夏のある朝、すいかが届いた。
ドアが開けられないほど、ずっしりとしたスイカだった。
丸々1玉。
一人暮らしをはじめて2週間程経ったが、ご近所周りに挨拶をしてもいないので誰からの贈り物なのかもさっぱり分からなかった。
人違いだったらいけないと思い、そのままにして会社に向かった。
新人の営業マンは覚えることばかりで、まだなにも右も左も分からないままだ。
今のところ覚えたことはネクタイの綺麗な結び方と、愛想の振り撒き方だ。
ネクタイが綺麗に結べたところで、営業のなんの得にもならない。しかし、愛想の振り撒き方で上司には気に入られていると思う。
言葉を使い分けられない人は、少し嫌いだ。
腰を低くしておけばいいのに、自分の言いたいことだけ言う斜め前の同期は少し苦手だ。
人付き合いは社会スキルの差である、というのは自分の中の美学だ。
最初のうちにプライドを持ったって意味が無い。
営業で使う資料の手直しで定時を少し過ぎてしまった。
家族LINEに「これ送ってきてくれた?」と写真付きで送るが返信なし。
夜、帰宅し玄関前にあるまるまるとした塊を見て一瞬怪訝に思ったが、朝の微妙な記憶が出てきて「あぁ」と間抜けな声が出る。
「柴山さんからですかねぇ」
「えっ」
急に声をかけられて振り返ると、猫が後ろ二本足で立っていた。
「柴山さんの実家が、農家さんなんだそうで」
猫が喋った。
パクパクと口を動かすが、驚きのあまり声にならない。
「私も先日貰ったんです、でもまるまる1玉は食べられないわよねぇ」
「は、はぁ」
いや、猫がすいかをそもそも食べられるのか、という呑気な疑問が浮かんだが一旦無視することにした。
「急に話しかけてすみませんねぇ、私308号室の猫田です。」
「どう、も」
じっと三白眼で見られてはっとする。
「あっ、えっと、30、6の絹谷です…」
「絹谷さん?というのねぇ!最近引越しされてきました?」
「そうですね…」
あらあらそうなの、と猫田さんは手元のバックを漁り出した。
人間で言うと、30代から40代の主婦の方のように思えた。
はい、と目の前に出されたのはチュールだった。
「チュール…」
「すみません今手元にあるのがこれしかなくて…、またおすそ分け持ってきますねぇ」
「あぁ、ありがとうございます」
チュールは自分は食べないが、思わず受け取る。
「じゃあそれでは、お仕事お疲れ様でした」
「おおお、お疲れ様でした。」
頭に耳が生えているかどうか気になって、思わず髪の毛を触る。
「あ、そういえば」
「ひゃい!」
振り返る。
「柴山さんは302号室なんです、ぜひすいかの挨拶に行ってみて」
「は、はい…ご親切にありがとうございます」
猫田さんは満足げに帰っていった。
はて、もう一度賃貸契約書を読み返すか?大家さんに電話するか?とか色々考えたが、とりあえずどうにかするのは目の前にあるすいかだった。
誰かから貰ったのが分かったすいかは、とても美味しそうに見えた。
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