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貧困=不幸ではないということ【Rich Heartプロジェクト】

貧困といわれる環境で育ってきたこと。
いま、貧困と言われる環境にあること。
その日本における、沖縄における「貧困」の定義が何なのかは私は知らない。


今日生きるか死ぬかの絶対的貧困と違い、その国の生活水準レベル以下の相対的貧困は目に見えづらいし、わかりづらい。けれど、それをどうにかしたいと願っている人が沢山いる。
そして、目に見えづらいからこそデータや統計を参考にして色々と意見が飛び交うこともある。


これまで感じていた違和感。
「なぜ私は自分が貧困と言われることをこんなにも嫌がるのだろう」
「貧困と言われる人々が哀れみの目を向けられるのはなぜ?」
「貧困って悪い事なの?なにがどういう風に悪いの?具体的に教えてほしい」
「貧困というワードに縛られて自分を生きられない人がいるんじゃないだろうか?」


そんな事を思いながらこの1年間、色んな人と対話を重ね、想いを重ねてきた。その中で、貧困と言われる環境で育ってきた人々にいわれた言葉にものすごく共感した。


「貧困だったかもしれないけど、子どもの時はそう感じなかった。電気が止まると暗い中みんなでロウソクで過ごして楽しかった」
「貧困からの理由で施設で育ったけれど楽しかった。自分にとって施設は可哀想な場所ではない」
「あの時があるから今の自分がある。貴重な経験をした」


その他にも沢山あるけれど、これらを聞く限り「貧困」って悪い事じゃない。
その反面、貧困を理由にマイナス的な話をする方ってよくよく聞くと「貧困」が原因じゃなかったりする。それを目の当たりにすると「貧困」はもっと丁寧に掘り下げていく必要があると思う(なんでも「貧困」でまとめないで欲しいと思う)


そして今、一つわかった事がある。
「貧困」といわれる環境は確かに大変であるし、生きづらさがあるとおもう。
けれど「大変=不幸」では無いし、大変さの中にも幸せはある。

その幸せを感じられるかどうか、そこに幸せがあると信じられるかどうかか大切だと思う。
その「幸せを感じる心」は貧困という環境さえも味方にしてしまうと思う。

貧困と言われる「環境」をすぐに変えることは難しいかもしれないけれど、貧困を丁寧に掘り下げていった時、貧困という「言葉」はもっと具体的な困りごととして別の言葉に変わるだろう。

沖縄の貧困といわれる事について考える
「Rich Heartプロジェクト」


Rich Heartプロジェクト沖縄
さつき(大城五月)