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うろつきうつろう話

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垂れ流し
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#田舎者

10)オーストラリア、ホームステイ終了。f*ckと叫ぶ香港人との共同生活(25歳)

レイザーラモン家でのホームステイを終え、私は巨大なスーツケースを抱え次の住処へ移動することとなった。 次の目的地は、 ・立地が良い ・家賃が手ごろ ・寒くない が条件である。 ホームステイの次のステップとして一般的なのは「シェアハウス」だ。 アパートや一軒家のオーナーが使用しない部屋を他人に貸し出し、複数名と共同生活することで借り手は家賃を安く抑えることができる...といったもので、オーストラリアではごく一般的な生活スタイルの一つである。 家具つきの物件がほとんどなの

9) オーストラリアのレイザーラモン家(25歳)

私は東京でのサラリーマン生活をやめた。 25歳の時だった。 自分なりに悩んだ末、私はオーストラリアのメルボルンという街に旅立った。 仕事で関わる海外支店の同僚があまりにのんびり暮らしている様子だったので、他国の生活や仕事の価値観を覗いてみたくなったからだった。 なぜオーストラリアかというと、 ・英語圏だから ・たまたま何度か訪れたことがあり馴染みがある ・シドニーは行ったことがあるが、第2の都市メルボルンはない ・メルボルンってなんかおしゃれそう 以上である。基本的にあ

8)初めての就職先、女の営業とは (23歳)

はじめての就職先は、旅行代理店での法人企画営業だった。 自社の既存商品を売り込むというよりは各企業のニーズに合わせ付加価値を与えたうえでサービスを提案する、といった内容だ。 とはいっても提案する機会をまず与えてもらうことが難しく、日中のおもな業務はアポイントメントの獲得である。 新たな顧客となりうる根拠や可能性を無理矢理ひっぱり出したあと、ひたすら電話をかけるのだが、そのほとんどは代表電話で門前払いを受けることが多く、30件かけて1・2件アポが取れればよいほうだった。

7)東京は下着泥棒と満員電車(23歳)

苦しい就活を終え、私は東京の街におりたった。 山など見えない。マイルドヤンキーもいない。正真正銘の都会だ。 東京にいたときは9割がた仕事に費やしていたので仕事以外の思い出があまりない。 東京勤務を言い渡されのこのこ出てきたので、たいした志も無かったのだろう。 東京での初めての住まいは新宿からほど近い、比較的活気のある町に決めた。 「ひとクセあるゆるい街」という感じで、私にとっては住み良い街だった。 この街の思い出といえばまず下着ドロボウだ。 先にも述べたがプライベートが

6)パチンコと就活(22歳)

男性厳禁(だったはず)の家には結局4年近く住んだ。 今振り返っても実家を出てから最も長く住んだ物件となった。 田舎から出てきて5年(編入浪人したため)、私はどう間違えたのかとてもマイルドなヤンキーになりさがっていた。 私にとって見るもの触れるもの全てが新鮮だった大学生活。 しかしここは都会ではなく、大阪の片田舎だったのだ…。 卒業できる程度に授業には出たが、編入してからはほとんどの時間をバイト先のパチンコ屋で費やした。(時給が高いから) 本当にロクでもない。 何か目標

5) 男性厳禁の家なんだからピーヒャラしないでほしい(19歳)

1人暮らしを始めて1年。 19歳になった私はおかしな住民のいる物件から逃げ出す決意をした。 お経を読み始めたり、「コロスゾ」と夜な夜な叫ぶ隣人とこれ以上壁を共有するのは心臓に良くない。 前回の物件探しの失敗を振り返り、 1. 物件は必ず自分の目で確かめる 2. チャラいスタッフのいる不動産へ行かない 3. 叫んだりしそうな隣人がいないか事前に確かめる この3か条をしっかりと胸に刻みつけ、2回目の引っ越しは大学のすぐそばにある小さな不動産屋さんにお願いすることにした。 こ

2)田舎娘は素朴に育つ(3-18歳)

私は都市部から2つほど山を越えた田舎で育った。 村ではないが、立派な田舎だと思う。生まれ育って30数年経つが、いまだほとんど発展していない。 どのくらい田舎かというと、 ・熊がでるので集団下校 ・近所のおばあちゃんが猿に襲われる ・タヌキ・キツネ・キジ・イタチは子供より多い ・道路を横断しようとした亀が轢かれて潰れている ぐらいのレベルなので、クソ田舎と言ってよいと思う。 田舎に「クソ」をつけるのは失礼だが、中学生くらいから徐々に故郷を「クソ田舎」だと感じるようになって外