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[エッセイ]意志についての試論――どこにも行くところがない者のために 2.

前回からの続きだ。

2.意志についての洞察

「意志の強さ/弱さ」「意志が強い/弱い」という表現が為される時、それはおおよそ次の3つの文脈に帰着させることができると思うぜ。

  1. ストレスや苦痛への耐性がある

  2. 孤独を選択できる

  3. 義務を履行できる

の3つだ。これらの文脈を具体的に見ていく前に、西田幾多郎の『善の研究』から意志についての洞察を拝借して、オレの問題意識を整理してみよう。

我々は普通に意志は自由であるといっている。しかしいわゆる自由とは如何なることをいうのであろうか。元来我々の欲求は我々に与えられた者であって、自由にこれを生ずることはできない。ただ或与えられた最深の動機に従うて働いた時には、自己が能動であって自由であったと感ぜられるのである、これに反し、かかる動機に反して働いた時は強迫を感ずるのである(パンダ強調)、これが自由の真意義である。而してこの意味においての自由は単に意識の体系的発展と同意義であって、知識においても同一の場合には自由であるということができる。我々はいかなる事をも自由に欲することができるように思うが、そは単に可能であるという迄である、実際の欲求はその時に与えられるのである、或一の動機が発展する場合には次の欲求を予知することができるかも知れぬが、然らざれば次の瞬間に自己が何を欲求するかこれを予知することもできぬ。

西田幾多郎『善の研究』岩波文庫、p.110

この西田幾多郎の《我々の欲求は我々に与えられた者であって、自由にこれを生ずることはできない》という洞察には、ある種の決定論のような響きがあり、奇異に感じられるヤツもいるかもしれない。

しかし、意識の統覚が様々な生理学的な作用の産物であるならば、たとえ未来を予測し、自己実現的に行為することがあるとしても、欲求は常に《我々に与えられた者》である以上、受動的である。

オレたちは自由に過去を想起し、記憶を一時的に改変することもできる(と感じられる)から、「欲求は受動的」と言われると、これもまた違和感を覚えるかもしれない。たとえば、昨晩に「一人で食事に出かけた」という記憶を「意中の相手と一緒に出かけた」という風に空想してみることはできる。しかし、そういった想像ですらも《最深の動機に従うて働いた》かどうかで《自己が能動であって自由であったと感ぜられる》かどうかが決まる、と西田幾多郎は言っている。嫌いだったり、苦手な相手と一緒に出かけるという想像をすることは不愉快であり、何か特別な動機でもない限り、そのような想像は選択肢から除外されている。それでも敢えて想像しようとすれば、「我慢しながらやる」という《強迫を感ずる》ことになる。

いたって常識的な話に聞こえるはずだ。ところが「意志の強さ」が存在すると考えたければ、意志が強いニンゲンには常に欲求に反する形で行為してもらわねばならなくなる。これは実に倒錯的なアイディアに思える。そもそもオレたちは一体いつ「意志する」ことができるのだろうか?

初めて10mの高さの飛び板からプールに飛び込むときの心的状態を想像してみるといい。不安だ。友人たちから「早く飛び込めよ」と囃し立てられている。ある瞬間に意を決し、飛び込んだ…この時、オレはいつ意志できたことになるのか? 飛び板からジャンプした瞬間? 梯子を昇ってる最中? それとも「チャレンジする」と周囲に宣言した時か? 

落下への不安(や好奇心)と仲間(や周囲の人間)から見下されることへの抵抗感といった情動の競合が刻一刻と発生することで、《強迫》としての意思決定の必要性の認知が生じる。 ニンゲンは単純な欲求にいきなり突き動かされるわけではなく、状況が様々な記憶を喚起し、そこで生じる情動の競合を調整した、ある種のモンタージュのようにして自らの欲求を受け取っている。

それで? 「意志の強さ」が存在することを主張したければ、本来の欲求(恐れや面倒くささなど)と反する意思決定をする際に意志が要請される、と考える立場を取る必要が出てくる。

車を運転している。右に行きたいが、左にハンドルを切る。スピードを出したくないが、スピードを出す。現在抱いている欲求に反する行為をできればできるほど意志が強いことになる。しかし、ハンドルを切ったり、アクセルを踏むことは意志に従属するという立場は、そもそもハンドルを切ったり、アクセルを踏む意志をどこから調達しているのか、という問いに答えられねえんだよな。目的地に向かうために車を運転していて、遅刻したくないから、スピード違反で捕まりたくないから、自分の行動を調整するわけだ。つまり、ある欲求を抑制して、違う行為を選択させるのは、あくまで別の欲求なのであり、「意志の強さ」とやらを想定しちまうと、その意志は現在置かれている状況とは関係なく、無目的にただハンドルを切らせたり、アクセルを踏ませたりする得体の知れない心的過程としか捉えられない。

動機から独立し、自らの注意に従属する形で汎用可能な、行為を選択させる「意志の強さ」というものなど存在しない、がオレの主張ということだ。

「倒れるまで歩き続けよ」といきなり言われても、疲労がやりきろうとする欲求を必ず消滅させてしまうが、「誰かに会いたい」だとか、「何かを届ける」だとか、強い動機や明確な目的があれば、休みつつも歩き続けられるだろう。孤立した人間、他者抜きの生を考えられないのに、他者と敵対している者たちは動機も目的も持てず、生はただただ苦役にしかならない。そんな相手に向って「お前には意志の強さが足りない」と説くことは愚かしい行為に思えてならない。

この前提に立って、「意志の強さ」をめぐる語用例を見ていくぜ。

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