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夢のあとさき

 雲ひとつない初夏の青空。これから来る夏への理由のない期待。時折そよぐ風。梅雨明けの土曜日の街は、多くの人がどこか嬉しそうな、浮かれていそうな表情をしている。たぶん他の誰かが私を見たら、同じような表情をしているのだろう。
 出会いと男運に恵まれてこなかった私にも、ついにその時が来たんだとしか思えない。ほどよい距離感。1日に1人の時間が数時間でも必要。読書と音楽が好きで、しかも好きな作家も、歌手とバンドもほぼ同じ。
 そんな人が今、私の隣を歩いている。
 今まで付き合った人は、ほとんどが本当にどうしようもない人が多かった。定職に就かずに短期や日雇いのバイトばかりして、稼いだお金をギャンブルで失う人、自分で決断することが苦手で、何を決めるときも、ランチのAコースかBコースかまでも私に委ねてくる人。母親に甘えて頼ってばかりで精神的に自立できない人。私にさんざん貢がせて、浮気相手の方へ行ってしまい、連絡もできなくなった人。まあ、最後は私にも責任があるのは自覚してるけど。
 でも、神様か仏様か天使かご先祖様かわからないけど、やっと巡り逢わせてくれたんだ。
「ちょっと本屋に入ろうか」
 私は笑顔でうんと返した。こんなに自然に、嬉しい、楽しい笑顔、私にもできるんだ。いや、忘れていただけか。
 本屋の中は図書館とは違う静けさで満たされていた。
「欲しい新書があるんだ。先にそっちに行ってみるけど、どうする」
 彼の優しい声が好きだ。
「じゃあ、私は小説コーナー見てる」
「うん。じゃあ、またあとで」
 彼は笑顔で言うと、新書コーナーに向かった。
 小説のランキングを見て、気になった本を手に取っては、数ページ読んで戻す。ランキングには入っていないが、話題の本のコーナーに行くと、すぐに気になった本があった。
『朝の月、夜の虹』というタイトルで、表紙は右上に青空に浮かぶ白い月、グラデーションで左下に向かって濃紺の夜空になり、うっすらと虹がかかっている。
 表紙をめくり、著者近影を見た。
「あ」
 思わず声が出た。そこには、ろくでもない過去の彼氏の中ではかなりましだった人が無表情で写っていた。

 二十代の前半、将来の夢は作家になることだと言っていた人と付き合った。読書好きの私にとって、作家志望の人と会えたことが、それだけで嬉しかった。彼が書いていたものは、いわゆる文芸作品で、純文学でもラノベでもなかった。
「俺さ、恋愛もSFもホラーも人情物も、書きたい物語がたくさんあるんだ。だから、何かのジャンルに特定されるところからはデビューしたくないんだよ」
 そんな彼の作品は、私にとってはおもしろかった。なんでこの人がデビューできないんだろうっていつも思っていた。1年間に2つか3つの新人賞に応募していたけれど、デビューまではいたらなかった。2度最終選考まで残ったけど、その作品も編集部からは出版の声はかからなかった。
 別れは突然だった。彼の実家は代々呉服屋を営んでいたのだけれど、父親が倒れたそうだ。大事には到らなかったけれども、後遺症が残り、それまでどおりに経営するのが難しくなった。弟はまだ高校3年生だったこともあり、長男である彼が父親が元気なうちに店のことを教わりながら後を継ぐことになった。
「しばらく書けなくなる。君とも会えなくなる。ほら、実家、ここから遠いし」
 遠距離での交際も考えたけれど、彼の仕事の邪魔になるかもしれないと思い、私も別れを決めた。
 夢に夢見ていた時だったのかもしれない。彼の夢の中で過ごせた時間は幸せだった。でも、けっきょく容赦ない現実に目を覚まさせられたんだ。
 そう思っていた。

 あれから10年。
 あの人はあきらめていなかったんだ。やっと、やっと夢を現実にしたんだ。
 私は本を抱きしめた。
 そして、泣いた。
 嬉し泣きって本当にあるんだ。おめでとう。良かったね。本当に良かったね。これからも作家でいつづけられますように。
 今の彼が戻ってくる前に泣き止まなきゃと思っても、涙は止まらない。もし今、彼が来たら、いや、泣き止んだ後でも、正直にちゃんと話そう。
 人には忘れられない、もうこの先会うこともない、それでも自分にとって大事な、大切な人がいる。
 彼ならきっとわかってくれるはずだ。
 私は本をいったん戻し、トイレで化粧を直しながら落ち着くことにした。
 鏡の中の自分に微笑み、深呼吸を3回。
 小説のコーナーに戻ると彼が待っていた。
「ごめん、トイレに行ってたの。私も欲しい本があるんだ」
『朝の月、夜の虹』を手に取り、彼と一緒にレジに向かう。
「なんか、すんごい嬉しそうだね」
「うん。ずっと待ってた本なの」
「それ、最近出た本だろ」
「そうなんだけどね。でも、ずっと待ってたの。このあとお茶しよ。そこで話したいことがあるから」
 戸惑っている彼に、私は笑顔で言った。

   終

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