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疫病の歴史に学ぶ。スペインかぜの流行は隠蔽された。13の疫病の歴史を描いた本書が問いかけるものとは。『世界史を変えた13の病』本文より【試し読み】

新型コロナウイルスによる被害が広がるなか、カミュの『ペスト』をはじめ、疫病を描いた本が多く読まれています。2018年に出版され、世界を震撼させた13の疫病の歴史を描いた本書も今ふたたび注目され、版を重ねました。疫病の発祥、拡大期になにが起きたのか、歴史には多くのヒントがあります。


スペインかぜ
第一次世界大戦中のエピデミック


 この病気がスペインのものでないことはわかっている。スペインかぜはほぼ確実に、カンザス州ハスケル発祥の、アメリカの疫病である。二〇世紀最大の疫病の責任をどこかほかの場所(中国からイギリスまで)に負わせようと、いまもなお研究が続けられているのはおそらく、中西部を〝地球のインフルエンザの貯蔵所〟よりも〝アメリカの穀倉地帯〟と呼ぶほうがはるかに聞こえがいいからだろう。
 スペインかぜは根本的に外来の病気だと第一世界は思いたがっているが、エピデミックの最初の症例は、一九一八年三月、カンザス州ハスケルのドクター・ローリング・マイナーによって、週刊誌『パブリック・ヘルス・レポート』に報告された。ドクター・マイナーは、初冬から何十人もの患者が〝重症型のインフルエンザ〟のような病気にかかって死亡したことに衝撃を受けた。患者たちは若く、もともと丈夫だった。人生の盛りで、きわめて健康だったように思われた。マイナーは公衆衛生総局に連絡し、異常な発見について説明したものの、助けは得られなかった。『パブリック・ヘルス・レポート』に記事が掲載されたにもかかわらず、人々はこのアウトブレイクをそれほど真剣に受けとめなかったようだ。
 いい機会だから言っておくと、信頼できる医学雑誌に、あなたの住む地域で空気中の浮遊ウイルスが健康な若者の命を奪っていると思われると書かれていたら、それは非常に悪いニュースだ。ただちにスーパーへ行って、買いだめを始めなさい。人里離れた場所で暮らせるなら、そこへ行くべきだ。そんなのばかみたいだとか偏執病的だとか思うかもしれないが、決して過剰反応ではない。
 だがむろん、当時はドクター・マイナーの賢明なアドバイスに従う者はいなかった。ほとんどの人がインフルエンザを生き延びた経験があったから、無頓着になっていたのかもしれない。一九〇〇年代初期に、インフルエンザについて「まさに天の賜物だ! 全員かかって誰も死なない」と言ったふざけた医者がいた。今日でさえ多くの人が、スペインかぜと聞いて、スペインで一部の人が何もかも吐いてしまうから一、二週間仕事を休まなければならなかったのだろうと考える。たしかに、インフルエンザは厄介だが、命に関わることはほとんどない病気だ。

ホラー小説のようなインフルエンザ

 だがこれは別の種類のインフルエンザだ。ドクター・マイナーは、非常に健康な人、主に二五歳から四五歳の大人の命を次々と奪う病気について述べたのだ。歴史学者のドクター・アルフレッド・クロスビーは、PBSのテレビシリーズ『アメリカン・エクスペリエンス』で、この事象について説明した。「とりわけ恐ろしい要因のひとつが、誰もがインフルエンザというものに対して先入観を持っていたことだ。つらいかぜで、数日経てば起き上がって動きまわれるようになるという。ところがこれは、患者が二×四インチの木材で殴られたかのように寝込むインフルエンザだった。それが肺炎に変化し、患者は青黒くなって死亡する。ホラー小説のようなインフルエンザだ」
 しかし、インフルエンザのよいところは、急速に消え失せることだ。ハスケルは比較的孤立した町だった。ほかのときなら(現代はだめだ。よく考えずにカンザスからニューヨーク行きの飛行機に乗ってしまうだろう)、病気はその地域で食いとめられたかもしれない。だが一九一八年は、その地域の大勢の若者が、第一次世界大戦で戦う訓練をするために、キャンプへ移動していた。
 カンザスのキャンプ・ファンストン(フォート・ライリーの野営地)には、二万六〇〇〇人の兵士が駐屯していて、国内で二番目に大規模な訓練所となっていた。ゆえに、若者を殺すきわめて致命的なインフルエンザにかかった若者が行くのに、二番目に最悪な場所だった。しかも、その冬は「兵舎もテントも超満員」、つまり、兵士たちがひしめきあっていた。三月四日、ファンストンで重症型のインフルエンザのようなものにかかった最初の患者が報告された。三週間以内にそのキャンプで一一〇〇人の兵士が発症し、三八人が死亡した。
 ひどく悪い割合ではないが、健康な二〇歳の若者がインフルエンザで死ぬことは通常、あり得ない。ドクター・クロスビーの著書『史上最悪のインフルエンザ―忘れられたパンデミック』の表によると、インフルエンザの死亡率は、一九一七年は赤ん坊や六〇歳以上の人が最も高かった(感染者の約三〇から三五パーセント)(当時の六〇歳は現代の九〇歳くらいだろうから、高齢の読者も心配しなくていい)。それ以外の年齢層で、当時インフルエンザで死亡する割合は一〇パーセントを切っていた。つまり、年齢と死亡率をグラフにすると、U字になる。だが、一九一八年のグラフは、悪筆のN字を描いた。感染した赤ん坊の約二〇パーセントが死亡し、その後、一〇パーセント未満に減少したあと、一九歳から急激に上昇し始め、中年になると正常域に戻る。一九一八年は、インフルエンザで死亡した患者の三五パーセントが二〇代だった。
 どうやら、このインフルエンザは健康な免疫系が過剰に刺激され、身体を攻撃するようだ。医学用語を使って説明すると、スペインかぜはサイトカインストームと呼ばれるものを引き起こした。サイトカインタンパク質は体内に存在し、感染時に免疫細胞の放出を調整する。健康な免疫系にはその小さな仲間がたくさんいる。サイトカインストームは、免疫細胞が感染箇所に過剰にあふれ、炎症を起こすものである。感染箇所が肺なら(スペインかぜのような呼吸器疾患ではあり得る)、炎症を起こした肺に体液がたまる。そして死亡する。
 若い兵士たちが命を落とす新しい奇病が発生したなら、あちこちでニュースになったはずだと思うだろう。最近、アメリカでエボラ出血熱のアウトブレイクが発生し、総計二名が死亡したときは、何カ月もそのニュースで持ち切りだった。
 だから、アメリカの真ん中で異性愛者の白人の若者の命を奪った病気が見過ごされたのは、異常に思える(そうでない人々を襲った病気は無視してもいいと言っているわけではない。単に歴史的に無視されてきたというだけだ)。一〇〇年前の新聞記者は愚鈍だったのだろうか? 違う。アウトブレイクについて報道しなかったのは、刑務所に入れられたくなかったからだ。

報道規制

 一九一七年、アメリカが第一次世界大戦に参戦すると、モラール法が可決された。「アメリカ政府に対して不実で、冒涜、中傷、罵倒するようなことを発言、印刷、記述、出版すれば」、二〇年間刑務所に入れられる可能性があった。憲法違反の法律に思えるが、最高裁判所に支持され、「現在の明白な危険を社会に示す」ようなことを言ってはならないと裁定された(シェンク対アメリカ合衆国事件)。よって、混雑した劇場で「火事だ!」と叫ぶことも、国民に恐ろしい病気が広まっていて、政府はなんの対策も思いついていないと言うこともできない。
 このふたつの違いは、前者は実際には存在しない火事を前提としていることだ。混雑した劇場で実際に炎が上がっていたら、「火事だ!」と叫ぶべきだ。大声で。人々がどうすべきか決断できるよう知らせる必要がある。「火事だ! 出口ははっきりと照らされている! そこへ進め!」と叫ぶとなおよい(案内係になるのだ)。同様に、国内で恐ろしい新たな病気が猛威を振るっているときも、そのような脅威にいかに対処すべきか有益な考えを得られることを期待して、大声で知らせるべきだ。
 だが、アメリカの記者たちは、二〇年間の懲役を科せられるリスクを負いたくなかった。
 第一次世界大戦中、イギリスのマスコミはより厳しい検閲を受けた。国土防衛法によって、「口頭でも書面でも、陛下の軍や国民のあいだに不満や恐怖を引き起こす可能性のある噂を広めてはならない」とされた。イギリスでは、〝ジャーナリストの反逆者〟は処刑される恐れがあった。
 アメリカの新聞は真実を伝えることになっていたが、同時にアメリカがよく見えるような明るい出来事を報じなければならなかった。今日のニュースにうんざりした人が、いいニュースだけが載っている新聞を読みたいと言いだしたら、ウッドロウ・ウィルソンがその手のことを試したことを思いださせてやるといい。その試みはそれほどうまくいかなかった。ライターのウォルター・リップマン(豆知識:のちに〝冷戦〟という言葉を考案した)は、アメリカに都合のよい記事だけ発表する広報局を作るよう大統領に勧告した。これは、ほとんどの国民が「精神的に子どもで野蛮だ」と、リップマンが考えていたからである。ウィルソンはリップマンのメモを受け取った翌日に広報委員会を設け、委員長にジョージ・クリールを任命した。広報委員会はその後、アメリカを称える無数の記事を配布し、それを新聞が編集せずに大々的に報じた。結局、編集者たちがなんであれ反米家と解釈される可能性があるものを出版することを恐れていたと考えれば、彼らにとっても紙面を埋める記事が手に入るのは喜ばしいことだった。
 リップマンは国民を子どもと見なしていたかもしれないが、子どもだって何が起きているか知っていた。まもなく、次のような童謡が歌われるようになった。

わたしはエンザという名の
 小鳥を飼っていた
 窓を開けたら
 エンザが飛びこんできた
 

アウトブレイク

 スペインかぜは急速に広まった。疫学者のシャーリー・ファニンによると、「ひとりのインフルエンザ患者が大勢の人がいる部屋の前に立って咳をすれば、一回の咳で病気を引き起こす微生物が含まれた無数の分子が空中に飛び、その空気を吸ったすべての人が、病気を引き起こす微生物を吸いこむ機会がある。ひとつの症例が一万の症例に増加するのに、それほど時間はかからない」
 スペインかぜは兵士とともに国じゅうの陸軍キャンプへ移動し、その後海外へ渡った。感染してから二四時間以内に死亡することもあった。だが、仮にもアメリカに存在していたマスメディアは、何も問題はないと主張した。エピデミックのあいだじゅう、(いよいよばかげているように聞こえても)おおむねそのような報道をし続けた。
 一方、スペインは第一次世界大戦中、中立国だった。つまり、スペインのマスコミは、刑務所に入れられたり、非愛国主義と呼ばれたりする心配をせずに、そのインフルエンザと死亡数の増大について報道できた。一九一八年五月二二日、スペインの新聞は、多くの国民がかかっているように思われる新種の病気に関する記事を掲載した。五月は祭日が多いため、集団の全員が病気になると、当初は食中毒の可能性もあると考えられた。五月二八日までに、アルフォンソ国王と、八〇〇万人もの国民が感染した。
 七月には、インフルエンザはロンドンへ向かい、第一週で二八七人が死亡した。それにもかかわらず、イギリスの新聞は、この病気は単なる「戦争疲労と呼ばれる神経の弱体化」と主張した。また、スペインでの流行に懐疑的だった。『ブリティッシュ・ジャーナル・オブ・メディシン』は、インフルエンザは「特に五月のあいだスペインで広がったようだ。当時フランスのマスコミがスペインで八〇〇万人が感染したと報じた。重大な事件を提示しているのはたしかだが、おそらくうのみにはできない」と報道した。八〇〇万という数字は誇張されていた可能性もある。わたしたちには知る由もない。とはいえ、士気を保とうとする戦時中の新聞を、そのまま信じてはならないことは知っている。イギリス軍はその戦争疲労、あるいはのちに「大きなくしゃみ」と呼ばれるようになったものを世界じゅうで伝染させ、まもなくインドや北アフリカでも症例が見つかった。
 秋になる頃には、状況は悪化していた。ジョン・M・バリーは『グレート・インフルエンザ』で、多くの人のあいだで広まったことで、その病気が「より有能な殺し屋」となったと言っている。一九一八年の秋は、しばしばこのインフルエンザの「第二波」と見なされる。

第一次世界大戦中に、
四万人のアメリカ兵士がスペインかぜで死亡した

 アウトブレイクによる死亡者数がさらに増えると、海外でアメリカ軍兵士が不足した。少なくともその理由の一端は、一部の部隊で最大八〇パーセントの兵士がスペインかぜで死亡したからである。米国医師会元会長のドクター・ヴィクター・ヴォーンによると、「この伝染病は戦争のごとく、強健な若者の命を奪った。頑丈な男性は急速、いくぶん唐突に回復するか、死亡する可能性が高かった」兵士たちは軍隊輸送船でヨーロッパへ移動した。その混雑した環境で、感染者は確実に他人にうつした。ウッドロウ・ウィルソン大統領は、さらに多くの若い兵士(最もその病気で死ぬ可能性が高い人々)を海外へ送りだすことに同意した際(一〇月に約二五万人)、側近にこう言ったと伝えられている。「こんな五行戯詩を聞いたことがあるか? 『わたしはエンザという名の小鳥を飼っていた……』」
 これを聞いて、ウッドロウ・ウィルソンは怪物だと思わないだろうか? 映画『ハンガー・ゲーム』(二〇一二~二〇一五年)でドナルド・サザーランドが演じた役にそっくりだからだ。ネタバレになるが、少なくともウィルソンは道徳的にものすごく大きな欠点を抱えていた。アメリカへの移民が、「国民の卑しく不幸な要素」を表すと考えていた。アフリカ系アメリカ人が白人と同じフロアで働かなければならない際は、交わらせないために、アフリカ系アメリカ人を文字どおり檻に入れた(彼らの同僚たちの怒りを買った。なかにはもう何十年も一緒に働いていた者もいた)。公民権運動指導者のW・E・B・デュボイスは、ウィルソンの「人種隔離は屈辱的ではなく有益だ」という考え、特に、一緒に働く異なる人種を分離しようとする強引な試みについて手紙を書き、「アメリカ国民でこのような扱いを受けた集団はほかにないこと、このような処置を提案したアメリカ大統領はあなただけだということをご存じですか?」と尋ねた。ウィルソン大統領は、リップマンのように、基本的にすべてのアメリカ人は平等ではないと考えていた。よって、国民が利用できる情報量を制限するというアイデアをことさら気に入った。
 そういうわけで、ウィルソンは善人ではなかった。兵士の配置に関する彼の決断を正当と思うかどうかは(考察しがいのある理論状況に思える)、第一次世界大戦に勝つことはどんな犠牲をも払う価値があったと考えるかどうかにかかっている。その際、のちにウッドロウ・ウィルソン自身もおそらくスペインかぜに感染し、そのせいでヴェルサイユ条約の和平交渉で充分に力を発揮できず、ドイツが重い罰則を科せられたため第二次世界大戦につながったとよく言われることを念頭に置くべきだ。
 (恐ろしい)ウィルソンをどう思おうと、わたしたちは一〇〇年後の視点から彼の行動を見るという有利な立場にある。ウィルソンは目の前の戦争に集中していた。
 誰もが目の前の戦争に集中していた。
 モラール法がない時代に生きるわたしたちに、アメリカ国民が栄えある第一次世界大戦をどのように考えていたかを想像するのはほぼ不可能だ。若い兵士たちは愛国心が強く、軍隊輸送船に先を争って乗っただろう。文化はドイツ兵と闘うことのすばらしさを示唆した。流行歌「オーヴァー・ゼア」は、若者を次のように励ました。

急げ、遅れるな、今日行け
すばらしい息子を持ったと父親を喜ばせろ
恋人には寂しがるなと
戦線にいる自分を誇りに思えと伝えて

 一方、故郷で待つ女たちは次のように歌った。

ドシン、ドシン、ドシン、兵士が行進している
戸口にいるカイザーを見つけた
レモンパイを取ってきて、カイザーの目をつぶせば
カイザーはいなくなる

 男性の歌のほうがよい歌に思える。レモンパイの歌はまるで、チャーリー・チャップリンと焼き菓子が大好きな子どもが考えた、ファシズムを終わらせる方法のようだ。誰かにパイをぶつけても消えたりしない。もしそうなら、ピエロはいなくなるだろう。
 若者たちは張りきって戦争に参加したかもしれないが、船上でインフルエンザで死ぬことは望んでいなかっただろう。だが新聞は、それについて報道するつもりはなかった。政府も知らせるつもりはなかった。万事うまくいっているから、兵士も国民も何も心配することはないと主張した。ニューヨークの衛生局長、ロイヤル・コープランドは、「それにかかっている歩兵の話を聞いたことがあるだろうか? きっとないだろうし、これからもない……その問題について国民が心配する必要はない」と断言した。
 聞いておくべきだった。第一次世界大戦中に、四万人のアメリカ兵士がスペインかぜで死亡した。比較のために言うと、ベトナム戦争の戦死者数より七〇〇〇人少ないだけだ。ドクター・ヴォーンはのちにこう言っている。「わたしの人生で最も悲しかったのは、陸軍キャンプで何百人もの兵士の死を目の当たりにし、なすすべもなかったことだ。そのときわたしは、医学の偉業を二度と語るまいと心に決め、自分がまったく無知であることを認めた」


エピデミックの隠蔽

 エピデミックを隠蔽するのに、マスコミはますます努力した。九月二六日、『エルパソ・ヘラルド』の記事に、「インフルエンザが流行しているという悪質な噂と闘う」という見出しがついた。水兵たちは故郷に手紙を書き、病気が蔓延しているという噂のことは心配しなくていいと、家族に伝えるよう言われた。
 一方、フィラデルフィア(当時アメリカで最も大きく混雑していた都市のひとつ)では、九月のはじめに、そこに集結していた海軍の兵士に症状が出始めた。九月一五日までに、六〇〇人の兵士が病院に収容された。海軍病院は満員で入りきらなかった。病人はしかたなく市民病院に移され、そこでさらに感染が広がった。
 これは、当局が人々に外出しないよう強く勧告し始める好機だったはずだ。伝染性の高い病気に感染した人々を、ほかの病気にかかった人がいる病院に移さないよう忠告すべきだった。この状況で、大々的な隠蔽工作よりもよい解決策はどれだけあるだろうか?
 いくつもある。
 だが、フィラデルフィア当局は〝大々的な隠蔽工作〟を選んだ。脅威を軽視し続けた。衛生局は市民にあたたかくし、足を乾燥した状態に保ち、人込みを避けるよう勧めた。実際の危険を強調していたら、市民も〝人込みを避ける〟というアドバイスを真剣に受けとめただろう。九月二八日のリバティ・ローン・パレードに大勢の人が詰めかけることはなかったはずだ。ドクター・ハワード・アンダーズ(本書で英雄のひとりとして扱うべき公衆衛生の専門家)は、一連の記者に、パレードの危険性に関する記事を書くよう懇願した。海軍軍医総監に手紙を書き、政府に提出して「国民、並びにフィラデルフィア市民を守ることを要求する」よう頼んだが、無駄だった。
 アンダーズは、パレードに人が集まることで何千人もの市民にインフルエンザが広まると正確に予想していた。各紙は士気をくじきたくなかったため、アンダーズの頼みを断った(アンダーズはそのパレードを「大火災を引き起こす格好の引火性集団」と説明した。この病気によってフィラデルフィアが焦土と化すことのしゃれた言い方だ)。
 その新聞記者たちは、本書では英雄になれない。英雄はドクター・アンダーズだ。「待って、彼はやってはみたけど失敗したじゃない! やってみること自体に意味はない! 〝やってみる〟じゃなくて、〝やる〟か〝やらない〟かよ」とあなたは言うかもしれない。わたしはこう答える。「いいえ、それは違う。世界はヨーダの名言を中心にまわっているわけじゃない。ヨーダはバックパックに住んでるただの小さなモンスターよ。もちろん、やってみることに意味はあるわ」ドクター・アンダーズは人々に警告しようとした。それはほかの誰がしたことよりも価値があった。沈黙していたほうが楽な時代に、正しいことをした。これはわたしの本だから、やってみた彼を英雄と呼ぶ。
 失敗したけれど。
 パレードが楽しかったことを願うばかりだ。その結果は、ドクター・アンダーズの予言どおり、甚大な被害をもたらしたからだ。九月の終わりには、フィラデルフィア衛生局のウィルマー・クルーゼン局長は、「エピデミックはいまや一般市民のあいだで起こっている」と記した。このように認めたことは、正しい方向への第一歩だから、ドクター・クルーゼンはいい仕事をした。あいにく、彼がようやく声をあげた頃には、一日で何百人も死んでいた。一〇月一日、フィラデルフィアで一一七人がスペインかぜで死亡した。それでもなお、一〇月六日の『フィラデルフィア・インクワイアラー』は、病気を防ぐ最良の方法を次のように威勢よく報じた。

清廉潔白に生きる。
インフルエンザの話はしないで……
心配無用。
病気の話より楽しい話をしよう。

 次に、教会や映画館のような、人が集まる公共の場を閉鎖するという、非常に基本的な予防策を残念がった。『フィラデルフィア・インクワイアラー』は一〇月六日に「当局はどうしたいのか? 人々を死ぬほど怖がらせたいのか?」と問いかけた。無関心な態度や清廉潔白な生き方、楽しい考えでは病気を予防できなかった。一〇月一〇日には、七五九人が死亡した。
 秋のあいだに、誰もが病気のことを知っているらしいのに、誰も深刻に受けとめていないような奇妙な時期があった。キャサリン・アン・ポーターの短編、「蒼ざめた馬、蒼ざめた騎手」に、主人公の演劇評論家が、恋の相手である休暇中で一時帰国した兵士を歓迎するシーンがある。

「不思議なんだけど」ミランダは言った。「よく休暇を延長できたわね」
「向こうがくれたんだ」アダムは言った。「理由もなく。とにかく、兵士たちが大勢死んでいる。おかしな新しい病気のせいで。すっかりやられてしまうんだ」
「疫病みたいね。中世にはやったような。葬列をたくさん見た?」
「いや、一度も。まあ、気をたしかに持って、かかりあいにならないように……きみはいい仕事を見つけたね。目のくらむような娯楽場を次から次へと飛びまわって、記事を書くなんて」
「ええ、くらくらしすぎて言葉にできないくらい」葬列が通り過ぎるあいだ、ふたりは立ちどまった。今度はそれを黙って見守った。

 死に取り囲まれているにもかかわらず、人々は自分も感染する可能性があるという事実に、ポーターの小説の登場人物たちのように衝撃を受けたようだ。日々の仕事をいつもどおり明るくこなすことにひたすら集中していた。スペインかぜに関する公衆衛生上の注意のひとつに、「咳やくしゃみをどうしてもしなければならないときは、必ずハンカチや紙ナプキン、なんらかの布を顔に当ててからする」と書かれたビラがあった。これはかぜの場合はよいアドバイスだ。だが、空気感染する命に関わる感染症と闘うには、ハンカチではまったく不充分である。それでも、一〇月一五日付けの『フィラデルフィア・インクワイアラー』の裏ページの見出しは、「科学的な看護によってエピデミックが終結……当局が事態を掌握」と陽気に告げた。それは真実ではなかった。病院の看護師や医師たち(そして、休むことなく働いた修道女やボランティアの人々)の崇高な努力にもかかわらず、エピデミックを終わらせることは不可能だった。入院を必要とする病人全員に対応することさえできなかった。
 馬車がフィラデルフィアの通りを走りまわって、歩道で腐敗している死体を集めた。一四世紀に逆戻りしたのかと不思議に思うかもしれないが、パンデミックが起こると決まって棺の需要が急増し、価格が高騰するのだ。人々は棺を盗むようになった。子どもの死体はマカロニの箱に詰めこまれた。マカロニの箱はいまより大きかったのだ。政府は葬儀に補助金を支給しなかった。ウッドロウ・ウィルソンはマルクス・アウレリウスほど賢明ではなかったから。たとえ自分で棺を作れたとしても、葬儀屋は死体に触れようとしなかったので、家族が愛する者を自分の手で埋めなければならなかった―埋葬できるほど健康な家族がいればの話だが。フィラデルフィア市民は玄関先で、司祭が運転する慈善死体搬送トラックが死体を集めに来るのを待った。死体が山積みになった無蓋のトラックが通りを走っていた。一〇月のあいだにフィラデルフィアで一万一〇〇〇人の死者が出て、トラックが何周もした。
 衛生局長が「共同体の士気に差し障ることはいっさいしない」、「病気よりも恐怖が人を殺す」と主張したシカゴでは、同月、感染者の死亡率が一五パーセントから四〇パーセントに上昇した。文字どおり何もかもを恐れていたとしても、恐怖がそれほど高い殺傷率を持つはずがないと断言できる。バッファローの衛生局長は、「医師は全員、人間の我慢の限界を超えて働いていたため、苦しみ、死にかけている病人が何度も電話したり、医者を呼んだりしたあとで二、三日待つのは普通のことだった」と言った。病人の世話をするために、(まだ医師になるための適切な訓練を受けていない)医学部の二年生が招集された。ニューヨーク市では、九月から一〇月のあいだに三万七三六人が死亡した。ニューヨークの長老教会病院のある医者は、毎朝、病棟へ行くと、重症患者がひとり残らず死んでいたと回想した。毎朝だ。
 エピデミックのあいだじゅう働いたすべての医師とボランティアたちも英雄だ。彼ら全員に勲章が授けられなかったのは手落ちである。
 結局、病気や死と効率的に闘うためにはどうすべきかという明確な指導がなく、士気が低下した。この頃には危機の明らかな証拠に囲まれていた人々が、有益な情報を得ようとしても、何も問題はないという答えが返ってくるばかりだった。新聞が本当の情報を提供したときでさえ、人々はもはやそれを信じていいのか確信を持てなくなっていた。

ネット書店リンク集には以下からどうぞ↓

世界史を変えた13の病
ジェニファー・ライト 著
鈴木涼子 訳
定価:本体2,500円+税
四六判、338ページ

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