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場の責任を負う必要はない。望まない役割は積極的に手放していく

加藤諦三著「無理しない方が愛される」をあらためて読んでいた。加藤諦三氏の著書は大抵、辛辣な言葉が並ぶ。鬱状態がひどい時に読むとあまりよくなかった。文脈を健全に受け止められず、どこまでも自己否定してしまう。

劣等感が激しい人は相手の気持ちを憶測し、解釈しすぎるのである。もちろん相手の気持ちを憶測し、解釈しすぎるのは不安だからである。自分が好かれているかどうか不安だから、ついつい解釈しすぎてしまう。

「無理しないほうが愛される」加藤諦三

しかし、優しくも厳しい叱責と捉えるくらい健全な精神になってくると、それは自分にとって必要な考え方だと思える。

場の空気に敏感な人間は空気を読めるとされているが、本人は感じたくもないものを感じ、考えたくもないものを考えてしまい、いちいち疲弊する。



負わなくていい責任を無意識に負っている

その本人が、無意識に「この場の空気の責任を負わなくては」と思ってしまっている。その場が何人くらいの集まりにせよ、その場の空気の責任はその場にいた人間全員にある。自分1人が過剰に責任を感じる必要はない。

例えば自分含めた5人の集まりがあったとして、引くほどつまらなかったとする。お通夜に参加したのではないか?と感じるくらい暗かったとして、つまらない責任は全員に20パーセントずつある。自分も少しは責任はあるが、それでも20パーセントに過ぎない。

「自分がこの場の空気をなんとかできる」と思ってしまうから苦しい。ピエロ役を買って出て、やっぱりピエロ役をやるのが苦しい、となる。でもその場にいた人たちは、別に疲弊してまでピエロ役を買って出ることを希望していない。


結果は手放す、コントロールは相手に伝わる

つまらなかったらつまらなかったでいいし、盛り上がらなかったら盛り上がらなかったでそんな日もあるよね、今日つまんなかったね、となる。それ以上でもそれ以下でもない。それがプレッシャーを放棄した安心感のある人間関係である。

そもそも恐れの感情が出てきた時にすることがコントロールであり、それが伝わると緊張として相手に伝わる。結果相手も自分も疲れる。目の前の相手に対して誠実に接することは大切だが、その結果(その場の空気)まではコントロールできない。

コントロールを手放すことが、健全なコミュニケーションである。