苦悩に大きさなんてない

 「夜と霧」(新版、ヴィクトール・E・フランクル、池田香代子訳、みすず書房)の中に、収容所のユーモアという章がある。そこには、こう書かれている。

 ユーモアも自分を見失わないための魂の武器だ。ユーモアとは、知られているように、ほんの数秒間でも、周囲から距離をとり、状況に打ちひしがれないために、人間という存在にそなわっているなにかなのだ。

 フランクルは収容所で、気心の知れた仲間と、毎日義務として最低一つは笑い話を作ろうと提案する。それもいつか解放され故郷に帰ってから起こるかもしれないことを想定して笑い話を作ろうと。

 ユーモアへの意志、ものごとを何とか洒落のめそうとする試みは、いわばまやかしだ。だとしても、それは生きるためのまやかしだ。収容所生活は極端なことばかりなので、苦しみの大小は問題ではないということをふまえたうえで、生きるためにはこのような姿勢もありうるのだ。

 つまり、小さな苦しみだけでなく、「死」のような大きな苦しみだって、ユーモアで解決しうるというわけである。

 たとえば、こうも言えるだろう。人間の苦悩は気体の塊のようなもの、ある空間に注入された一定量の気体のようなものだ。空間の大きさにかかわらず、気体は均一にいきわたる。それと同じように苦悩は大きくても小さくても人間の魂に、人間の意識にいきわたる。人間の苦悩の「大きさ」はとことんどうでもよく、だから逆に、ほんの小さなことも大きな喜びとなりうるのだ。

 もっと言えば、そもそも苦しみに大きさなどないのだ。だから、小さな喜びで、大きな苦しみを消すことができる。ちょっとした笑い話で、アウシュビッツの、目前に迫る「死」の恐怖から逃れられたというわけである。
 コロナ禍の苦悩なども、ユーモアで乗り切っていきたい。


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