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[読書]カミュ『シーシュポスの神話』清水徹[訳]

よう、オレだぜ。今回紹介するのはコイツだ。

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるかとか、精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、それ以後の問題だ。そんなものは遊戯であり、まずこの根本問題に答えねばならぬ。

カミュ『シーシュポスの神話』清水徹[訳]、新潮文庫、p.11

『シーシュポスの神話』に収録されている「不条理な論証」と題打たれたカミュの評論は上の断言から始まるぜ。自殺について考えることが、自殺すべきかどうかを判断することだけが、哲学の仕事である、とカミュは言い切っている。

この断言に触れて「いったいなぜそんなことを問題にしたがるのか?」と首をかしげたくなるヤツもいるかもしれない。現在の自分には自殺したくなるような強い衝動は見当たらない、《人生が生きるに値するか否かを判断する》方がむしろ遊戯である、そんなものは充実を感じていない生活の結果でしかない、不幸を改善する努力が足りないだけだ、等々、と反発したくなる者もいるだろう。

それに対して「お前は(自殺したくなるような)不幸・苦難に見舞われていないだけだ」と答えることはヨブ気取りの鼻持ちならない自惚れの披露にしかならないだろう。いったい自分だけが「本当の」現実に立ち会っているのだろうか。そんなことはない。オレたちに共通な現実があるはずだ。意識するにせよ、しないにせよ、ニンゲンであろうが、パンダであろうが、生物である限り、噛み締めざるを得ない現実が。

さて、カミュは自殺を次のように定義しているぜ。

おのれを殺すとは、《苦労するまでもない》と告白すること、ただそれだけのことにすぎない。もちろん、生きるのはけっして容易なことではない。ひとは、この世に生存しているということから要求されてくるいろいろな行為を、多くの理由からやりつづけているが、その理由の第一は習慣というものである。みずから意志して死ぬとは、この習慣というもののじつにつまらぬ性質を、生きるためのいかなる深い理由もないということを、変動のばかげた性質を、苦しみの無益を、たとえ本能的にせよ、認めたということを前提としている。

同書、p.14

つまり、自殺は「もはや生きていても仕方がない」という判断の下に行われる、ということだな。自殺者の動機は千差万別(政治的な抗議の意味の自殺もある)だろうが、これ以上、自殺という行為に付随する心理について内包的に定義するのは困難であるように思うぜ。

そして、ある死を自殺と判断することは、同時にその対象に意識の存在を積極的に認めることでもある。たとえば、機械が動かなくなった時、オレはそれを調べてみて「壊れてしまった」とか、「電池が切れているのではないか」と判断するだろう。「自殺した」とは判断しない。電池が消耗した、部品が破損した、それが原因となって全体の機能に不調が生じた、と考えるのが事態に対しての明晰な認識だと信じるからだ。

したがって部品を修理したり、電池を取り換えれば機能を回復するはずだ、という信念を持ち、機械がオレの生活にとって重要なものであれば、その信念に従って修理屋に修理を頼むか、電池を交換するだろう。機械がオレの横暴な扱いに耐えかねて「わざと」自壊を目論んだのだ、と考えてしまうのなら、オレは自分の気が触れ始めているのではないか、と自問せざるを得ない。要するに、オレはそのような単純な機械に意識の存在を、自殺の可能性を認められないわけだな。

しかし、生物の体も細胞や神経――もっと言えば原子や素粒子――の集合体なのだから、生命現象も機械の範疇に括られるのではないか、と言えなくもねえが、自殺とその他の死を区別している時点で、本書が取り扱っているのは主観的経験と人生の関係、すなわち「意味」の話となってくる。

では「意味」とは何か? それが自殺の問題とどう関わってくるのか? 

ある日、《なぜ》という問いが頭をもたげる、すると、驚きの色に染められたこの倦怠のなかですべてがはじまる。《はじまる》これが重大なのだ。機械的な生活の果てに倦怠がある、が、それは同時に意識の運動の端緒となる。意識を目覚めさせ、それにつづく運動を惹き起こす。それにつづく運動、それは、あの日常の動作の連鎖への無意識的な回帰か、決定的な目覚めか、そのどちらかだ。そして、目覚めの果てに、やがて、結末が、自殺かあるいは再起か、そのどちらかの結末が訪れる。倦怠それ自体にはなにか胸のむかつくものがあるのだが、ここではぼくは、倦怠とはよいものだと結論しなければならぬ。なぜなら、いっさいは意識からはじまり、意識の力によらなければ、なにものも価値をもたないからである。

同書、p.24

ここで言う《機械的な生活の果てに倦怠がある》とは、イメージ的にはミヒャエル・エンデの『モモ』を想起させられるものがあるが、灰色の苦渋に満ちた生活で「オレはなんのためにこんなことをしているんだろう?」と考えるときが《意識の運動の端緒》となるのだろう。

それに《胸のむかつくものがある》のは徒労感に蝕まれているからだ。個人的には避けたい状況ではあるが、カミュはこの心理状態を肯定的に捉えている。ともかくも、そこでは目が覚めているのだから何も見えないよりはましだ、ということだ。

しかし、苦しんでいることに何の意味もないと感じる時、オレはどうするだろう。たとえば、今現在、重篤な病気に罹っているとする。苦い薬を飲む。その苦さは耐えがたく、できれば飲まずに済ませたいけれど、飲まねば病状が悪化する(と医者に聞かされている)から飲む。しかし、この薬に治癒効力は期待できなくて、ただ病の進行を遅らせるだけの代物だとしたら? しかも極めて強い副作用を持っている。病苦に加えて毒のような薬を飲まねばらねえとは!

自殺について考える必然性がこのような時に発生する。この先、なぜ自分がそんな目に合わねばならないのかも理解できない苦悶と悲惨しか待ち受けていない、としたら、これ以上生きて何になるのだ、という気持ちに至ると推測するのは自然だろう。

たとえば、そのような自暴自棄の心境をシェイクスピアの『ハムレット』の一節なんかは上手く表現しているぜ。

眠りに落ちれば、その瞬間、一切が消えてなくなる、胸を痛める憂いも、肉体につきまとう数々の苦しみも。願ってもないさいわいというもの。死んで、眠って、ただそれだけなら! 眠って、いや、眠れば、夢も見よう。それがいやだ。この生の形骸から脱して、永遠の眠りについて、ああ、それからどんな夢に悩まされるか、誰もそれを思うと―—いつまでも執着が残る、こんなみじめな人生にも。さもなければ、誰が世のとげとげしい非難の鞭に堪え、権力者の横暴や驕れるものの蔑みを、黙って忍んでいるものか。不実な恋の悩み、誠意のない裁判のまどろこしさ、小役人の横柄な人あしらい、総じて相手の寛容をいいことに、のさばりかえる小人輩の傲慢無礼、おお、誰が、好き好んで奴らの言いなりになっているものか。その気になれば、短剣の一突きで、いつでもこの世におさらば出来るではないか。それでも、この辛い人生の坂道を、不平たらたら、汗水たらしてのぼって行くのも、ただ死後に一抹の不安が残ればこそ。旅だちしものの、一人としてもどってきたためしのない未知の世界、心の鈍るのも当然、見たこともない他国で苦労をするよりは、慣れたこの世の煩いに、こづかれていたほうがまだましという気にもなろう。こうして反省というやつが、いつも人を臆病にしてしまう。 

シェイクスピア『ハムレット』福田恆存[訳]、新潮文庫、pp.84-85

「いや、それでも」と誰かが反論するかもしれねえ。「それでも自分の努力次第で苦悶と悲惨を避けられるし、いくらかの幸福を掴みとった人たちは現に存在するのだから、彼らを見習えばいいのであって、自殺すべきかどうかを考える必要はない」と。カミュに言わせれば、この考え方は「哲学上の自殺」に当たる。

「この世は生きるに値するか否か」という問題の本質は「苦悶と悲惨を避けられるかどうか」にかかってくるのではない。「オレたちの立ち会っている現実が、どれだけオレたちの理解を超えていて、コントロール不可なものかを思い知っているかどうか」にある。

家族や友人の非業の死に立ち会い、あるいは全財産を失うなどして「どの道いつかは死なねばならぬのに苦しい思いをして生き続けることに何の意味があるのだ」と打ちひしがれているヤツに向かって、肩にポンと手を置きながら「生きている間楽しめるようにすればいいさ」と声を掛けることは、軽薄な慰めでなかったら何だろうか? 仮に逆境を乗り越え、幸福感に包まれた人生を歩んだとして、それは現実の理解不可能性を克服したことになるだろうか? そのような人生にとって死とは何だろうか?

誰も明日がどうなるかもわからない。醒めた意識はそう告げてくる。なんの容赦もなく。要するにその誰かは考えることを放棄し、《あの日常の動作の連鎖への無意識的な回帰》を選んだんだな。

さらに「意識と世界は敵対関係にある」とカミュは言うぜ。

外部世界は《分厚いものだ》ということに気がつき、ひとつの小石がどれほど無縁なものか、ぼくらの世界のものたらしめるのがどれほど不可能であるか、自然が、あるひとつの風景がどんなに激しくぼくらを否定しかかってくるかを垣間見るのだ。いかなる美であろうと、その奥底には、なにか非人間的なものが横たわっている。かなたに連なる丘、空の優しさ、樹々のたたずまい、――それらが、まさしくその瞬間、ぼくらから着せかけられていたむなしい意味を失い、もはやそれ以後は、失われた楽園よりもさらに遠いものとなってしまうのである。世界の原初の敵意が、数千年の時間を超えて、ぼくらのほうへと舞い戻ってくる。

カミュ『シーシュポスの神話』清水徹[訳]、新潮文庫、p.25-26

たとえば、食事を作ったとしよう。その行為は「食べる」という目的のために行われた。もし食べないのであれば何のために作ったのか分からないのだから、目的の達成がその行為の意味を支えていることになるが、ここでカミュの言う《世界の原初の敵意》が介入してくることになる。もし常に目的が達成されるならば、意図が世界を創造していることになってしまう。しかし、そもそもの意図はどこからやってくるのかと言えば、世界からだ。勝手に空腹を覚えるから食事を作ろうとするのであって、その「腹が減った」という意識を意識自身にはどうすることもできないし、腹を満たそうにも何らかの妨害が入ってくることもある。

いや、これでは冗長なたとえ話となっちまうな。そうではなく、いかなる意図も場当たり的な衝動と運に従うしかなく、無目的な繰り返しに過ぎないのだとしたら?

「これ以上生き続けることは無意味である」という判断が自殺の前提になるのは「何一つ報われない」と思っているからだな。世界から拒絶されたヤツにはどこにも行くべきところがなければ、為すべきこともなくなる。

カミュの評論の意図は、自殺の動機を検討することで、オレたちに迫ってくる現実の性質を浮き彫りにし、そこを起点に「生きることの意味の捉えがたさ」と「その認識が行動にどのような影響を与えるか」について考えようとしており、それを《不条理》という有名な言葉で定義しているぜ。

不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。不条理は人間と世界と、この両者から発するものなのだ。いまのところ、この両者を結ぶ唯一の絆、不条理とはそれである。ちょうど、ただ憎悪だけが人間同士をはなれがたい関係におきうるように、不条理が世界と人間とをたがいに密着させている。なにがどうなるか解らぬぼくの生がつづけられているこの途方もない宇宙のなかで、ぼくが明晰に識別できるのはこれだけなのだ。

同書、p.36

理解を超えた事態の中で理解を求めながら生きている…それが《不条理》であり、寄る辺なきこの生において確信を持てる唯一の事実である、とカミュは考える。

意識的でありつづけ、反抗をつらぬく、――こうした拒否は自己放棄とは正反対のものだ。人間の心のなかの不撓不屈で熱情的なもののすべてが、拒否をかきたてて人生に刃向わせるのだ。重要なのは和解することなく死ぬことであり、すすんで死ぬことではない。自殺とは認識の不足である。不条理な人間のなしうることは、いっさいを汲みつくし、そして自己を汲みつくす、ただそれだけだ。不条理とは、かれのもっとも極限的な緊張、孤独な努力でかれがたえずささえつづけている緊張のことだ、なぜなら、このように日々に意識的でありつづけ、反抗をつらぬくことで、挑戦という自分の唯一の真実を証しているのだということを、かれは知っているのだから。

同書、pp.80-81

そして、不条理の認識は反抗の熱情を呼び覚まし、その熱情に囚われた者からは自殺という選択肢が自ずと消えてしまう、と続ける。そもそもの不条理は自分が招いたことではない。その認識が重要である、と。

転んで怪我をした時、非は自分の不注意にあるだろう。しかし、そのような痛みの意識の仕組みを作ったのは自分ではない。オレも竹林に足の小指をぶつけて、痛みを堪えている時、思わず罵声を上げたくなることがあるが、その時、ふと「オレは誰に向かって罵ろうとしているのだろう?」と考えちまうことがあるな。

だから、反抗の熱情が、自殺者においてではなく、死刑囚の中に見出されなければならない理由がここにある。自分の人生にはもはや反復される苦役に擦り切れる魂しか残らぬと感じたヤツはおそらく自殺を欲したくなるのだろう。しかし意味も目的も分からぬ苦役を申し付けられたと感じているヤツは「なぜ自分がこのような目に合わねばならぬのか」を考えたくなるはずだ。自らに与えられた運命を黙認することなく、「なぜ!」と痛切に問うてみること、疑問の火に燃えることは意識の運動の始まりであり、それ自体が不条理に対する反抗だってことだな。

たとえば、オレはよく次のような思考実験をしてみるぜ。砂漠のような荒野を歩いている。どちらへ向かえば街にたどり着けるのか分からない。食糧はなく、救いの手を差し伸べてくれる仲間に出会うこともない。万策尽きた。「自分に残されているのは死ぬまでのあいだ苦しむ時間だけだ」という認識に達した時、どうするだろう。この設定ではまだ希望が残されている。歩き続ければ助かるかもしれないからだ。(何から助かるのかは不明だが。)この試練をより不条理なものにしてみることにしよう。氷河期で、オレが所属していた集団以外のパンダが存在していることをオレは知らず、そしてオレ以外の連中は死に絶えたとする。文字通り、後は苦しむだけだ。

オレは仲間たちの後追いをすべきだろうか? カミュはこの絶望的な状況に対して1つの指針を示してくれている。

もしぼくが、この人生には不条理という顔しかないということを納得すれば、もしぼくが、この人生の均衡は、ぼくの意識的反抗と、その反抗がさながらもがくようにして行われる場である暗黒との果てしなくつづく対立にもとづくことを、身をもって知るならば、もしぼくが、ぼくの自由はその限られた運命との関係においてしか意味がないということを認めるならば、そのときぼくはこう言わなければならぬ、重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだと。

同書、p.87-88

この言葉を読むと、ニンゲンやパンダたちが何万年も存続してこられた根拠の1つを見つけたような気持ちになるぜ。「いかに生きていくか」といった自己実現の悩みの付け入る隙のなかった生活環境で、おそらく何度か絶滅の危機に瀕したであろう、オレたちの先祖が滅亡への道を選ばなかった事実には、やりきれなさを覚えなくもないが、鼓舞させられるところがある。たとえ死が魅力的に見えても、生のことを何もかも分かった気になって愛想を尽かすには、人生は短すぎる。

山頂に大岩を運ぶ苦役を永劫に繰り返さねばならないシーシュポス。カミュはヤツを幸福と見なした。人生から希望を取り除くことは必ずしも勇気を挫くことにはならねえのさ。

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