第20回坊ちゃん文学賞に落選した作品

夜の目

 真っ暗な森をとんでいった私は、今しがた、狼に片腕をくれてやったのだった。感覚のない腕でドアノブを回し、ヨタヨタと歩きながら、暗い世界に光る、ヤツの二つの目のことを思い、冷静になれば、時間を巻き戻し、叩きのめしてやれるのだ。などと考えていた。あの世界は、私によって造られている。そう思うと、勇気が湧いてきた。
 全ては暗闇の中で行われる。コップを取ると、蛇口に触れ、水を注ぐ。ゴクゴクと音を立てて飲み込むと、右腕に血が通ってゆくのを感じた。早くしなければ、朝が来る。今夜を逃すと、ヤツにもう一度会える保証はない。
 よしっ。目も開けずに暗闇の中で来た道をなぞってゆき、寝床に飛び込んだ。自分は森の中にいるのだと、すぐに気がついた。枯れ葉を踏む感触があり、それとは別の音が横から聴こえる。意識して前を見つめ、横に気配を集中させる。来るっ!意識の戻った右腕で手探りに空を掴む。ここにいる!そう念じると、かたい毛が手の中に収まって、次第に熱を感じるようになる。周りがひんやりと静まりかえり、狼が暴れている。残った左手で握り拳をつくると、ひたすら、顔の位置を殴り続けた。
 牙に当たったのだろう。鈍い音を感じて激痛が走り、ああッと声を上げる。それでも右手は離さずに、より一層の力を込めて獣を握る。狼は白い牙を剥き出しにして、苦しそうな声を上げた。それを見て、私は力を取り戻し、何度も何度も殴り続けた。飛び散った血が顔にかかるのを感じたが、左手の痛みは感じなくなった。やがて二つの光が沈んでゆくのを感じた。私が殴り続けたこの獣も、暗闇の一部となり、森にかえった。全ての光が消え、私は進む道を見失った。
 じきに朝がやってくる。そう思って座り込み、下草を触った。艶やかな葉っぱが指と指の間を通って心地がいい。風が吹いて髪を触り、勝者を癒す。月が出てきて青々とした葉っぱを映す。そうして初めて森の様子がわかるのだった。私がいる場所は開けた斜面になっており、ほんの少し先の暗闇から隔離されている。木々の枝が交差してその奥に鳥の動く気配がする。空の月は先ほどより大きくなって近づいて、その光の中に模様が見える。それは私の知っている月の模様とは別のものだった。
 月は素早く動いて半月になったかと思うと二つに分かれていた。鼻先に何か湿ったものが当たり、顔を引っ込めると、次は天から白い柱が二本現れて、私の頭上を超えていく。ふいに背中に激痛が走り、思わず体を反らす。ぐるぐるぐるっと体がなぞられて、身動きがとれなくなった。
 
 男は蛇の口に触れていた。祭壇に捧げられた供物として、痙攣しながら時を過ごした。危機的な警告音が脳を揺さぶりながら強まって、男は眼鏡をかけた。水を一杯飲み、テレビをつけてパンにジャムを塗り、時刻を確認してかじり付いた。スーツを着て歯磨き粉をつけて、ネクタイを通して口をゆすいだ。玄関を閉めて電気を確認すると、鍵を閉めて、エレベエターへと向かう。
 社会の咆哮が渦を巻いて轟く中に、一人の男は片目をつぶって、進んでいった。

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