2024/05/22
いくつかのメモと論文のスクラップ。
アメリカでの心理士をめぐる政治状況の変遷
1930年代:大恐慌、アメリカ心理学とマルクス主義の接近
1930年代の大恐慌時代、心理学者の失業問題が深刻化しました。特に修士号を持つ心理学者が多く、職を見つけることが困難でした。これに対応するため、コロンビア大学の修士号を持つ卒業生が『The Psychological Exchange』というジャーナルを創刊しました。このジャーナルは、ニュースや求人情報、そして心理学が大恐慌の問題にどう対処すべきかについての議論の場を提供した。この活動は、心理学の社会的役割を強調し、心理学者が社会問題に対して積極的に関与するきっかけとなったのです(Harris, 2023)。
1932年4月に発刊された『The Psychological Exchange』は、心理士のための就職活動情報誌の側面を持っていました(今で言うところのマイナビとかリクナビでしょうか)。同誌の初号では、コロンビア大学の修士卒業生に関する目を引く短い告知が掲載されています。
その告知は次のような内容です。
1927年~1931年にかけて、コロンビア大学で心理学の修士号を授与されたのは241名だ。そのうち、アメリカ心理学会(APA)に加入したのはたったの13%のみ。では「残りの87%はどうなったのか?」、「他の人々は心理学の僻地で活動しているのか、それとも他の分野に進んでしまったのか?修士号のための心理学教育はけっきょく何のためになるのか?」
編集者たちの上記のような疑問は現代日本においても重要な問いかけかもしれません。当時の編集者たちはコロンビア大の学科長や学生に向けて、87%の消えた修士卒業生を見つけ出し報告すると約束したのでした(Editorial, 1932)。
当時のアメリカにおいて、心理学は学問界で急成長している分野ではありましたが、あくまでそこは"博士号持ち"の世界。主に臨床を学ぶ修士レベルの心理学者たちは、真の「心理学」は実験室での研究であると主張するAPAから疎外されていました。修士レベルの学生は"運が良ければ"、知的障害者のための施設や職業紹介所、メンタルヘルスクリニック、学校の指導室などでの仕事にありつくことが出来るという状況だったわけです。
臨床家としての心理学者と実験屋としての心理学者には、100年前から隔たりだったようです。
今の日本では文系博士号の就職難も語られて久しいですし、修士卒のほうが就活に有利という意見もみかけます。日本とアメリカの違い、時代の差で状況はだいぶ変わったとはいえ、「何時の時代も院生の就活は大変」ということだけは同じなのかもしれません。
1934年までに、『Psychological Exchange』は共産主義運動で活動する若手心理学者のグループの注目を集め、後に心理学者連盟を結成することになります(1936年に同誌は終了します)。1934年4月には左翼雑誌『New Masses』誌の編集者へのレター欄には、フロイトやマルクス主義心理学について書く無名の活動家があらわれるようにもなりました。その書き手の一人を担っていたサム・コーという27歳の心理学者は、まもなく心理学者連盟の指導者となったのですが、彼は心理学の政治活動について以下のように述べています。
心理学者連盟の創設に貢献することになるほとんどの活動家は、もともとは大恐慌下の1928年から1933年の間にニューヨーク近郊の大学で修士号を取得したものたちでした。恐慌から雇用市場が好転するまでの間、彼らは裁判所や病院、社会サービス機関の研究者や心理テストの管理者になったわけですが、そこで彼らは、マルクス主義の理念が抽象的に指し示していたことを肌で感じたわけです。要するに、経済危機に対する政府の対応は、資金不足で、計画性が乏しく、誤った教育や社会福祉のプログラムのつぎはぎであったということを、身をもって体験したということらしいみたい。こういった経験が、1934年秋に修士号持ちの心理学者の小グループを共産主義活動家たらしめ、心理学者連盟を立ち上げるための組織的活動の基礎となったそうです。
その後、連盟は戦時下において反"反ユダヤ主義"や反ナチズムを掲げて活動していくことになるのですが…39年で成立したヒトラー・スターリンの同盟(独ソ不可侵条約秘密議定書)にために、スターリンの肖像を壁に飾っていた連盟の諸兄は、ヒトラーを表立って非難しづらくなり、活動の足場を失っていきました。
第二次世界大戦の影響と心理学の発展
戦時中の心理学の役割
第二次世界大戦中、心理学者はアメリカ軍に積極的に従事しました。彼らは兵士の選抜試験、トレーニング、戦闘ストレスの管理、戦後のPTSD(心的外傷後ストレス障害)対策など、さまざまな心理的支援を行いました。これにより、心理学の重要性が広く認識されるようになり、戦後の心理学の発展に大きく貢献しました。
帰還兵への心理的支援
戦争が終わると、多くの帰還兵が戦争のトラウマに苦しんでいました。政府はこれに対応するために、心理学者を含むメンタルヘルス専門家の訓練と雇用を推進しました。この時期、心理学者は退役軍人病院や他の医療施設で重要な役割を果たし、臨床心理学の需要が急増しました。
国立精神衛生法の成立
1946年の国立精神衛生法(National Mental Health Act)
1946年に制定された国立精神衛生法は、アメリカのメンタルヘルスケアにおける画期的な転機となりました。この法律は、連邦政府がメンタルヘルスサービスの提供と研究に資金を提供することを可能にしました。これにより、国立精神衛生研究所(NIMH)が設立され、メンタルヘルスの研究とトレーニングプログラムが大幅に強化されました。
メンタルヘルスサービスの拡充
国立精神衛生法の下で、地方および州のメンタルヘルスサービスの拡充が進められました。これにより、コミュニティメンタルヘルスセンターが設立され、地域社会におけるメンタルヘルスケアのアクセスが向上しました。臨床心理士はこれらのセンターで働くことが多くなり、地域社会のニーズに応える役割を果たしました。
臨床心理学の専門職としての確立
専門職の標準化
1940年代から1950年代にかけて、臨床心理学は専門職としての標準化が進みました。APAは臨床心理学のトレーニングプログラムや認定基準を設定し、専門職としての質を高めるための取り組みを強化しました。これにより、臨床心理士は正式な資格を持つ専門家として社会に認識されるようになりました。
科学と実践の統合
この時期、臨床心理学は科学と実践の統合を目指し、エビデンスに基づく実践が重視されるようになりました。心理学者は、臨床実践に科学的な研究成果を取り入れることで、より効果的な治療法の開発と提供を目指しました。
あとはランダムにかく
1960年代~1970年代:社会変動と心理学の役割
社会運動と心理学
1960年代から1970年代にかけての公民権運動や女性解放運動などの社会運動は、心理学の実践と研究に大きな影響を与えました。これにより、心理学者たちはより多様な社会問題に取り組むようになりました。APAもこの時期に多様な社会問題に対する姿勢を変え、より社会的に責任を持つ立場をとるようになりました。
1980年代:レーガン政権とメンタルヘルス政策の変化
レーガン政権の影響
1980年代のレーガン政権は、連邦政府のメンタルヘルスへの資金提供を大幅に削減しました。これにより、州や地方自治体の負担が増し、メンタルヘルスサービスの提供が困難になりました。この時期、臨床心理学者は民間セクターでの活動を増やし、保険会社との関係が重要になりました。
1990年代~2000年代:エビデンスに基づく実践の導入
エビデンスに基づく実践(EBP)
1990年代から2000年代にかけて、エビデンスに基づく実践(EBP)が導入されました。これは、臨床心理学の実践を科学的な証拠に基づけることで、治療の効果を高めることを目指すものでした。この動きは、保険会社や政府機関によっても支持され、臨床心理学の標準的な実践として広がりました。
2010年代:精神衛生改革と新しい挑戦
オバマケアと精神衛生改革
2010年代には、オバマケア(Affordable Care Act)が成立し、メンタルヘルスケアのアクセスが改善されました。この法律により、メンタルヘルスサービスの保険適用が拡大し、多くのアメリカ人が必要なケアを受けやすくなりました。同時に、テクノロジーの発展により、オンラインカウンセリングやテレヘルスが普及し、臨床心理学の新しい形態が生まれました。
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