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スパゲティ・ミートソースはどこから日本へ?

子どもの頃、スパゲティの味付けは現在ほど種類が豊富ではなかった。だいたいのお店で食べられるスパゲティはナポリタン、ミートソース、ボンゴレの3種類と相場が決まっていた。

ジェノベーゼもマリナーラも、プッタネスカもなかった。日本におけるスパゲティの歴史を調べるとすでにカルボナーラはその頃日本上陸を果たしているようだが、あいにく私の住む田舎町には影も形もなかった。

当然パスタ自体もただ一種類、スパゲティしかなく、タリアテッレもフェットチーネもカペッリーニも存在しなかった。

小学校に上がるかどうかぐらいのとき、ここぞという日に近所の西武百貨店のレストランでよくボンゴレを食べたなあ。おいしかったかどうかは覚えていないけど。

さて、今回はミートソースの話。

ミートソースって何じゃらほい、という話である。

ナンジャラホイって我ながら語彙が古いと思うが、おっちゃんだからそのへんはご容赦願いたい。

つまりこうである。パスタの本場、イタリアではパスタにソースを後がけで提供することはまずない。必ずと言っていいほど、鍋の中で具材とソースとパスタをからめてから皿に盛って提供する。このルールは日本でもナポリタンやボンゴレなどほとんどのパスタソースでは本場同様に守られているが、なぜかミートソースだけはソース後がけ方式を採っている。これはなぜなのか、という疑問である。

そもそもミートソースの原型は何かというと、定説ではイタリア・ボローニャ地方の肉の煮込み料理「ラグー・アッラ・ボロネーゼ」をご当地の平打ち麺「タリアテッレ」と和えたものであると言われている。やはりご本家は和え麺なのだ。

じゃあなぜ日本では和えずに直がけ方式なのか。調べると、どうもこれはスパゲティ伝来の道に理由があるようだとおぼろげながら輪郭が見えてきた。

スパゲティは、大別すると2つの経路から日本に入ってきたらしい。

ルート1 明治以降〜戦前までのヨーロッパ経路

明治維新以降、西洋化を推し進めた日本はやれ鹿鳴館だの文明開化だのと躍起になり、積極的に西洋料理の輸入を始める。このときお手本としていたのはフランス料理であり、西洋料理=フランス料理であった。その中で、あくまでフランス料理のレシピの一部として「イタリア風のこんな料理もあんねんけどなあ」というノリで、スパゲティが伝わった、というものである。

たしかに、1920(大正9)年に著された「仏蘭西料理献立書及調理法解説」なるレシピ本には麺類の欄に「SPAGHETTI」と書かれており、現在のナポリタンに通ずる「スパゲティ・ア・ラ・ナポリテーヌ」なるメニューも存在する。

一方ボロネーゼに関しては残念ながら記述がないが、時代は下って1936(昭和11)年に喜劇俳優の古川ロッパが、東京・数寄屋橋にあった洋食レストラン「ニューグランド」で「スパゲティ・ボロニエス」なる「仔牛肉のたたきの入ったスパゲティ」を食べたと日記にある。たとえ一部の上流階級のみが口にした高級料理であったにせよ、ミートソースの原型は戦前にはヨーロッパ経由で伝わっているのである。

それがなぜ本国と違うソース後がけ方式になったかは、銀座の老舗洋食店「煉瓦亭」の木田浩一朗氏によると「当時、西洋風の肉料理に慣れない人たちには味がくどく感じたため、ソースを混ぜてしまうのではなく、後がけ方式にして個々人で味の調整ができるようにした」とのこと。

これはなるほどと腑に落ちるところがあって、フランス料理経由で伝わったとみられる煉瓦亭のミートソースはじっくり一週間煮込んだドミグラスソースがベースで、なかなか濃厚な味わいであった。戦前の日本人が面食らう味の濃さであったことは想像に難くない。

またカレーライスにしてもそうで、本来は肉料理のグレイビーを入れておくグレイビーボート(ソースポット)にルウやソースを分けて提供することが当時ハイカラな演出であったとも考えられる。

ではナポリタンは混ぜて提供してもくどくなかったかというと、現在のようなトマトケチャップの濃厚なナポリタンが広まるのは戦後、進駐軍がトマトケチャップを普及させて以降のことで、戦前はトマトピューレもしくは生のトマトを使っており、比較的あっさりした風味だったから問題なかった。

このような経緯でソース後がけ方式に、というのがひとつめのヨーロッパ経路説。

ルート2 戦後のアメリカ経路

戦後、ファストフードの国アメリカから、茹でたスパゲティにかけるだけの簡単便利な瓶詰め・缶詰のソースという食文化が持ち込まれたため、ミートソースは後がけ方式になった、という説である。

たしかに遠くイタリアから離れたアメリカでも、ミートソースは混ぜないで後がけ、という傾向がある。アメリカ料理に詳しい研究家の方々に聞き込みした結果、混ぜて提供している店もあり、両者拮抗という状況のようだが。

南イタリア系の移民が多かったアメリカではイタリア料理がかなり歪曲され、庶民の空腹を満たすいわばB級グルメとして広まっていた。戦前まで、ハインツ社などから販売されていたスパゲティ缶ではふにゃふにゃのスパゲティとソースと具(ミンチではなくミートボール)が混ぜ混ぜの状態で缶詰になっていた。

ところが戦後、ニューヨークはマンハッタンのプラザホテルでコックをしていたヘクター・ボイアーディが家庭で簡単に食べられるソースの缶詰を販売し、大ヒット。1950年代に作られたソースの広告を見ると、ソースがパスタに後がけされているイラストが目を惹く。このあたりでアメリカのミートソースも後がけ方式へと変化していったと推測される。

このへんは全く私の想像だが、おそらくシェフ・ボイアーディが自社商品を売り込むにあたって「他社のようなスパゲティ缶ではなく、ソースだけの缶詰ですよ、パスタは別に用意してくださいね、何ならかけるだけで簡単ですよ」という点を強調しようとしてそのようなイラストが描かれたのではないだろうか。

その結果、アメリカでも同様にミートソースは後がけ、という文化が定着し、戦後の日本に持ち込まれたという推測はいささか強引だろうか。

ミートソースという英語名なのもアメリカから持ち込まれた証拠だ、という。またタバスコをかける文化もアメリカ発祥だという。

以上の「戦前ヨーロッパ経路説」「戦後アメリカ経路説」のふたつがミートソース後がけの理由として考えられ、私としては両者ともにあったであろうというハイブリッド説を採りたい。

以上、ソースのはっきりしない話でした。

ミートソース食べたい日に限って白いシャツ着てる、間の悪いオトコより。

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