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なぜ人は無意識のうちに手段が目的にすり替わるのか

どんな人も結局は「心地いい精神状態」とか「達成感や幸福感を得ること」を目的にして生きていると思う。

そして日常の細やかな出来事は、結局それらを叶えるための手段でしかないはずなのに、気づけばすぐその手段を目的にしてしまう。


重要度が高いものほど手段が目的になりやすい

例としてすぐ思い浮かぶのが、恋愛とか結婚とか仕事とか、友達とか住むところだ。

それら全て、幸福感や充足感を得るための手段に過ぎない。幸福感や充足感を得たいから恋愛とか結婚をしたり、友達と会って話したり、仕事をしてお金を稼いでそれで欲しいものを買う。もしくはその仕事で達成感を得る。

気づけば手段であったはずのそれらを、なぜ最終的な目的にしてしまうのだろう。理由はきっとひとつではないが、恐れがあるからだろう。

自分の幸福度よりも周りの目を優先しているのかもしれないし、将来を心配をしているのかもしれない。

しかし大抵の場合将来を心配しているように見えて、そもそもその「目的にすり替わってしまった手段」を叶えたその先まで考えてられていない。

恐れや不安が強いとすり替わりやすい

とにかくその手段を叶えることだけにフォーカスしている。それさえ手に入れられたら今自分が恐れていることから全て解放され、「永久に続く絶対的な安心」が手に入ると思い込んでいる。したがって、それが今もこの先も手に入らないと思うととても怖くなるのは当たり前である。

上記は全て幻想なのだ。全て自分の頭の中で勝手に絶対的なものを生み出し、1人でそれが手に入らないことを恐怖し、手に入れなければと躍起になって義務感で動いている。

物事は全て流動的である。この先を絶対を保証する契約などどこにも存在しない。この世に絶対が存在するとしたら、「変わらないものはない」という絶対だ。どんなに周囲から称賛されるような仕事をしていても、どんなに変わらないと思っている人間関係も、それすら絶対的なものではない。

自分の感情も精神も感性も、常に流動的なものなのに他人だってそんなものは持ち合わせていない。

どんな生き方をしていようが人は必ず死ぬし、体調も崩すし老いて病気にもなるし、怪我もする。元気にもなれば暗くもなるし、面白くもなればつまらなくもなる。嬉しくもなれば悲しくもなるし、賢くもなればバカにもなる。

絶対的な安心は存在しないからこそ目的にフォーカスしない

世の中には飽き性だったり、単調なことを嫌い変化を積極的に好む人間も一定数いるが、人は潜在的に流動的なものは恐れとして認識しているのかもしれない。安定っぽいものを求めて生きていたくなる。だから恐れると手段が目的になりやすいのだろう。

芸能人やYouTuber、インフルエンサーなどが成功しても情緒不安定だったり、自死したりする。流動性が高いと、この先の予測がつかず不安定になりやすいのかもしれないと思うことはある。しかし結局安定とは幻想で、普通に生きていても絶対的に手に入るものではない。それは自分でコントロールできない。

安定は、外側に求めても存在しないのだから苦しくなる。前述したように自分ですら流動的な存在なのだから、まず自分の中で流動性と折り合いをつけることから始めることが望ましい。それは何も手に入れられなくても自分の内側から勝手にできる。

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