単身中国で勤務(現地採用)

前回からの続き。
リーマンショック真っ只中の2008年9月、僕の営業マン人生がスタート。
会社からの任務は、取扱メーカーの機械、工具を販売する事。
販売すると言っても、何をしたら良いのか分からない。当時のボスからは、日本人商工会の名簿を渡され、そこから潜在ユーザーを開拓してください、と。新規開拓営業という位置づけです。

名簿を渡された僕は、機械を使いそうな企業に次々と電話します。が、なかなかアポイントに繋がらず。電話で自社紹介やら商品紹介しても、相手からしたら、はい?って思うでしょうね。。
当時、アポイントを取るのに必死で、お客様のお昼休みにも電話かけて怒られた事もあります。
何件か電話をかけているうちに、アポイントが取れるようになって来ました。
こちらから話すより、電話相手の話を聞くのが、アポイントに繋がる感覚でした。

アポイントの次は訪問。
訪問したところで、お客様が必要な時期じゃなければ、買う訳が無いのです。
最初は商品紹介して、手応え無ければ世間話をして、そんな感じで、定期訪問を繰り返す。
営業初年度は、ご多分に漏れず全く売れません。
しかし、初年度後半から、定期的に訪問していたお客様から、少しずつ商談が増えていき、1年を過ぎる頃、ようやく1台目の機械が売れました。記念すべき1台目の感動は今でも覚えています。

そこからはポツポツと販売数も増えていくかと思いきや、売れる月、売れない月と不安定な業績を残しました。
売れないと当然、会社からは要らないヤツの烙印を押され、去っていった同僚は数知れず。
僕は、10人弱の営業マンの中で下から数えた方が早い順位でした。いつ肩を叩かれるかの不安感の中で、毎日を過ごしました。
上司からは連日厳しく叱られ、精神的に追い込まれて、嫁さんとの夜の営みもままならない状態でした。今思えば、自分の不甲斐なさ、社会人としての未熟さを、厳しく指導したかったのでしょう。当時は若かったので、怒りしか湧きませんでしたが。。
ようやく安定してきたのは4年目だったと思います。
ここで上司からある提案を受けます。

今回はここまで。
ありがとうございました。

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