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川の治水と環境,恵みと災いを考える#1(FB過去記事)

2024年の6月下旬に、国土交通大学校の研修講師、土木学会河川技術シンポジウム、土木学会土木史研究発表会公開シンポジウムと、少しだけ分野が異なる3つのコミュニティで講演をさせてもらいました。その過程で、近年国土強靭化5か年加速化事業により治水一辺倒になっている河川管理から、治水と環境の調和のとれた河川管理の時代にシフトするために、色々と考えたことをまとめた雑文です。

この一週間は色々なインプットやディスカッションやプレゼンがあって,いわゆる“忙しい”一週間であったけれども,いろいろな分野の方々を相手に壁打ちさせてもらったおかげで最近考えていたことが多少クリアになったような気がする.

一連のコミュニケーションで自分が感じた違和感や共感を一つ一つ咀嚼しておかないと,また逆戻りしそうなので備忘録としてここに記したい.


この一週間でお会いした集団を出てきた順に,大雑把にクラスタリングすると,国土交通大学校の生徒さん(国の河川事務所の技術者,県の土木職員).この集団をA.現場に近い河川管理者とする.

土木学会の河川技術シンポジウムには,なんとなく多い順に,B.建設コンサルタント技術者,C.主に大学にいる河川工学分野の研究者(この中にも様々なクラスタが…),D.官側の研究者・技術官僚,E.学生といった集団がいたように思う.

土曜日にシンポジウムだけ登壇させてもらった土木学会の土木史研究発表会には,やはりB,C(土木史コミュニティの学),D,Eが異なる比率でいてF.市民(もちろん色々な背景の方)が少し参加されていた.Fは,名古屋界隈におられ土木史研究発表会に参加している学のメンバーと一緒に活動している方々だろう.

全部”土木”ではあるがその中でも分野や属性が異なるコミュニティの水溶液に自分を順番に浸していった結果,私の基本的なスタンスや考え方,主張をまとめると以下4点に集約されるようだ.

1.環境を治水のオマケや制約にする時代は終わり,治水と環境の調和した川の姿を最初から考えるべき状況と道具が(やっと)揃った 河川管理者・河川技術者の仕事が変わる

川の中の物理環境や生物群集を計測・把握する道具が揃い,それを解析できる技術が凡そ揃った.川の三次元的地形や洪水時の水や土砂の流れ方を確かめながら川をデザインできる時代になる.

洪水を流す断面を時代遅れな計算手法で計算して,その計算によって設定した直線だらけの断面に“合わせて”現実の川を真っ平に削ってしまうという愚挙はもう終わりにしよう.

手法がアップデートできないのは,現場の課題もあるが,計算手法と計画論が結びついており,計算手法を変えた際に水位計算等の答えが変わってしまうことなどへの抵抗感やハレーション発生への懸念がありそうだ(これは仕方ないが,これを乗り越える知恵も必要だ).

まずは計画論に抵触しない範囲で,維持管理の中で河川管理者も民の河川技術者も(市民も),その川の姿をどうしていくべきか考えることをしてみよう.

先人が作った直線だらけの200mピッチの断面に合わせて川を殺してく仕事はやめ,自然営力である洪水の作用から,普段の川の姿まで考えながら川をデザインする仕事をしよう.河川技術者は洪水という自然作用も理解した環境エンジニアになっていく.実にワクワクする仕事になっていくのではないか.

前項のような論点を提示すると必ずいくつかの立場から抵抗感が示される.大雑把に3つのクラスタがあった.

まず,治水計画論側からの抵抗感(新たな手法による既存計画との不整合の問題,前述)である.これは国の技術官僚や,計画論を扱っている河川管理者に多い.

計測が高度化し,それに合わせて計算手法が変わることによって得られるメリットよりも既存の計画論への影響を気にしている.計算水位が10-20cm違えばダム計画一つ吹き飛ぶからいい加減なことを言うな,ということをやんわり言われたりもする.それは,治水・利水の計画が,計算モデルや外力の不確実性を無視した決定論的・直線思考的に基づいて組み立てられてきたことによる弊害であって,治水・環境を統合した河川管理を考えることそのものに対する障壁ではない.とはいえ,この課題を乗り越えるロジック(というか現場が安心する知恵)が欲しい.

洪水の規模が激甚化(1.2倍)・頻発化(2倍)といって計画目標を上げようとしているのだからドサクサに計算手法もアップデートしてしまえばいいのに,とは公共の電波では流せなかった.

次に,人命第一主義者とでもいおうか,治水こそが河川管理の目的であって,環境の話をする時間があれば洪水をどうするかの議論に時間を割くべきだという意見.これは防災において危機感をもっている学のベテランの先生に多い.(私はこういった先生方を心の中で“治水モンスター”と呼んでいる.あるいは治水モンスター成分が強い,といった具合).私も決して防災を軽視しているわけではないが,つまり,彼らからすると環境のことを考えている余裕があれば,お前らももっと治水のことを考えろ!というオルグをかけてくる先生方である.

もう一つが,土砂水理学の追求や現象の解明・理解を至上とする尊敬すべき先生方だ.先生方の主張は全くもって正しい.我々研究者は,学としての使命を果たすべきだ.しかし,現場はそうではない.

治水と環境をまとめて議論しようとした際に,現象の記述がどうしても甘くなる(非専門家にもわかりやすい,敷居の低いモデルを使う場面が多い)点について,不満をもっておられる.私ももっとお前は土砂水理を勉強しろと言われる.勉強もしますし,私なりに土砂の問題には取り組んでいます.しかし,現場技術者が欲しているのは最先端の研究成果ではなく,現場で運用できる技術とワークフローだと考えている.学の論理を現場に押し付けてはいけないのだ.

2.河川に関わる仕事の面白さを伝えたい・中堅若手をエンカレッジしたい

河川技術業界・土砂水理業界では若手が育っていないとよく嘆かれる.実際これは嘆かわしいことだ.しかし,河川技術シンポジウムの一日目に繰り広げられた大御所の大先生方の議論を見て,「この業界は面白そうだ」と思った若手は,参加者(会場100名,オンライン400名)の中にいただろうか?私の研究室の学生もオンライン参加していたが,彼らにあらためて月曜日に聞いてみよう.

土木学会水工学講演会の中でも,土砂水理のセッションは怖いことで有名だった.コンサル技術者から研究者になった私は,土砂水理のセッションで認められないとこの業界で生きていけないと思い,厳しいコメントを飛ばしてくる大御所らの前で震えながらプレゼンしたことを思い出す.そこで大御所の先生に「そもそも君の研究は,一体何の意味があるのかわからない!」と正面で声を張られて言われるのである.君たちはもっと勉強しろ!努力しろ!ダメじゃないか!と言われながらこの業界に残ったM属性の高い世代の一人として,言いたい.あなた方のそういう態度が有望な若者たちを魅力あるテーマから遠ざけたのだ.

今回の河川技術シンポジウムで安心したのは,そのように思っていたのは私だけではなかったことである.とくに懇親会の場で中央大学の実力派若手のT先生が小気味良く長老格の先生方の議論の姿勢が現場に寄り添っていない点を一刀両断してくれたのは溜飲が下がった.

私が司会を務めた二日目の朝イチの全体セッションでも,同様の趣旨のことを会場にお願いした.中堅若手がワクワクするような議論をしよう,大御所の先生方は少し発言を控えていただいて,中堅若手にもどんどん発言してもらいたい.参加した人たちの明日からの活力につながるような建設的な議論を呼びかけた.

河川技術者という仕事は,川という魅力的な対象があるにも関わらず,社会正義と使命感に駆られた治水モンスターや,やたら厳しい意見ばかり若手にも社会人にもぶつける悪しき文化によって,有望な若手をみすみす逃すという機会損失を重ねてきた.

水文学業界や,土木史・景観デザイン業界を見ていると,若い人たちが元気にやっている.以前,たまたま日本鳥類学会に出くわしたら,若い人だらけで大層驚いたものだ.

1)に書いたとおり,河川技術者の仕事は,洪水という最も重要な現象を理解しながら,水や土砂や動植物の織り成すダイナミクスに立脚した河川の専門家として,川と人間社会に折り合いをつける,とっても楽しい仕事になっていく.

川の魅力,川に関わる仕事の魅力を一人でも多くの若者に伝えたいものだし,すでにこの業界に入ってくれている中堅若手が希望をもてるような応援をしていきたい.私自身,河川技術者のモデルケースの一人になれるよう自らを高めなくてはならない.

3.河川業界は“災い”と“恵み”のうちあまりにも前者に寄りすぎていやしないか あるいは後者が見えていないのでは

北風と太陽の寓話によるまでもなく,私たちは強制されて退避的に行動することよりも,自らのモチベーションによって何かをしたくなったときに動く.心が動き,体も動くのである.

土木史研究発表会の話題提供とディスカッションの中で,「現代において,水とまちの関係性をとらえなおすことの価値と,課題は?」と熊本大の田中尚人先生に問われたときに考えたこと・発言したことのポイントを振り返ると以下のようである.

まず,氾濫原に立地する都市や氾濫平野のかつての土地利用は,「水」との関係性によって既定されていた.私は普段の水の使い方のことについてはあまり触れず,とくに大水(おおみず)のことを中心に話したが,「川からあふれた水がどう流れるか?」は完全に物理現象なので,これと向き合わざるを得ない水辺の町や氾濫平野の街の骨格,氾濫平野の土地利用には,物理現象である氾濫に対してどう適応しようとしたのかという点において地形との関係性に必然性があるのは当然である.また,氾濫を制御するために様々な仕掛けがなされてきた.

しかし,これらの町の姿や伝統的な土地利用は川の氾濫のうち“災い”の側面だけからなされてきたものではないはずである.川から得られる“恵み”と“災い”の双方のバランスの中で整ってきたものであって,“災い”ばかりを対象にしている水防災の議論は,“恵み”の側面がごっそり視野から抜け落ちている.

土木史というコミュニティには,その両面から読み解きをしてほしい,ということと,時代が変わる中でかつて恵みであったものが恵みでなくなってしまったり,機能が忘れさられてしまって無価値とみなされているものも多くあることに注意が必要で,現代にそれらのレガシー的なものがもつ機能と価値(あるいは意味)をそれぞれの観点から分析する視点が必要だろうと考えた.

恵みと災いの両面からの見方が必要であるという主張は,一人ひとりの生き方やその人がその土地で暮らすことの意味にも関わる問題でもあると思う.私がここ数年で考え方が変わってきたのは,個人の幸せの在り方を考えるようになってからだ.

個人がおのおのの身体感覚を通じてその土地の気候風土とつながり,わかちがたい故郷になっていく.その土地の空気・水・食べ物という最も基本的な“恵み”を得,同じ四季の巡りの中で同じ恵みを享受するコミュニティの中で助け合いながら生きていくという,生物としての人間の根幹に立ち返って“恵みと災い”をとらえなおす必要があるだろう.

“身体感覚”は,川の神・吉村伸一さんの川のデザインにおける根幹的な規範であり,私も川のデザインに関わるときには,常々それを意識するようにしている. “身体感覚”を基調に据えて社会インフラや,河川の在り方を考えると,100年に一度の洪水に備えることも大事だが,日々の暮らしを豊かにしていくことのほうが,ニンゲンとして健全であると私は思う.

4.土木建設業界がいうところの“社会”、“市民”とはなんぞや

社会インフラを扱う社会基盤工学は,とても謙虚な学問で,ここまで地域のため,社会のため,市民のため,といって一生懸命ふらふらになるまで働いている人たちはいないと思う.医療関係者や交通,ライフライン,学校,物流といったエッセンシャル・ワーカーに並び,社会機能を支える重要な職業だ.

しかし,社会基盤関係者は,どれだけ,地域とか市民といったところに具体性や解像度をもってイメージできているだろうか?

私は,世界や日本全国をなんとかしたいとは思っていない.自分が大事にしたい人たちや地域が割とはっきりしている.しかし,各地にそれぞれの地域を愛しそこで生きてこうとする人々とそこで頑張る専門家がいれば,それでいい.(ある先生に,なぜ私が全国大手の会社を早々に辞めたのか?と聞かれて,自分の技術者としての原点を思い出した)

さらに公言すると怒られるが,私は10年後にいない人たちよりも10年先を生きる人たちやその子供たちのための仕事をしたい(過激だが偽らざる気持ち)と考えている.

日本の社会はあまりにもボリュームが大きい高齢者の利害に引っ張られてきた.近年「誰一人取り残さない」という政治スローガンが叫ばれるのは,本当は社会の変化についてこれない人たちを取り残すことを是認しなければ日本が前に進めない情況におかれていることの証左であると思う.

社会基盤に関わる技術者は,もっと自分が大事にしたい地域や大事にしたい人たちのために働いたらいいと思う.そんな風に,大事にしたい人たちや場所が,全国にいくつあっても良い.それは技術者としてとても幸福なことだろう.

以上 最後まで読んでいただいた方,ありがとうございます.
元記事 2024/6/23

(つづく)


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