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先生の恋を忘れてあげた

毎週水曜、しょっぱい顔をしたピアノの先生の傍ら、しどろもどろで不明な調べを奏でる。それが子供のころ通っていたピアノ教室お決まりの風景だった。そもそも何故ピアノを習いたいなどとせがんだのだろう?若くお金の無い親に買わせたピアノが心に重くのしかかる。あまりに軽率な9歳の頃の自分を呪った。

水曜、一度も練習せぬまま次のレッスンを迎える事が多かった。練習した風を装い、初見の楽譜を手がかりに演奏を試みる。が、先生には全てお見通しだった。毎レッスンごとにもう辞めたほうが良いのではと引導を渡されたが、だからといって先生と険悪だった訳ではない。

真冬のレッスン日。雪で霜焼けになった自分の手を、長くて綺麗な指で包み暖めてくれる。そんな優しい先生だった。が待て。もしかすると冬定番の言い訳「手がかじかんでいるため上手く弾けない」を封じ込める作戦行動だったのかもしれない。‥が、まぁいい。

そんな1984年頃。
世にパソコンが普及する大体15年くらい前、大体小学3年生くらいの自分はコンピューターに夢中だった。父の友人にもらったコンパクトタイプの「ポケットコンピューター」というもので、上部分は小さな液晶画面、下部分にはアルファベットの小さなキーが並ぶ。これにゲームやクイズのプログラムを入力して遊ぶのだ。

その頃先生とはすでにピアノを介在させない人間関係にあった。自分は即、この新しいギアを教室に持参し先生に説明した。ひとしきり感心した先生はプログラムシートの中から「相性診断」を取り出し、次回はこれを入力してきてくれと言う。‥はい先生、承知致しました!

たまには先生の喜ぶ顔が見たい。帰宅しすぐさま「相性診断」の入力にかかった。だが姓名をアルファベット入力し、相性を診断するこのプログラムは長く複雑で、すぐにエラーが出てしまう。辛抱強く修正し、動作確認を繰り返した。

翌週、ピアノのキーには一切触れぬまま教室へ行き、先生に相性診断入りのポケットコンピューターを無事納品した。だが、キー入力に先生は慣れない。代わって自分が姓名を入力する事になった。女の名前は先生の名を。男の名前を聞くと、先生は恥ずかしそうに「AKIHIKO HIRANO」と書かれたメモを手渡した。先生の好きな人は平野というのか。承知致しました。男の名を入力し診断スタート。コンピューターがはじき出した二人の相性は50%だった。先生は少し残念そうにしていた。

半年後、先生から額に入った写真を見せられた。ウエディングドレス姿の先生と、不明な男性が写っている。つい最近結婚したとの事だった。だが先生の新姓は聞き覚えのない初見の苗字だった。

先生、どうして相手は「平野」では無いのですか。あんなに好きそうにしていたのに。その「平野」では無い人のこと本当に好きなんですか?違和感しか無かった。

先生は、今年のうちに赤ちゃんも生まれる、と続けた。ますます色々掘り下げたい気がしたが、流石にそれは大人げないだろう。

そうして自分は「AKIHIKO HIRANO」の事などすっかり忘れたふりをして、ことのほか大袈裟に、先生の結婚を寿いだ。




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