「休符も音楽、休みも人生」座右の銘と共に、自分へのお手紙を
休む。を遂行することのなんと難しいことか。
数日前から十数年に一度程度の猛烈な体調不良を経験してふらふらになっているところ。
黙っとけばいいのですがわたしはかまってちゃんなので黙らず書きます。
ちょうど休むことを考えていたとき、強制的に休まなければならないイベントが発生した。
なにせ動こうにも動けない。
休むって何なんだ。
一人だと食べるものも自分で用意しないといけないし、病院も自分で探して自分で行かないといけない。
頭も働かない吐き気のなか、生命維持のために最小限の水分だけ摂取しながら過ごした。
それにしても私の身体は優しいなとも思う。踏ん張りどころを超えてやっと休めるぞ!という時にアクションを起こしてくれる(?)
おかげでなんとか仕事には穴を空けずにすみそうだ。本当はもっとみんなが休みをとりやすくなればいいのだが…なかなかそうもいかず苦しい。責任感なんて捨てちゃいたい。ぽーい。
普段はぼんやりと何もしていないように思えて、気づけば携帯を触っていたり頭ぐるぐるで考えてしまっていることが多い。
体調不良で療養中はある意味思考停止だった。生命維持のことだけ考えていた。
ふと。理由もなく休むことに罪悪感を覚えるのだなと浮かんでくる。
しかし、体調不良という建前があれば休める、なんてちゃんちゃらおかしいと思う。
豊かな人生のために休むことは必要不可欠だ。
休符も音楽、休みも人生。
この言葉をいつかnoteに書きたいと思っていた。
このタイミングとは思わなかったがきっと今なのだろう。
高校時代、吹奏楽部の恩師が贈ってくれた言葉だ。
当時もいい言葉だなぁと心に残ったが、それは10年経った今でもことあるごとに思い出し、色褪せずに残る言葉となった。
休符のように一瞬立ち止まるならまだしも、何小節も休みとなるとやはり焦る。
自分の出番がなくて寂しい、観客に忘れられそうだ、自分は不要な存在なのかと。
トランペットやフルートのように花形楽器で、明るく強い光の中にいる経験があるほど、影が訪れたとき寂しさに襲われるような気もする。
光の中にいる自分しか、認められないように思ってしまう。
休符も音楽、休みも人生。
はて、休んでいる時間は立ち止まっているのだろうか?
音を出していないだけで、音楽は進んでいる。
休んでいる楽器も、合流地点を今か今かと待っている。
休みも含めて人生なのだ。
そう、頭ではわかっている。
人と人との関わりも音楽のようだと思う。
ひとつの楽器の音だけではできることが限られていても
他の楽器の音とあわせることで深みが増したり不協和音になったりハーモニーが生まれて幅が広がったりする。
共鳴することで違う音が鳴ることもある。
響きが、音圧が何倍にもなる。
そもそもこの世にたったひとりなら、ひとりで音を奏でたいとわたしは思えない。
心地よいハーモニーを増幅させていきたい。
そして初心に帰る。
休符も音楽。
休符がなくては音楽にならない。
休符も音楽の一員なのである。
休みも人生。
どんな時間もあなたの、わたしの人生の一部。
ずっと音を鳴らし続けてはいられない。
幾度となく思い出すこの言葉は、一生大切な言葉になるだろう。
忘れかけてもその時のメロディに乗って、気付かせてくれるだろう。
そして。
立ち止まっていても
居場所は、在る。
あなた自身が既に創っている。
その場所で心が満たされた人々は、外の世界に飛び立ち居場所を広げている。
なんの疑いもなく信じてくれた、100%承認してくれた場所での心の繋がりは消えない。
時が経ってもまた繋がると信じられる。
立ち止まっても待っていてくれる人が必ずいる。
すこし前、あるnoteに切なさを覚えて勝手にお返事を書いていたのだけど、自身の体調不良など色々巡って今のタイミングになり、
近い未来、自分に送る日が来そうなnote。
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