『美術の物語』8.るつぼの中の西欧美術 (ヨーロッパ 6世紀-11世紀) まとめ

初期キリスト教時代につづく、ローマ帝国崩壊後のこの時代は、一般には「暗黒時代」という不名誉な呼び方で知られている。「暗黒」というのは、民族移動と戦争と動乱の時代を生きる人びとが、暗闇のなかに追いやられ、導きとなる知識をほとんど持たなかったという意味だ。

何より興味深いのは、この時代、全体を統一する明確な様式が現れず、数多くの異なる様式がせめぎあっていたことだ。

この時代はただ暗黒だったわけではなく、多くの民族や階級が多種多様に入り乱れた、つぎはぎだらけの時代だった。

そういう500年間を通じて、学問と芸術を愛し続けた男たちや女たちが-特に修道院や修道会に-いた。

彼らは自分たちの賞賛してやまない古代の学芸を復活させようとした。しかし、彼らの試みは失敗することが多かった。

美術についてまったく違う考えを持つ民族が北方から武装してやってきて、次々と戦争をしかけ、領土を侵害したからである。

ゲルマン系の諸民族-ゴート族、ヴァルダン族、サクソン族、デーン族、ヴァイキング族など-は古代ギリシャ・ローマの文学や美術の価値を知る者にとっては、野蛮人としか思えなかった。

だからと言って、彼らが美に無関心であったとか、独自の美術を持たなかったわけではない。

彼らは複雑な文様好んだが、そこには、竜や鳥のねじれたからだが絡み合う不思議な形が組み込まれていた。

彼らもまた図像(イメージ)を魔術や悪魔払いの手段と考えていたのだ。
※ヴァイキング族の橇や船につけられた竜の彫像の例示

ケルト族のアイルランドや、サクソン族のイングランドで活動した修道僧や伝道師たちは、このような北方の職人の伝統をキリスト教美術に生かそうとした。

彼らの努力が実を結んだ最も見事な例は、7・8世紀のイングランドとアイルランドで作られた、聖書の写本である。
※『リンディスファーン福音書』698年頃 の例示

描かれた十字架はくねくねと絡みあった竜と蛇の組み紐文様で構成されているが、そのレース細工の豊かさは信じがたいほどだ。

いったい誰がこんな文様を考え出したのか、どんな忍耐力と根気をもって作業を成し遂げたのか。とても人間業とは思えない。これをみれば、土地の伝統を受け継いだ作りてたちが、技能において何らかけることがなかったことが証明される。

これらの作り手が人間の姿をどう描いたのか。
※『聖ルカ』福音書写本の挿画750年頃 の例示

描かれているのは、人間の像というよりも、人間の形をした不思議な文様というに近い。

まるで原始的な偶像のようだ。土着の伝統のなかで育った絵描きが、キリスト教の書物の新しい要求になかなか適応できなかった様子が見て取れる。

このような絵をただ粗野だと言って見下すのは間違いだろう。

訓練された手と目によって、彼らは西欧美術に新しい要素をもたらすことができたのだから。

古典古代の美術に関する知識も、まったく失われたわけではない。ローマ皇帝の後継者を自任するカール大帝の宮廷では、ローマの職人技術の伝統が盛んにもてはやされた。

800年ころにアーヘンの彼の大邸宅に建てられた教会堂は、それより300年ほど前に建てられたラヴェンナの有名な教会をかなり忠実になぞっている。

芸術家は「独創性」を持つべきだ、というのが私たち近代人の考えだが、それが昔の人々にはまず通じないことは、いままで見てきたとおりだ。

同じ曲をまったく異なる解釈で演奏することがあるように、中世の二人の巨匠が、同じ主題で、しかも同じ古いいお手本に基づいて、まったく違う作品を作ることだって十分考えられる。

そのことがはっきりわかる例がある
※2つの『聖マタイ』の福音書写本挿画の例示 
 800年ごろアーヘンで制作されたものと830年ころランスで作成されたもの

前者を見ると、昔から尊ばれてきたお手本を、正確に、敬意をもって描き写そうと、この中世画家が全神経を集中させているのが良くわかる。

後者の画家は、自分なりの解釈を打ち出そうとしたに違いない。

聖人の大きく見開かれて飛び出した目と異様に大きな手は、単なる不器用さや無知の産物ではない。描くことに没頭している人の張りつめた表情を描き出そうとした結果なのだ。 

古代オリエント美術でも古典美術でも、古典美術でもなされなかったことが可能になったのだ。

エジプト人はおもに「知っている」ことを描いた。ギリシャ人は「見えているもの」を描いた。だが中世の画家は「感じている」ことも表現できるようになったのである。

「感じている」ことの表現を目指したという点を押さえておかないと、中世の作品を正当に評価することはできない。

聖なる物語の内容やメッセージを、信仰の仲間に伝えようとしていたのだ。そしておそらくこの点に関しては、おそらく、どの時代の芸術家より優れていたのである。
※『弟子を洗うキリスト』の福音書挿画 1000年頃の例示

ここでは、最後の晩餐の後でキリストが弟子たちの足を洗ったというヨハネによる福音書の挿話が描かれている

この(キリストと弟子ペテロの)やり取りだけが、画家にとって重要だった。

だから、出来事が起こった部屋の様子まで描く必要はなかった。そんなことをすれば、話の深い意味がぼやけてしまうかもしれない。

主要な人物を金色に輝く平らな下地のの前に配し、言葉を交わす彼らの身振り-哀願するペテロの動作と穏やかに諭すキリストの仕草-がまるで神聖な碑文のようにくっきりと浮かびあがるようにしたのだ。

画家の関心は、イエスの示した聖なる謙虚さを伝えることにあり、確かにそれは伝わってくる。

わかりやすさを追するこのような傾向は、写本装飾だけではなく、彫刻作品にも表れる。

紀元1000年のすぐあとに、ドイツのヒルデスハイム大聖堂のために注文された、ブロンズ製の扉のパネルを見てみよう。

このレリーフ(浮彫)の場合も、物語の本筋に関わるものしか表現されていない。

肝心なものだけに表現を集中したいために、3人の人物がいよいよくっきりと、平坦な背景から浮き出している。

神はアダムを、アダムはイヴを、イヴは蛇を指していて、それぞれの仕草からは、言葉さえ聞こえてくるようだ。罪のなすりつけと悪の始まりがとても力強く明快に表現されている。

とはいえ、この時代の美術が宗教的理念に奉仕するものだったと考える必要はない。

世俗の作品は忘れられがちなのだがその理由は単純だ。-教会が難をまぬがれても、城は破壊されることが多かったのだ。

(個人の館の装飾品も)運よくいまにのこっている。教会に保管されて生き残ったのだ。

かの有名な≪バイユーのタペストリー≫がそれで、ノルマン人によるイングランド征服を描いたものだ。

このタペストリーは、絵による年代記になっていて、古代オリエントやローマの美術にみられるものと同類の、進軍と勝利の物語を綴ったものだ。

物語は驚くほど生き生きと語られている。

彼(中世の画家)の語る叙事詩は、余計なことが省略され、重要だと思えることだけに焦点があてられている。その結果、このタペストリーは、現代の新聞やテレビが伝える、事実に即した報道より、長く記憶に残るものとなっている。











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