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π10万桁暗記爺の"不死鳥は私たちだった”

 〖まえがき〗


私は嘗て円周率10桁暗記記録を出した脳トレマニアの後期高齢者です。

今も日々に暗記の繰り返しや頭脳の在りようにつき考察するのを習慣にしております。

 さて、世の皆さんが次のように主張なさいましょうね。

「頭脳は老衰するもの、認知症が良い例だ」とです、そのように思い込んでいるのですよ、ミゴトなまでに社会全体で。
 
でもですね、しかしソレは“とんでもない錯覚”なのだと私は断言できますよ、頭脳の潜在的可能性につき我が身を以て立証できるゆえにです。

つまりは世の常識から全く逸脱する考察が出来ているようなのでした、”理想的な頭脳の姿”が見え隠れしているという訳ですね。

はい、認知症り患に怯える世人の認識につき根底から覆す論を明解な形で展開し、以て中高年者に希望の燭光を提供できることお約束できますよ。

なお、あえて申して置きましょう。

もちろん私に医学的知識は無ですがしかし“長年も生きてきた一人間の専門家”ではありますからね、となればそんな視点・観点からの考察にも大きな意味があること間違いありませんよ。

ついては、どうぞ期待しながらお読み下さるよう願って筆を進めましょう。

Ⅰ、思考力につき

1,本来的に頭脳は老衰しないもの


題記につき〔神仏〕が誰も彼をもボケたまま昇天させる仕組みを作る訳がないのです、絶対に有りえません。
 
* ここでの〔神仏〕とは“大いなる大自然の摂理”という意味で用いております。
 
ナゼなら、“”長寿・長命を授ける意味が全くない“”ゆえにですよ。
 
死ぬまでの長い間を「恍惚の人 by 有吉佐和子」という人間性を喪失した状態での生命に何の意味がありましょうや、そんなシステムを〔神仏〕が造る訳ないのではありませんか。
 
それなのにナニゆえボケ症状が現れだす?
 
その辺に潜む大いなる矛盾につき、これより滾々(こんこん)と解き明かして参りますが、先ずは始めに世への啓蒙となる一手を提言して置きましょう。
 
さて、「思考力は衰退する、加齢とともに必ず劣化するもの」とは世の常識であり頗るつきなる固定観念ですね。
 
ですが、それはしかし全くの間違いであり極めてマズイ誤謬なのですよ。
 
はい、これより実際には死ぬまで向上するものとの福音的理由を丁寧に説明して参りましょう、試みに皆さんがスーパーマーケット(SM)へ行ったと仮定しますね。
 
{ダイコンの属性は?}
 
さて、先ず手に取ったのはダイコンとしましょう、それにつき次のように思いつくまま問い掛けてみます。
 
①首が青いから名は青首ダイコンなのだね ②もし自分で名付けるとしたら? ③ここに何本ある? ④値段は? ⑤ダイコンの種類は幾つある? ⑥タネ蒔きの仕方は? ⑦肥料は? ⑧手入れは? ⑨収穫日までは何日? ⑩収穫方法は? ⑪料理の利用方法は幾つある? ⑫ダイコンの代わりになる物は? ⑬含まれる栄養は? ⑭依然に食べたのは何時? ⑮幼い頃の母親の味は? ⑯原産地は? ⑰歴史は? ⑱もしもダイコンが無かったら? ⑲葉っぱの利用法はないだろうか? ⑳自分で作るとしたら?
 
以上、20ポイントほどを挙げてみましたよ。
 
さて、”ダイコンへの問いかけ”に難しさは有ったでしょうか、いいえ全く無かったはずですし、それが年齢に全く無関係であることも明白なのではありませんか。
 
はい、考察するか否かは意欲の問題なのですよ、勿論ソレを嫌がり億劫に思うのは今まで頭を使う習慣がなかったゆえのことに過ぎないでしょうね。
 
次に魚売り場へ、更にはビン入りの醤油やカップ入りのインスタントラーメンへと考察対象を替え増やしてみたなら一体どうなりますか。

つまり海産物や工場製品なので思考ポイントが可なり増えましょうね。
 
おー、そうそう買い物カートなどの金属製品も目に付いたので明日はホームセンター(HM)へと足を運んでみませんか。

2,考察は無限に続けられるもの

 {工業製品は項目の山}
 
さー、今回は工業製品だらけのHMへと足を運んで参りましたよ。
 
さて、大勢の人が働く企業で造られたとなれば考察ポイントが野菜や魚の比でないことは一目瞭然なのではありませんか。
 
発案から設計図の作成、幾つもの部品と製作工程を経るなど、関わる関連会社や人数は膨大な数量に成りましょうし、場合によっては原料を外国に求めなければならない物も多いのですよ。
 
私は長年も電気製品メーカーに勤めていたので思考対象のアレコレが直ぐ頭に浮かんでは参ります。
 
はい、つまり次のように設定できて来るのは間違いないのでした、これは絶対論ですよ。
 
※  商品×問いかけ項目=無限
 
しかもですね。
 
考察すればするほど新たな項目を思いつくのも明らかなことにつき、これまた肯定する以外は有りませんでしょうね、疑いようがないのでした。
 
{考察旅行のススメ}
 
さて、中学・高校時代に修学旅行がありましたね。

ならば、ボケはじめる時期にHMへの“考察旅行”をおススメして置きましょう、するとミゴトに頭脳が活き活きとしだすことを保証できますよ、私にはね。
 
はい、改めて心神が蘇って参りますこと請け合って置きたいものですよ、シナプスは使えば使うほど喜ぶこと間違いないですからね、絶対に。
 
逆に言うなら、これまで純粋な思考を行った経験なんぞ一日たりとて無かったのではありませんか、考察に没頭した日なんぞ殆ど無いはずですよ。
 
そうですね、老後の暇つぶしとて世界一周の遊覧三昧に耽るのも良いですがHMで”考察三昧”した方を細胞たちは喜びましょうね、使われてこそ価値が生じるゆえにです。
 
さー、これにより極めて重要なことが明白になったのではありませんでしょうか。
 

3,やはり思考力は無限だった

 {思考力の本質}
 
さーさー、改めて確認して置きましょう、“思考力は無限に続くし強くもなる”とです。
 
しかも嬉しいことにヤハリ年齢には無縁なのですね。
 
私は傘寿のチョッと手前ですが古希時よりも明らかに強力な思考が出来ており、従って90才,100才と齢を重ねても全く衰えはしないと確信してもいるのでした。

さて、それではナゼ“”思考力は加齢と共に劣化する“”との極めてマズイ間違いが世に定着してしまったのでしょうか。
 
コレにつき私は容易にナゾ解きできますよ、何しろ大学教授さえもトップリと浸かっている誤謬ではあるのですが、しかし私がこれより一刀両断でミゴトに説明を付けてみせましょう。
 

Ⅱ、感受性につき

1,衰えるのは“感受力”だった

 {劣化する一方の感受力}
 
はい、先ず以て上記のごとく明言して置きましょう。
 
“多感な時代”との言葉で象徴される若年時の自動的・受動的に発動する“感受性”が薄れて行くのでした、コレに相違ありませんね。
 
中高年者が抱える「今、何をしようとしていたのだっけ?」、「ここへ何しに来たのだっけ?」なんぞとの思いが多発し出すのは感じやすい青年期を過ぎて“感じにくい中年期”へと推移することによって生じる〖気薄れ現象(私の造語〗だったという訳ですよ。
 
その衰弱の仕方が凄いのでした、まるで一気に奈落へと落下するようなもので、それからはドンドンと「あの人の名は何だっけ?」、「あの漢字はどう書くのだっけ?」と、それはミゴトなまでに〖記憶の迷子〗へと変容して参ります。
 
え、“”記憶の迷子?“”

2,“記し憶える”につき

{中年以降は誰もが“記憶の迷い子”に}
 
はい、そうなのでした、〖記憶の迷い人〗ではなく“迷子”なのですよ、記憶力などソモソモ子供の頃から持っていなかったゆえに改めて“迷子になった”という理屈です。
 
つまり道を憶えられなかった子供のままのこと、と改めて思い知らされたという屁理屈ではありますがね。
 
「そりゃウソだ、若い頃はチャンと覚えていたのだから」と誰もが反論しましょう、ですがソレは自然に発動する感受性で覚えていたのであって“記し憶える”という能動的な把握の仕方ではなかったのですよ。
 
{真の“記し憶える”につき}
 
つまり“感じて覚える”という受動的な認識の仕方であって、両者を分かり易く言えば“頭に記し憶える”のと“心で感じ覚える”との違いでありましょうね、もちろん極めて大雑把な言い方ではありますが。
 
さて、この分け方を表現するなら学校生活でのアレコレに例えられませんか、授業での学びが能動的な記憶であり、友人たちとのやり取りは受動的な感覚だったのですよ。
 
そうとなれば能動的に行ったスーパーマーケットやホームセンターでの考察が正しく文字通り記憶に残る理由につき分かって参りましょう、コレなら〖記憶の迷子〗には成りませんよ、絶対に。
 
{感受性の劣化}
 
ですが尚も問題は残ります、では“ナゼ感受性は衰えるのか”とですね。
 
コレにつき逆から皆さんに問いましょう、「何ゆえに“多感な時代”があったのでしょうか」と。
 
はい、日々に心が揺れ動いて悩み多き青少年の頃が何ゆえに設定されているのですか」とですね、つまり感情の起伏が激しく上下し左右される時期が設けられているという事ですよ。
 
えーえー、言ってみれば嵐と晴天が日替わりで襲いかかってくるような毎日だったはずでしたね、もちろん寒風や降雪も大いに有ったのではありませんか、ダレもカレもの人生前半生期にです。
 
あ、いえ、そうじゃありませんよ、人生百年時代の今とあっては“前々半生期=1/4”と言い換えて置かねばならないでしょうね、より正しく言い定めるならばです。
 
※ 感受性が前々半生期で薄れ消えゆくなら残りの”3/4”をカバーするモノが有るはずでしょう、絶対に。

さて、実はですよ、これにつき人間の存在意義から読み解いていくと直ぐにも明確な答えが得らては参りますよ。 

Ⅲ、“人間の存在意義”につき

1,二種の意義

 さて、では何ゆえに多感な時代が設定されているかにつき説明して参りましょう、分かり易くですよ。
 
* なお、これより述べることは生きる意味をも明確に規定されて来るので、日々の生活にシッカリとした指針が得られましょうゆえ貴重な話に成りますこと自信を持って明言して置きます。
 
先ず以てですよ、人間の存在理由には次のような二つがあることから解き起こせば理解が早いはずですね、個々人に課せられた命題がハッキリと見えだしましょうゆえに。
 
〇 人類種の量的発展
〇 人類種の質的向上
 
{両者の対比}
 
つまり多感だった時代とは“人類種の継続”の範疇内ゆえに生じた現象だったと定義できて参りましょう、明確にです。
 
はい、我が身の保衛を図り子作りが無事に出来るような構成だったということですよ、もちろん〔神仏〕の御力による構想上に於いてですね。
 
また一方で次世代作りとは無縁な“天上天下唯我独尊”とばかりに自己の個性磨きに邁進する人々もヤハリ居られましょうが、此方の場合は“人類種の質的向上”への貢献が為されるという理屈になるのではありませんか。
 
そうして、それは個々人の“魂みがき”を介して行われるという仕組みに成っているのでした、磨かれた〔魂〕は勿論、人体の消滅後にこそ大きな意味合いを以て活用されることにつき後ほど縷々解説する予定にて乞うご期待です。
 
※ “量的発展”を促すためにこそ“鋭敏な感受性”が設定されているのだと解釈してみれば、それが自動的・受動的に発生してくる理由が明確に分かっては参りましょう。
 
※ “質的向上”に於いては個々人が能動的に創りだす“興趣力”が大きな意味合いを以て寄与するようになるのでした、作家や芸術家たちの活動が其の証明に成るのではありませんか。

2,人類種の継続

先ずは次の事から論じて参りましょう。
 
〇 人類種の量的継続
 
はい、〔人類種の継続〕が個々の人間に課せられた“第一命題”なのですね。
 
※ これを考察の原点に据えたなら人間の生態上で現れでる事柄の殆どに合点が行くよう成りますよ。
 
そのためには我が身の保衛力を養うのが第一優先となり、次いで異性への強い興味を抱くように出来ているのは間違いないでしょうね、絶対にです。
 
このこと極めて大事なので繰り返して置きますよ。
 
ソレによって次世代の誕生・育成へと導くためであること疑いようもありませんね、そのような認識に立ってみれば人々が見せる本能のアラユル事象が理解できて来るからなのですよ。
 
つまり端的に言うなら“人間の本質中の本質”だったということでしょうね、きっと。
 
{赤子の夜泣き}
 
赤ん坊は夜泣きします、それもイキナリ激しくですね。
 
さて、彼らに泣きだすほどの恐い夢を見る基になる事柄が有りましょうや、いいえ、そんな経験など全くないのですよ、これは絶対にありえません。
 
ではナゼ泣くのか。
 
つまりは〔魂〕から観させられているのは間違いないのですね、それが保衛力の基礎作りになるからではありませんか、コレにつき恐らく間違いはないでしょう。
 
{幼児の恐がり}

また、幼児の恐がり方も尋常ではありませんね。
 
家では母親の脚に纏わりつき、外に出れば父母の背中に隠れる強い人見知り現象もまた我が身の防衛本能から出ていることは間違いありませんでしょうね。
 
遊ぶにしても父母の側でのことばかりなのでした、親が身近いることを常に意識しているのはヨク知られた習性です。
 
{少年期から始まる異性への強い関心}
 
防衛能力の育成制度がシッカリしたものに成りだしたころ今度は異性への関心が強くなり始めましょう、あの衝撃的な初恋現象こそ天啓なのではありませんか。
 
はい、天からイキナリ雷のごとくに降って来る感じなのは誰でも同じなのですよ、きっとね。
 
以上、どれもこれも人類種継続の一大事業に参加させるため仕組んだ〔神仏〕の壮大な計画だという話には成ってまいりましょう、これは納得ですね。
 

3,人類種の質的向上

 成人の生態につき次のような三つの分類と一つの特性者を記述して置きましょう。

{子煩悩、孫煩悩で終始する}
 
さて、親となった人々の生活は子が中心に成りましょう、良き母港となって我が子の順調な人生航路の後押しに勤しむ一方とは成るのでした。
 
はい、子供の順調な成長を望んだ生活とは成ってまいります、それこそ我が人生の充実なんぞよりヒタスラ子の成長に添った日々を繰り返すようになるのではありませんでしょうか、大袈裟に言えばですが。
 
もちろん孫が出来れば尚のこと「目に入れても痛くない」とばかりに身も心も孫守りへと勤しむのでした、殆どの爺婆さんたちがです。
 
※ こんな人たちなのですよ、認知症にり患し易いのはですね。
 
{子を持たぬ人々}
 
子を持たぬ人たちも勿論おられましょう。
 
さて、この方々は自分の人生への充実化に余念がないのではありませんか、子や孫への煩悩がない分ほどソックリそのまま個性の伸長を図って死ぬまで活き活きと過ごされること間違いないでしょうね。
 
つまりは、こんな人たちこそ「魂みがきに勤しもう」と思っているはずなのでした、趣味に没頭するなどしてですね。

これにつき、もちろん極めて雑駁な言い方ではありますが、しかし子煩悩、孫煩悩で明け暮れる人々とは一線を画すこと間違いないでしょうね。
 
恐らく死ぬまで個性磨きに励むことは確かなのでした。

なにせ衰え行く感受性の代替となる“興趣力”が活発になるので頭脳が衰えにくくなるだろうと推察されるゆえにです。
 
{異性への関心を持たぬ人々}
 
個性の充実化を云々するなら、こんな方々こそ特筆すべきなのではありましょう、なにせ世の常識内には入れぬ苦悩を死ぬまで背負って行かざるを得ないゆえにです。
 
男女云々、夫婦云々といった常識が闊歩する社会との軋轢や葛藤は一般人の私たちの想像を遥かに超えるモノがありましょうね、こうして書き綴っている私とて全く理解がない状態であること認めざるを得ないのでした。
 
マイノリティの人が抱える苦悩にこそ余人の測りえぬ底深い心神の困苦が激しく渦巻いていることだけは分かるような気がするのですよ。
 
はい、つまりは、こんな方々こそ可なり“魂みがき”が為されていること間違いないでしょうね、もちろん本人たちがソレを意図する訳ではありませんが。
 
{特性者}

世の中には難病・先天性疾患で苦しんでいる人々も多いものです。
 
厚生労働省の資料を調べた処よく知られた筋ジストロフィーやアトピー性脊髄炎などの他、300件を優に超えるほどもあるのでした。
 
さて、このように理不尽な病がナゼ生じるのでしょうか。
 
いわゆる生活習慣病といった病人自身に責任があるものと違って身に問われる不都合は何もないのですよ、「だから病気に成ったのだ」と責められるような後ろめたい事情は一切ありませんね。
 
その辺に奥深い事情が見え隠れているようなのでジックリと考察してみましょうよ、すると私たち一人ひとりに「人生を如何に生きるべきか」という普遍的課題の解決策が垣間見えてくるようなので。
 

4,特性者につき

特性者につく、もう少し考察を深めてみましょう。

難病ながらも可なり患者の多いものに潰瘍性大腸炎とクローン病というのがあるそうです。
 
かつては極めて稀な病とされていたそうですが近年には何と両方で30万人近くにも成っているそうですからね、もちろん人間社会の矛盾が原因であるのは間違いありませんよ。
 
だが、かつて騒がれた水俣病や足尾銅山の鉱毒など原因が特定できるものは少なく、むしろ様々な食材の不都合点が複合的に絡んでいるのではないでしょうか。
 
さて、難病のアレコレにつき、そんな風に捉えてみれば此の世に蔓延する理不尽の犠牲、生け贄にされているのだろうと推察されては参ります、つまりは未熟社会からのイジメに晒されているようなモノなのだろうと推察されるのでした。
 
なお、ミトコンドリア病などの先天性疾患は国や社会ではなく人類全体の未熟性を背負わされて生まれたことにつき疑いないでしょうね、それ以外に原因を求め得ませんのです。
 
だが、そんな患者たちの日々なる苦痛・苦悩にこそ一般人にはトテモとても持ちえない或る大きな福音が潜んでいることにつき次の項で論じてみましょう、救いはあったのですよ、確かなる救済が。
 

Ⅴ、不死鳥は私たちの魂だった

1,心神が濃密であるほど価値高い

 さて、身体障碍者が日々に直面する困難・苦痛・苦悶こそ〔魂〕を揺り動かし磨き続けているものはありませんね、それはもう一般人の想像を超えること余りありましょう。
 
ならば、それが丸きりムダになるのかと考えてみますに次のような疑問点が浮かんで参ります。
 
「神仏が最も嫌うのは怠惰・怠慢だから、その対極にある“心身困窮者”の存在を無価値に処すること等ないのでは?」とですよ。

※ 生きる困苦の量や質が高いほど〔神仏〕は愛おしんでいるもの。
 
はい、せっかく貸与した生命のムダ使いを厭って生活習慣病という名の懲罰を用意している〔神仏〕ですからね、ならば対極となる先天性疾患者のアレコレを無に帰することもないはずだと捉えてみれば次のような命題が浮かんで参りましょう。

2,気力のエネルギー化

○ 磨かれた〔魂〕はエネルギーを持つのではないか
○ そう言えば“念力”という概念もあるから強い思い{想い、念い}ほど動力源と成ろう
○ それ等のエネルギー糾合したものこそ此の世全体、宇宙丸々の運行を担っているかも知れぬ
○ となれば個々の〔魂〕は〔神仏〕の一片とも定義できては来るようだ
○ 更に言うならアラユル生物の統合されたモノこそ〔神仏〕の本体だったという訳さ
 
かくして〔魂〕の有する深い意味が分かっては参りましょう。
 
※ 不死鳥は私たちの〔魂〕だったということですね。
 
はい、それと意図するか否かを問わずに我が人生の濃密化を図られる人々こそ此の世への貢献が高く為される仕組みに成っているという訳でした。
 

3,約束された来世

 つまりは先天性障碍者を筆頭とする濃密な心神こそが強く高いエネルギーとなって宇宙の運行の担い手とは成って来るという壮大なテーマの下に此の論を展開してきたという訳でした。
 
もちろん私たち一般人とて理屈は同じで、例えば修行僧の日々なる研鑽も“魂みがき”となるのは間違いありませんからね。
 
それならばヤハリ〔神仏〕の申し子として褒美である“”来世の気苦労なき人生“”を当てがわられる仕組みに成っているのだろうと私には思えてなりませんのでした。
 
あ、いいえ、今度は“地球人”じゃないかも知れませんね、地球を遊覧しているUFOの乗員となって僻地のサルを観察しているような立場に成れるかも知れないのですよ。

何しろ、地球なんぞ銀河の中では最果ての島のような物なのだそうだから、それならば地球人は流刑の民なのかも知れませんね、現に「この世は苦だらけ」と思い込んでいる人々も多いゆえにです。
 
なお、そんな希望的視点から次のような宇宙観が想像されて参ります。
 

Ⅵ、宇宙運行につき

さて、宇宙発祥の原点とは何なのでしょうか。

結論から言うならですね、一つの〔魂〕からなのではないかと私は推察しているのでした。
 
はい、この世は先ず以て異次元から持ち込まれた“一つの魂ありき”で生れたのだろうとの想像を楽しんでおります、「一つの魂が分離し、増えてはくっつきの繰り返しで大きくなったのだろう」とですね。
 
その過程に於いて物質が創出されて広大な宇宙が展開されてきたのではありませんか、勿論そのエネルギーこそ生物たちの〔魂〕をも創りだしているのでありましょう、つまり、鶏と卵の関係なのですよ。
 

Ⅶ、人類につき

最後に、人類に関しても考察して置きたいものですね。
 
さて、ずい分と文明は発達してまいりました、もちろん宇宙人と比べたなら雲泥の差は有りますがね。
 
ですがしかし、文化を云々するなら動物並みか以下なのではないでしょうか、工業製品には違いないのだとウソブキつつ未だに殺人兵器を産みだし合っているのですよ、国家通しで。
 
従って当然に未熟で未発達なレベルに見合った業病が生みだされては参ります、時々破壊され続ける自然界からのしっぺ返しから起きるペストやコロナがそうですし、既述した先天性難病も増え続けることは明らかなのでありませんか。
 
はい、それもこれも〔神仏〕の警鐘なのですよ。
 
人類全体に対する脅しなのだと、それは真摯に、それこそ謙虚に捉えて向き合い対処しなければ業病は・・・。
 
医学界は治癒させる方法をばかり思考し研究し薬を生みだしましょうが、それよりもムシロ原因の追求にこそ力を注がねば真の克服には成りませんよ、きっとね。
 
いいえ、もちろんモチロン心ある学者たちは遠の昔から気づいて居られるのですよ、そんな安直な理屈などとっくに見抜いてはいるのですが、しかしこの世の中は・・・。
 
以上にて、ため息つきつつ筆を置きましょう。

と、締めくくり始めましたが最後に大事なことを持ちだしたいものですね。

Ⅷ、ホラ、記憶力は残っていた


さて、SMやHMでの考察を実地に行ったなら、その際のアレコレを殆ど”憶えているはず”ですよ。

はい、意図的に”記し憶える”のでは勿論ありませんが、しかし能動的な行為もシッカリと知覚するのは間違いないので後々まで記憶しておりましょう。

※ つまりは能動性の強弱問題なのですよ、記憶というものは。

要するに、後々まで記憶しているか否かということは身の入れ方、心の込め方次第に過ぎないのでした。

感受力は若年性である”元気クン”の仲間なので中高年時には薄れ行く宿命を持っておりましょう。

だが本来的な意味での記憶力は”通年性である根気クン”の範疇ゆえ年齢不問なので死ぬまで衰えることはありませんよ。

以上、これにて一件落着、メデタシめでたし!

稚拙な雑文を厭わずお読み下さった方々のお優しさに感謝申し上げます!

〖あとがき〗


見出しの”Ⅴ”から”Ⅷ”への落差にお気づきでしょうか。

思考する内容の落差が大きいほど心神の在り方は強く意義深いモノに成って来るので、”Ⅷ”で書き込んだ記憶に関する事柄が頭脳に沁みこんでいるはずなのでした。

これにつき夜の星空を見た場合で分かって参りましょう、深遠な宇宙に思いが向いた後は日常的な有象無象への対処法が安直に思えてくるはずですよ。

つまりですね、”Ⅷ”の事柄を”Ⅱ”や”Ⅲ”で扱っていたなら読んだ方々への刺激度が薄くなっているものと言えるのでした。

どうぞ、そんな風な事をも楽しんで下さるよう願って置きましょう。

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