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親ガチャで全ては決まるのか?

最近よく聞く「親ガチャ」なるものに切り込んでみようと思う。

なんとまぁセンシティブっぽいような話題ではあるんだけど、この親ガチャという言葉を使う人の隠された心の奥底を探りたいなと思ったりして。

というわけで早速ずばずば言っちゃいましょうかね。

全ては遺伝

なんか早速結論を出してしまいましたが、最近の遺伝学ではそういう風なことのようです。環境で決まる部分もあるにはあるけど、学力やら身体能力、性格や容姿などほとんどの要素が遺伝で決定されているそうで。

具体的なパーセンテージは詳しくは知らないですが、上記のような要素はおおよそ30-50%ほどは遺伝で決定されているそうです。

指紋や体形などは80-90%とほぼ遺伝という形質に比べてやや少なめではありますが、学力なんかも遺伝で決定されているってのが、考えようによっては怖いですね。

さらにさらに、最近の研究では「努力」する部分ですら遺伝で決まっているそうで。どれだけ努力できるのか?どれだけ粘り強く続けれるのか?も遺伝の度合いが結構あるんだそうな…

これはつまり、親からどんな遺伝子を貰ってるかで能力が決まってしまうという、とても残酷な現実を突きつけられてしまいますね。

なるほど、これは確かに親ガチャという単語が出てきても不思議ではない状況です。全てが決まるのか?という問いに対しては、おおよそはずれではないという答えで良さそうです。

だからどうした?

さて、いきなり全否定な切り替えしをしましたが…私個人の意見としては「だからどうした?」に他ならないんですよね。

そもそも親ガチャというものが成立するとするならば、それ以外のガチャもあって然るべきだと考えています。

となると、まずは「生物ガチャ」があり、何の生き物に生まれてくるのか?というガチャでSSRの人間を引いたことになります。次に「国ガチャ」と「時代ガチャ」が存在していて、どの国のどの時代に人間として生を受けたかも重要になるでしょう。

なんだよその屁理屈!と思うかもしれませんが…いやまぁ実際屁理屈です。しかし私が提出したガチャ要素が屁理屈であるならば、親ガチャも屁理屈の一つにしかなり得ないです。ガチャとして認めたい要素だけをガチャの全てとして語るのはいささか不公平だなぁと感じる次第です。

…とまぁガチャ論理だけをあーだこーだ言っても埒が明かないので、じゃあ一旦親ガチャを認めたとして考えていきましょう。

持てる者と持たざる者

ようは、親ガチャ信仰の言い分としては、生まれてきた時に何を持ってるかで人生が決まり、そしてそこは否定できないだろうという事でしょうね。我々は生まれた瞬間から全てが…とまでは言いませんが、ほとんど決定されてるのかもしれませんね。

ここまで書くと「ほら見たことか!」と思ってる人もいるかもしれません。実際これを書いてる私も、ここは否定するつもりは無いですし、その通りなのかもしれないと思わされるエビデンスもあるわけですし。

ただし重要な事が一つあります。それは「人生が決まっている=不幸」ではないという事に尽きると思います。

これは「イケメンor美人の金持ちに生まれてこなかった、だから不幸だ!」という論理には至らないということです。逆に親ガチャと言ってる人の大半は「自分が何を持っているかで幸不幸が決まる」という思考回路に陥っているとも言えます。

自分から見て親ガチャに成功してそうな人でも、辛そうな人は山ほど見てきています。生まれで幸不幸も決定されるのであれば、親ガチャ成功者は皆幸せでないとおかしいですから。逆に親ガチャ失敗してても、幸せそうに生きてる人も山ほどいます。

ってことで、これほどエビデンスも無く信頼性に欠ける判断基準も無いです。私自身も別に親ガチャが当たりの部類ではないですが、人生楽しく過ごせています…って事言うと「それはオマエが当たりなだけ!辛い人はもっと辛いんだよ!」って反論?を受けそうなものなんですが、結局のその話をし出すと「昔の時代はもっとヤバくて…」とか「今世界でも治安の悪い国が…」と際限なくガチャ失敗事例を掘り出せてしまうんですよね。じゃあ昔の人は今より不幸だったかっていうと…ね?

結局は前の話に戻ってしまうんですが、この手の話はレギュレーションがあやふやすぎて、使い物にならないというのが率直な意見です。

どう使うか?どう感じるか?

親ガチャ信仰者に聞いてみたことがありまして…

私は鳥のような翼が欲しい。
翼があればこの大空を自由に駆け回る事ができて
とても素晴らしい人生だったことだろう。
しかし皮肉なことに私には翼が生えていない。
親に翼が無かったからだ。
親ガチャに失敗した…最悪な人生だ…

と思ってる人が居たらどう思うんでしょうか?傍目から見て率直な感想を申し上げますと「バカかこいつは?」ですよね?

上記の文章を顔や金に変えて考えてみると…?あら不思議、親ガチャ信仰者の言い分に該当しちゃうわけです。

つまり親ガチャを使う人の心理は「ないものねだり」なわけです。

でも人間には翼がないから全人類皆不幸ってのも変な話です。何かを持ってるかどうか?で自分の幸せに繋がるほど人生は簡単でもなければ、単純でもないというのが真理だと思っています。

要は与えられたモノでどう振舞うのか?が重要なんですよね。

変えられないものに対して、変えられないからクソだ!と嘆き不幸な人生を呪うこともできますし、時代ガチャの勝者である現代人は、とても幸せである!と思いこむこともできます。公園のベンチで家もなく何もせずに寝っ転がるだけで幸せだぁ…って思えるのであれば最高でしょうね。

私たちは、持って生まれたものを変えることはできないんですが、その初期にある状態からどのように立ち振る舞うのか?は変えることができます。
そしてその立ち振る舞いの結果、どう思うのか?も変えることができるわけですね。

美貌を持っていてお金持ちに生まれたとしても、周りの人が一家財産を狙う人ばかりで「貴方は何もかも持ってるからいいじゃない」などとケチつける人ばかりに囲まれているなら、どれだけのものを生まれ持っても不幸でしょう。逆にどんなに能力がなくても、誰かの支えになるような活動をして、人に認められ笑顔に囲まれているのであれば、どんなガチャに失敗していようと関係ないでしょう。

親ガチャなどという言葉を使って不幸自慢をしてしまうのは、このSNS時代に蔓延る病気なのかもしれません。いつでもどこでも、誰かと比べられてしまうわけですから。そしてその心の行く先は人生のチートを渇望してるような気すらします。

ところが最近の対人ゲーム界隈でチーターは迷惑がられています。チートして何が面白いんだ?ということで…

人生チートも同じ思想だという事をお忘れなく。

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