってくれる!」

 さっきも聞いたしゃがれた声。二人は鼻で嗤った。

「だってさ、アルマ」
「下っ端の分際でよく吠える」

 彼女らは踏み出すと、真向から立ち向かった。
 それぞれ二体ずつ相手取る。白髪の女は背中に携えた大剣を片手で掴み、襲い掛かってきた二体に大きく振り下ろす。人間の身体など真っ二つにできそうなそれは、その実、憑依した悪魔の霊体だけを斬った。
 ぎゃあ、と悲鳴を上げて悪魔が消え去り、人間達が倒れ込む。
 その後ろでは、アルマが腰からもう一丁の銃を取り出し、二丁拳銃で二体を相手取った。それぞれの銃口から放たれた弾が、それぞれの頭に命中し、二体は昏倒した。
 気を失って倒れ込んでいる人間達を見ながら、二人は息をついた。

「全く、何で今日はこんなに多いんだ?」
「ま、その分、報酬は多いんじゃないか?」
「でないと、割に合わないな」

 そんな会話を交わす矢先に、またしても悲鳴が上がる。自分達のちょうど左右から聞こえた。
 二人は目くばせすると、弾かれたように左右に別れた。
 その間際、アルマは白髪の彼女に一言告げた。

「トルソ、また後で」


 アルマの向かった先は、古びた教会だった。
 朽ちかけの扉を蹴り壊し、中に入ったところで、アルマは言葉を失った。
 5体ほどの憑依された人間が、中央にいる白髪の男に向かって襲い掛かろうとしていた。しかし、今まさに襲われかけているその男は、まったく動じることなくその者たちを見ている。
 アルマが気を取り直して銃を構えるより早く、白髪の男が手を伸ばすと、憑依された者達は一斉に倒れ伏した。
 悪魔の声が消え、人間達の表情が穏やかになっていく。

「お前、今、何をした?」

 男がこちらを向く。雪のように白い髪に、整った顔立ちに浮かぶ表情は酷く儚げで、人間のものとは思えなかった。

「お前、何者だ?」

 ふいに、男が驚いた顔を見せる。

「私の姿が、見えるのか?」

 身体ごとこちらを向けば、服装も独特のものを纏っている。それは、昔、教会で見た絵画に描かれる天使のような……。

「質問しているのは、私の方だが」
「……私は、ガブリエル」

 アルマの口がぽかりと開いて、煙草が落ちる。

「よ、四大天使の名……」
「そうだ」

 アルマは狼狽えるあまり銃口を向けた。

「う、嘘をつくな! そんな大それた奴が、こんなところにいるはずないだろう!?」

 ガブリエルを名乗る男は、さして動揺する風もなく、静かに言葉を紡ぐ。

「真実だ。そして君は、私が見えている。それが答えだ」
「さてはお前、天使に化けた悪魔か!?」

 ガブリエルは首を横に振った。

「君は、聖職者ではないのだな」

 その言葉は、元聖職者だったアルマには棘として刺さった。
 返す声に自然と不快が滲む。

「だとしたら、何だ」
「……もしかしたら、君なら……君になら、見つけられるかもしれない。私が見えるというのなら……」
「何がだ!?」

 こちらの問いを無視し、何かに納得する様が気に入らなかった。
 アルマは構えた銃を撃った。銃声のみが響き渡った。
 この銃弾は、特別製の対魔銃だ。悪魔にのみその効力を発揮するから、人間ごと撃っても問題ない。
 そして、悪魔でないものに害を及ぼすこともない。
 今、ガブリエルを名乗る男は平然と目の前に居る。その儚い目に悲しみを湛えて。

「本当に……天使、なのか?」

 ガブリエルは頷いた。

「そうだとも。私は神の使い。しかし……私は、自らの意志でこの地に来た」

 ふわり、とガブリエルが眼前に舞い降りる。
 その時、彼の目から涙が零れた。美しい雫が、滴り落ちる。

「あの子が、目覚めてしまった。あの子をもう一度封じ込めなければ、この地上のすべての人間達が、滅んでしまう。そのためにどうか、私に力を貸してほしい。私を、助けてほしい……」

 天使が、人間である自分に懇願し、助けを求めている。
 その状況に、アルマはただ困惑するしかなかった。
 呆然と立ち尽くしていると、背後から声がかけられた。

「おい! こっちは片付いたぞ!」

 悪魔払いを終えたのだろう、トルソが追いついた。

「うん? どうした?」

 妙な空気に疑問を浮かべた直後、トルソは顔をしかめて顔の左側を押さえた。そこは長く伸びた前髪の下に、更に眼帯が巻かれている。

「お、おい、アルマ……そこに何が居る?」

 トルソの様子に、ますます困惑したアルマがガブリエルを見ると、彼は静かにこう言った。

「彼女、悪魔の呪いを受けているんだね。私の力と反発しているんだろう」

 これでまた一つ、彼が天使であるという確証ができてしまった。
 ただ、トルソには彼の姿や声までは伝わっていないようだ。
 アルマは、どうにかいつもの顔を取り繕うと言った。

「仕事は終えたんだ。酒場に戻ろう」
「え? あ、あぁ」

 アルマは心配そうな顔のガブリエルに振り返ると、目配せだけして教会を後にした。

「やっぱり、なんかいるんだろ? なぁ、何が居るんだよ、教えてくれよ~!」

 怪訝な顔をするトルソを放っておいて、アルマはすたすたと歩みを進めた。

「今日も生きて帰ってきやがったか」

 酒場に着くなり、アフロヘアの男は盛大に悪態をついた。
 彼はジーゴ。酒場の店主であると同時に、エクソシストの依頼を斡旋している。いわば窓口だ。

「何体やった?」
「あたしは7」
「……8」

 胸を張って答えるトルソの横で、アルマはやや目を逸らしがちに申告した。

「チッ、報酬だ」

 ジーゴは、惜しそうに金の入った袋を差し出した。
 トルソは嬉しそうに、アルマは真顔でそれを受け取る。
 酒場には、自分達の他にもエクソシストをしている者達が入り浸っている。

「今日は、悪魔どもがやけに活発だったみたいだが?」
「全く、なんだってあんなに湧いてやがんのか」
「もしかしたら、聖職者が街に入ったのかもしれねぇぜ。そいつを殺す為に躍起になってたのかもな」

 背後の溜まり場から聞こえた会話に、アルマはガブリエルを思い出す。
 今日、やたらと悪魔が活発だったのは、もしや彼が降りて来た影響ではないか。そんな憶測が頭を過る。

「今日は帰る」
「え、呑んでかないのか!?」

 トルソの呼び声を無視して、アルマは酒場を後にした。

 向かった先は、あの廃教会だった。
 中に入れば、朽ちかけの長椅子に、律儀に座っているガブリエルが居た。こちらを見るや、あからさまに嬉しそうな表情を浮かべている。
 彼が勝手に居なくならなかったことに安堵した自分に首を振って、アルマは彼の近くに乱雑に腰かけた。

「で、大天使ともあろう御方が、何を助けて欲しいんだ?」

 ガブリエルは改まると、こう言った。

「サタンのことは、知っているか?」
「あんたと同じくらい有名だからな。泣く子も黙る大悪魔だろう」
「そのサタンが、封印から解き放たれた」

 悪魔にも階級がある。名のある悪魔ほど、そう簡単には地上に現れない。逆に、下っ端はしょっちゅう人間に憑りついているが。
 その中でも、サタンはあの七大罪にも数えられるほどの上位存在だ。
 サタンが封印されていたという話は、アルマも知らない。何しろ、現れたという話も聞かないからだ。
 信じているのか、いないのか。アルマはタバコをくわえて話の続きを促した。

「それで? なんで私の力が必要なんだ」
「サタンは、人に化けるのが得意なんだ。力の片鱗も見せず、人間の中に忍び込める。そうなると、私達天使でも見分けることができない」
「じゃあ、神は?」

 煙と共に吐き出された言葉には、皮肉が籠っていた。

「神は全てをお見通しなんだろう? だったら、人に化けた悪魔の正体だってわかるだろうに。わざわざ天使を遣わさなくったってさ」

 ガブリエルの顔に悲しみが滲む。

「もちろん、神にならわかるだろう。だが、今はサタンの影響で神の力が遮られて、聖職者達に助言をすることもできなくなってしまっている。それに、神の直接的な干渉は、人間にとっても負担になる」
「それなら、サタンと戦えばいい。私達、人間を通さずに」

 ガブリエルは顔を横に振った。

「神とサタンが戦えば、地上をも巻き込むことになる。そうなれば、人間だって無事では済まない」
「それで滅ぶなら、いいじゃないか。また創り直せば。神にはできるんだろ?」
「神は”今、存在している”人間達を愛しているんだ。だからこそ、簡単に創り変えることなどできない。それは、私も同じ気持ち……」
「あんた達にも、心があるって言いたいのか」

 アルマはガブリエルを睨んだ。ガブリエルはそれを真っ直ぐに受け止める。

「あるとも」

 アルマはタバコを吸うと、大きな煙を吐き出した。

「でも、私には関係ないな」

 そうして椅子から立ち上がる。

「あんた達が困ろうが、神が困ろうが、私には関係ない。悪いけど、他所を当たるんだな」
「そこまで、神と関りを持ちたくないか?」

 アルマの顔に露骨な嫌悪が浮かぶ。
 ガブリエルは申し訳なさそうに頭を垂れた。

「そうか……しかし、私は、どうしても君にお願いをしたいんだ。私は人間を……君の事を信じている。だから、助けてほしい。神に、あの子を消されてしまう前に」
「……どういう意味だ?」

 話を続けようとした時、可愛らしい少女の声が教会内に響いた。
 くすくすと笑う声に、どこか違和感を覚える。

「この声は!」

 ガブリエルにも聞こえたらしく、立ち上がって目を見開いている。

「この声、悪魔か!?」
「待ちなさい!」

 アルマは咄嗟に外へと走った。ガブリエルの制止を背に受けながら。
 教会のすぐ横は路地裏になっている。
 そこに、こちらに背を向けて蹲る少女がいた。顔を覆って泣いている。まさか、悪魔に襲われでもしたのか。そう思ってアルマは近づいた。

「君、大丈夫か!?」

 背後から、ガブリエルの声が響く。

「離れなさい! その子は――!!」

 彼の言葉が終わらないうちの出来事だった。
 アルマの身体が上下真っ二つに引き裂かれた。痛みを感じる暇すらなかった。
 ただ、ただ戸惑いながら、その場に転がるしかなかった。
 少女の泣き声が、笑い声に変わっていく。それは、先程、教会で聞いたあの声だ。

「やさしいお姉さん、あなたの血はとってもきれい。神へのにくしみで真っ赤っか。わたし、だぁいすき」

 少女とは思えぬ、悍ましい笑顔がそこにあった。
 ガブリエルの手に剣が顕れる。彼はそのまま少女に向けて振りかぶったが、霧のように掻き消えてしまった。
 振り返って、無残な姿となったアルマを見る。
 駆け寄って、ガブリエルは顔を歪めた。

「呪いをかけられている! だが、私の力なら……」

 その時、また別の女の声がした。

「待て」

 水から上がってくるように、影の中から長い銀髪の妖艶な女が姿を現した。

「地上に降りたばかりか、いたずらに力を使えば、お前もただではすまんぞ」
「し、しかし!」
「まぁ、待て」

 女はゆっくりと二人に、死にかけのアルマに歩み寄る。

「お前、まだ生きたいか?」

 声は出なかった。ただ、アルマは手を伸ばした。
 もう意識も掠れてきている。それでも伸ばされた手を、女は取った。

「ならば、我らの器となれ」

 ガブリエルが弾かれたように顔を上げ、女を見る。

「今、お前を引き裂いたのがサタンだ。サタンの呪いは死に至る。生きたければ、我らと契約する他ない。が、どうする?」

 アルマの歯が食いしばられる。女の手を握る手に力が籠った。

「よろしい。契約だ。お前は、悪魔と天使、双方の器となり、サタンと対峙するのだ」

 その声を最後に、アルマの意識は途切れた。

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