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中学生になりました

おいでませ。玻璃です。

6年間通った明倫小学校を無事卒業した私は、市内でも一番大きな中学校に入学した。

萩市立第一中学校。
第一だからといって第二があるわけではない。
萩市民は一中(いっちゅう)と呼んでいた。
私の在籍中は1学年8クラスあり、市内では一番大きな中学校だ。

私の家は自転車通学の区域だった。
自宅から自転車で約15~20分くらいだっただろうか?
中学入学と同時に買ってもらった新しい自転車でヘルメットを被り、まだ購入した時の折り目の跡が残るセーラー服を着て国道のカーブを風を切って登校する。

1年5組が私のクラス。
古い方の校舎2階の一番端の教室だった。
担任はヒョロリと痩せて銀縁の眼鏡をかけた数学担当の先生。
厚いレンズの眼鏡をかけた先生の事を私たちはガチャと呼んでいた。

一中は明倫小学校からだけではなく、椿東小学校からも生徒が入学していたため知らない子だらけの中で友達作りをスタート。
そこで仲良くなった子たちと業間休みや昼休み時間に廊下の窓際に出ていつもお喋りをしていたので、私たちは「窓際族」と呼ばれていた。

入った部活は卓球部。
一生懸命練習していた記憶はあまりなく、体育館の片隅や誰もいない教室で、いつも「キューピットさん」をやっていた私たちは、もはやキューピット部だ。

10円玉を使った降霊術の「こっくりさん」は呪われるなどの噂があり禁止されていたので、その代わりに憑依されたり呪われたりする心配のない安全な儀式?として鉛筆を使った降霊術のキューピットさんが私たちの間で流行していた。

「キューピットさま、キューピットさま」
「〇〇くんの好きな人は何組にいますか?」
「それはこの中にいますか?」

など、恋についてキューピット様にお尋ねする。
二人で鉛筆を持ち、その鉛筆が紙の上を移動して答えてくれる。
時には鉛筆が暴走し、紙の上にめちゃくちゃな線が書きなぐられるようになると、

「ヤバイ、ヤバイ。キューピットさんが怒った!」

このオカルト占い的なものの他に星占いも流行していて、毎月「マイバースデー」という占い雑誌を購入したり立ち読みしたりしていた。
幼い恋心に占いは欠かせないものだった。

みんな読んでいたマイバースデー

雑誌と言えば、アイドル全盛期のこの頃、「明星」や「平凡」の切り抜き交換が大ブーム。
アイドルについては過去の記事でも触れている。

こうして、私の中学生生活が始まった。
思春期突入3年間の取り留めのない思い出語りにしばしお付き合い頂けると幸いだ。

ではまたお会いしましょう。


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