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子育てして見えた世界

子供を産んで初めて分かったことがたくさんある。身体ももちろん変化した。使う言葉や道具も変化した。

うんち、おしっこ当たり前。おっぱいはセクシーな言葉じゃなくて食糧を示す。

おむつは育児の必需品で、買い物も激変した。スーパーでは立ち寄ったことのない列に初めて足を踏み入れた。生まれる前から赤ちゃん向けの用品店にも通った。

自分のことを気にかけている時間も激減した。髪型も化粧もパッと見た感じちゃんとしてればいい程度になった。他人は自分をそれほど見ていない。髪を巻くコテもずっと電源すらいれていない。まだ動くのだろうか。

夜、布団に入れば疲れてただ寝る。
しかし自分のタイミングで眠ることも目覚めることも出来ない。予告なしに夜泣きする、朝はお腹が空いたと大泣きする。まるでランダムに爆発する時限爆弾のようだと常々思う。泣くのが仕事と聞いていてもとにかく辛い。

食事も子供中心で考えるようになった。辛い物やアレルギーの心配のあるものは食卓から消えた。そのうち自分が食べたいものが分からなくなった。外食なんて夢のまた夢。

義理の実家と外食へ出掛けてもいつ泣くかヒヤヒヤしているうちに気疲れして自分はほとんど食べれなかった。帰宅して満足そうな夫を横目にカップ麺をすする。


いつも家が散らかっている。歩けば何か踏む。
片付けても片付けても追いつかない。物が多いのではなくていつも何かしら棚から引っ張り出してくる。制止すると大泣きするので注意するのをやめた。無理はお互いにストレスが溜まる。


子どもと出掛けると言っていた夫が子どもが昼寝しているから、外が暑いから、自転車買ってくれたらどこでもいくとあれこれ言い訳して出ていかない。朝早く起きて行ってくれてもいいと思う。


そもそも夕方にいこうとする方が間違いだ。何回言っても分からないのだから本気で連れ出そうとは思っていないのだろう。こんな行動が地味に1番イライラくる。信頼している相手から受ける裏切りのダメージは大きい。


産まれてからテレビもゆっくり見ていない、ドラマを1話観れるのは奇跡で、いつも何かの育児と並行している。いいところで泣いたりうんちの香りがする。

コーヒーは冷める。熱いまま飲み切れることはまぁない。ご飯を食べていると足や背中にまとわりついてくる。ソファーに座れば突進してきてこぼれそうになる。落ち着いて飲めない。

子どもの頃に聞いた「3食昼寝付き」ってなんだろう、少なくとも主婦を馬鹿にした言葉だということは分かる。昼寝する時間はない。3食は自分で作るセルフサービス。


ある日の午前中にベビーカーを押しながら歩いていた。歩道を歩いていても自転車が横をすごいスピードですれ違っていく。視界になんて入っていない、もしくはベビーカーが邪魔だと言わんばかりに走り去っていった。


コンビニに入れば通路が狭くて他の客に気をつかう。もちろんスーパーでもそう。カートを押せないから手にかごを持ってリュックに入る分だけを購入する。だからまとめ買いはできない。平日はこまめにスーパーへ行くしかない。

この時期に抱っこ紐で出掛けるのは親子共々疲弊する。とにかくあれは暑い。熱中症の危険もある。加えて1歳半になると重い。腰が砕けそうになるくらい疲れる。何かの訓練かというくらいの疲れを感じる。

ネットスーパーを使えるほど、この地域は優しくない。高齢者はヘルパーが買い物して調理までしてくれる介護サービスがあっても子育て世帯はそうじゃない。

私は育児をすることを選んだのだから辛いのは当たり前だ。暗にそう言われている気がする。


こんなことを悶々と考えるようになったのは、新聞の川柳投稿欄に「ベビーカー押すその手にはスマートフォン」と書かれていた。一字一句同じの自信はないけれど、ざっくりとした内容はこんな感じだった。

その投稿者の名前から男性ということだけは分かり、なんとなく不快に思った。責められたような気持ちになって言い返すことの出来るはずのない紙面を見つめただけだった。

歩きスマホが問題になっているのは周知の事実で、ベビーカーを押しながらスマホを触ることがどれだけ危険かも分かる。自分だけではなく乗っている赤ちゃんも危険に晒している。確かにベビーカーを押しながらスマホをいじる人を見かけたこともある。

私はベビーカーを押している時にスマホを使う時は立ち止まって触っている。ベビーカーに乗せて歩くと寝てくれる時期があった。家では体力の限り部屋を散らかす我が子もベビーカーに乗って流れる風景を見ているとウトウトとしてくれた。

その時間はすごく貴重だった。多少なりともホッとできた。眠りが深くなったことを確認して公園のベンチに座ってスマホを触る。普段何気なくやっていたネットサーフィンやTwitterで流れる情報を眺めていた。そして休憩は起床した泣き声で唐突に終わる。

そんな姿も赤ちゃんをほったらかしてスマホに夢中な母親に見える。授業中に机の下で携帯を触るように、世間に言い訳をしながらこっそりと触る。なんとなく後ろめたい。


母親になって人間扱いされてないことが多い気がしていた。どれも手垢がついたような議論だけど実際に体験した一例を挙げてみた。


親や友達だけでなく道端でたまたま会った人にも母乳かミルクか尋ねられて無性に嫌な気持ちになった。どっちでもいい。とゆうより母乳?と聞く時にニヤニヤと若干のいやらしさを含んでいて嫌悪感を持った。

何かあればすぐ母親のせいになる。怪我をしたらかわいそう、虫にさされたらかわいそう、泣いていたらかわいそう。その一瞬だけを切り取ってかわいそうと言われる。

靴下を履いていないで抱っこ紐で出かけていたらかわいそう。…かわいそう、かわいそう、かわいそう。かわいそうであふれている。

そんなに哀れんでくれなくてもと思う、
だから少しの間だけ、かわいそうと言われないように努力をした。出かけるまですごく時間がかかるようになり、出掛けていても我が子を見るよりも周りの目が気になった。

すごく疲れるようになってすぐに自分のペースにもどした。かわいそうと言われても自分の子が笑っていればいいと思えるまで時間がかかった。

かわいそうと言う人が何かしてくれるわけじゃない。


他にも「この子は育てやすそうだね」これもよく言われた。義母、実母、道ゆくおばさん。ニコニコと愛想の良い息子は外ではあまり癇癪を起こして泣いたりしない。笑っているか寝ているかだ。
それに私は随分助けられている。買い物中に大声で泣いたりしたことも数えるほどしかない。

ただその育てやすそうという言葉がひっかかった。
育てにくいとされる一面を見た時に疲弊する自分がダメな母親に思えて仕方なくなる。

一見ほめてくれている言葉なのかもしれないけれど、疲れている時に思い出すと、とにかく変な方向から刺さってくる。

こんなことを言うと子連れに何を話しかけていいのか分からなくなると思う。

私だって実際に話しかけきて他人の母親を傷付けているかもしれない。


だからママ友同士の付き合いは最低限のマナーは守るようにしている、見た目や私生活については絶対に話題にしない。話しかけるのは挨拶や天気くらいなもんにしている。

そもそも同じ時期に子供を産んだだけで、気があうかどうかなんて分からないし、その共通点がなければ交わってない人だ。多分同級生で同じクラスにいたとしても友達になれなかったような人もたくさんいる。

お互いの家に立ち入ったりなんかもしないし、夫の職業についても聞かれないかぎり話題にしない。聞かれても若干ぼかして答える。

子供同士が笑って過ごせればいいのだ、と割り切っている。未就学の時点でこんなに気を揉んでいるのかと先が思いやられる。

これはコミュニケーションの積み重ねだと思う。
変なトラブルに巻き込まれないためにも、知らなくていいことは知らなくていい。


なぜ世間の目は母親には厳しく注がれるのだろうか。
赤ちゃんの成長を慮ってのことだけだろうか。
色んなストレスのはけ口に利用されていないだろうか。

理想の母親像を他人に押しつけてないだろうか。

そしてかつて子を持つ前の私はそうではなかっただろうか。


義理の実家との付き合いも増えた。赤ちゃんの時にはイベントが多い。特に義母の言葉には無意味に傷付けられた。嫌な面を見る機会が増えて内心付き合いたくないと思っていた。

産まれてすぐの産院でふるまいや、退院した日のこと、思い出せばすれ違ったことは色々ある。向き合うのがしんどくてスルーしてきた。嫁の方から歩み寄らないと仲良くなれないということを信じすぎていた。

決定的だったのは初節句の時だ。感染症が流行りよく分からないことが多い中世間も神経質になっていた。感染者が出れば速報テロップが流れていた。

両家が集まっての会食はもちろん中止にした。その後は没交渉になりかねない出来事がおきた。

せめてお祝いのお菓子だけでも買っていきますと言われて、店頭に並んでいるものだと感染のリスクが気になった。パン屋の剥き出しで売られているものは気になると言っていた義母も和菓子屋は気にならないと言っていた。

普段からお惣菜も買うのを控えていて我慢をしていた。それをたった1日のことで台無しにされたくはなかった。夫にそれとなく個包装のものを選んでほしいとうまく伝えておいてと頼んだ。

それなのに義母からのメールには、「感染なんてしないよ、そんなに気になるならもうやめますか?大丈夫だと思うけど気にしすぎはよくないよ!」と書かれていた。

返す言葉がなかった。感染症に対する認識の温度差を感じた。5月頃は特に分からないことも多かった。もう神経質でもいい。私から言っても何も響かないと判断した。

うまくやろうと思えなくなって夫に相談して、没交渉まではいかなくても距離をとりたいと言った。その後は夫の働きかけもあって関係は修復された。


父親である夫が子どもと公園で遊んでいたり出掛けたりするときは周りの人に話しかけられたりはしないらしい。お節介なことを言われて不快な思いをしなくていいらしい。すごく羨ましく思った。

きっとあの川柳を詠んだ男性は、ベビーカーを押していたのが男性だったらそもそも句にならなかったのだろうと虚しく思えた。


多分、母親は父親以上にいろんな人から監視されている。見守られているなんていい言葉では表せない生きづらさがある。

無印良品のポチ菓子で書く気力を養っています。 お気に入りはブールドネージュです。