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人んちのことなんて。

他所は他所、うちはうち。
幼い頃、親から叱られた記憶を辿れば、多少言い回しの違いはあれど、誰しもが言われたことのある言葉だと思う。しかしこの言葉を「ああそうか、なら仕方がない」と思える人間がどれほどいるだろうか。少なくとも私は違う。友達が持っていれば自分も欲しくなったし、なぜあの子はああなのに、私はこうなのだろう、とその違いに辟易していた。可愛いあの子が羨ましかったし、頭がいい人のことをずるいと思った。運動神経がいいとか、異性にモテるとか、そういったすべての類が、私の嫉妬の対象だった。
私は、自分が誰かの人生の脇役であるような気がしてならなかったのだ。
大人になって、少しずつ自分を客観的に見えるようになり、自意識過剰になりすぎず、かつ僻みすぎずに生きれるようになって、やっと「人んちのことなんてどうでもいいよね」と言えるようになってきた。もちろん羨ましくなることもあるけれど、「まぁ人生そんなもんだよね」と諦められるようになったのだ。

諦める、と言う言葉はイメージがよくないけれど、実際のところ「諦めるべき時」が人生必ず訪れる。夢や目標を諦めないことはもちろん大切だけれど、「退き際」が存在することも理解したうえで挑戦する必要がある。嫉妬や僻みは、その「退き際」を理解していない人が、もう届かないのに、あるいは自分の身の丈にあっていない事象であるにも関わらず、その事象が手に入っていない事実を受け止められずに、他人にその苛立ちをぶつけているケースが往々にしてある。ぶつけられた他人からしまらいい迷惑だ。自分が抱えている現実を、他人の人生と結びつけて考えてしまうのは、稚拙なことだと、私は思う。人んちのこは、自分とは無関係なのだ。

僻みや妬みは、大人になればなくなるのだと、学生時代はぼんやりと考えていたが、大きな間違いだった。年齢を重ねた今も、それは存在する。そして私自身も、それらに駆られる時が未だにある。まだ完全に自立できていないのだ。気持ちを整理する方法を身につけ、少しずつ改善はしているけれど、なくなることは、もしかしたらこの先ずっとないのかもしれない。私たちに必要なことは、僻みや嫉妬をなくすことではなく、それらの気持ちと「折り合いをつける」ことなのだろう。

人生はまだまだ難しい。
けれど、私たちが向き合うべきは自分の人生だけなのだ。人んちのことは人んちに任せて。まずは、自分のことを大切にしよう。

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